白雉の微睡

葛西秋

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第一章 不時の王

碧緑の鳥

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 次の日の朝、鎌子は馬を駆って南淵の私邸に出向いた。南淵は既に夜明け前に起床して、遣唐使としての報告書の続きを書いている処だった。

「どうだった」
 南淵は筆を置いて正面から鎌子と向き合うと、知性のある温和な顔でそう尋ねた。
「滞りなく、先生から預かった書を宮廷にお届けし、王からの質問も預かってきました」

 昨日、近習が王からの返事を持ってきたのは、日がすっかり暮れて篝火の火が赤々と石畳を照らす頃だった。鎌子一人の身の上ならばそのまま南淵の私塾近くにある自分の仮住まいにまで帰れたのだが、王の書を預かっている。これは公のものではない、とは近習から聞いていたが、慎重にならざるを得ない。

 なので久しぶりに宮廷近くの中臣の本宅に帰ったのだが、居心地の悪さはこれまで通り変わることが無く、鎌子は夜が明けると早々に南淵の私邸へと向かったのだ。

 南淵は鎌子から王の返書である木簡を受け取ると、軽く伏し拝んでから卓の上に軽やかに木簡を広げた。書かれている文字を追う南淵の目元はすぐに緩んだ。
「やはり王ではなく皇女ひめ様からか。おっと皇女様ではないな、今は王后だ」

 南淵は今の大王おおきみである舒明じょめい天皇の皇后、宝皇女たからのおうじょを以前から知っている。大陸を良く知る南淵は、舒明天皇の后となったばかりの宝皇女に倭国の外交を教える一人として仕えた時期もあったらしい。
 木簡に書かれた字を追う南淵の顔は、孫娘の手を見る穏やかさだった。
「唐で女子はどのような着物を着ているのか、布は、飾りは、美味しいものは、といかにも皇女様らしい。もっともこのようなことは他の遣唐使には聞けまい。鎌子、次の報告書を持っていく時にいくつか唐の布を持っていて欲しい。皇女様が好みそうな小物もあったはずだ」
「わかりました」
 南淵はそう答えた鎌子の顔を眺めた。
「鎌子は大井宮に行くのは嫌ではないのか。学問の時間を削られたくない、と渋られるのかと思っていたが」
 己の内心を見透かされたように感じた鎌子は、南淵に雉子のことを話すべきかと迷った。だが雉子が舎人の目を逃れて衝立の後ろに隠れていたことを思い出せば黙っていた方が良さそうだった。
「……いえ、そのようなことはございません。先生が使っておられた部屋の書物を読ませていただいておりました。充分に勉強できたのですが、先生の蔵書を勝手に開き申し訳ございません」
「おお、そう云えばまだこっちに持ってきていないものがあったな。構わん構わん」
 南淵は鎌子のささやかな隠し事には気づかないまま、口調を少し改めた。
「鎌子、少しずつでよいから宮廷の雰囲気に慣れておくが良い。近いうちにお前の任官を王に願い出ようと考えている」
 思いがけない、けれど心のどこかで期待していた南淵のその言葉を聞き、鎌子は深く拱手して南淵に感謝の意を表した。

 鎌子はかつて、成人を機に王から命じられた宮廷への仕官を断った過去があった。
 中臣の跡継ぎであった鎌子が王の任命に応じるということは、宮廷祭祀を担う中臣の家業を鎌子が継ぐことを意味している。
 当時十六歳だった鎌子は南淵の塾に入って百済や隋から渡ってきた学問を学び始めたばかりだった。整然と漢字で綴られ体系化された渡来の学問に比して、文字に起こされてすらいない古来からの祭祀祭礼は、ひどく古めかしく時代遅れだった。鎌子にとって神祇官はひどく退屈な仕事に思えた。

 そんな考えに捉われて、若さゆえの頑強さでせっかく声のかかった仕官を拒否したのはいいものの、結局鎌子には二十八歳になる今までにそれ以外の役職への声はかからなかった。けれど南淵が自身の後継として鎌子を推薦してくれるのなら、宮廷内でも鎌子の希望である学問に近い職に就くことができるかもしれない。
 南淵は、鎌子が宮廷に仕えることを受け入れる意思を読み取って、師匠というよりは慈父の眼差しで鎌子を見た。鎌子は見慣れた師匠の姿に、どこか影の薄さを感じた。
 それは南淵が八十歳を過ぎた高齢であるだけでなく、大井宮で会った雉子の姿が鮮やかに脳裡にあったからかもしれなかった。

 五日後、鎌子は再び南淵の使いで百済大井宮に向かった。
 報告が記された木簡は鎌子の馬に積み、南淵から持たされた唐の布や小物は従者の馬に預けた。今日、鎌子が身に付けているのは中臣の邸宅から届けられた濃紫の衣だった。鎌子が大井宮に通い始めたことを知った父が寄こしたのだ。
 それがもし中臣の正装である神祇官の装束だったら鎌子は着ないつもりだった。実際は官人の着るような無難なものだったので、母から意見があったのだろう。

 衣の濃紫はあまりに濃くて屋内では黒にも見間違えるが、陽の光が当たると赤みを増した。良い染料で何回も手間をかけて染められた上質の布だった。
 母はいつからこの衣を用意していたのだろうか。
 家業を継がず家にも帰らない我が子をずっと案じていたであろう両親の心に、鎌子は改めて感謝した。

 ケン、ケン

 朝靄の中、馬を早足で進ませるうちに道脇から雉の鳴く声が聞こえてきた。五日前に同じ道を通った時より格段に秋の気配は色濃く、草の葉には夜の露が水滴をいくつも作っている。

 ケンケン、ケン

 草の葉を震わすような大きな声で雉がまた鳴いた。思ったよりも近くにいる。そう思っていると、ふいにガサガサと草むらが割れて今まで鳴いていた雉が目の前に飛び出してきた。

 光沢ある鮮やかな緑色に灰褐色の長い尾。深まる秋と共に真赤に染まった顔。羽毛の艶も見事な雄の雉が怯える様子なく、自分の縄張りに侵入してきた鎌子を睨んできた。

 弦を引く強さ、獲物との距離。
 狩りで鍛えた弓矢の感覚は無意識に鎌子の指を微かに動かした。

 目の前の雄雉は眼光鋭く鎌子を睨んでいたが、やがて気が済んだのか悠々と歩いて草むらの中へと姿を消した。

 路上でのそんな雉との出会いがあったので、大井宮の南淵の部屋に入ってからすぐ、声もなく戸を叩きもせず唐突に部屋の中に入ってきた雉子に鎌子は微笑を隠せなかった。雉子の姿やふるまいがその名の通りにあの雄雉に似ていたのだ。
 先日は生成りの白い衣服だったが今日の雉子の衣は若草色だ。色まで雉に似ている。
 雉子は自分を追う鎌子の視線を意に介さずに部屋の奥までずんずんと進み、勝手に衝立をずらして長椅子に座った。ここを自分の定位置に決めたようだ。
 椅子の上に足をあげてくつろぐその様子すら、満足げに羽を膨らませる鳥のように見える。

 鎌子は、今日は最初から用意されていた卓の上の水差しを取り、杯に水を注いで雉子に渡した。
「どうぞ」
「鎌子の来ない間、ほんとうに退屈だった」
 雉子は杯を受け取りながら屈託なくそう言った。
「何かやることは無かったのですか」
「勉強しろ、教典を覚えろとは毎日言われているけれど、興味を持てないことをやらされるのは退屈以外のなんでもない」
「大人に言われたことはやっておいた方が良いですよ」
 鎌子の言葉を聞いて、雉子は自分のみずらに結った髪を指で抓んだ。
「早く成人したいのに、まだ駄目だといわれるんだ」
「勉強が足りないと思われているからでしょう」
 不満をすべて言い返された雉子は鎌子を睨んできた。その鋭く澄んだ目が、やはり先ほど見た雄雉に似ている。まさか自分が雄雉に比されているとは気づかなくても、鎌子の小言が本心ではないことを雉子は見抜いていた。
「鎌子、この前の続きを」
 雉子の不満も結局はただの甘えに過ぎず、雉子は涼しい顔に戻って鎌子に命じた。
「今日は何を書きましょうか」
 可笑しさをこらえて鎌子は雉子に応えた。
「六韜とやらの続きを」
「ではこれはどうでしょう」
 鎌子は用意していた筆と墨で木簡に六韜の一節を記した。

 ――故用兵之具 盡在於人事也 善爲国者取於人事 故必使遂其六畜

「兵器はすべて人々の日常の生活の中に有ります。農具の他、馬、牛などの家畜もそうです。何を戦時の武器として使うか、また何を戦時の備えとするのか、統治者はすべてを把握する必要があります」
「軍を動かす将はただ兵を動かそうとするだけではなく、兵が使える武器を知り、準備する必要があるんだな。そういえば鎌子は弓を使うと云っていたが剣は使えるのか。なあ、今度剣の練習をしてみないか」
 雉子は理解も考察も敏いのに、時折年相応の言動をする。
 大人として扱うべきか、子どもとみて手加減するのか。相手の大人の態度によって雉子は全く言うことを聞かなくなることもあるのだろう。
 雉子をまともに相手にできる大人は限られるのではないだろうか。仏教やその他、雉子の日常の学びに付き合わされているであろう人物を鎌子は少々気の毒に思った。

「そろそろ戻る」
 雉子が長椅子から立ち上がったのは、前回と同じく夕方になるより少し前の頃だった。
「六韜がそれほど気に入ったのなら、次に来るときには元の木簡を持って来ましょうか」
 鎌子の提案を雉子は少しの間吟味する様子があって、けれど首を横に振った。
「鎌子が面白いと思う部分を教えてもらうのが良い。その方が吾には合っている」
 鎌子が拱手で応えるのを見届け、雉子はまたするりと部屋の外に出て行った。
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