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第一章 不時の王
雪原の記憶
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南淵の使いの任は、季節が秋から冬に変わっても続いた。
南淵は自らの老いを充分に知り、もう二度と遣唐使の任に就くことはないと覚悟していた。なので今回だけでなく、これまでの経験も余すところなく報告書に書き入れようとする力の入り具合で、年内に書き終わるかどうかというのが目算だった。
その南淵を助けるために、同じく遣唐使であった高向玄理が南淵の私邸を何度か訪れていた。
同じ場にいても大陸の言葉が交じり合う二人の会話は、正直、鎌子には聞き取れないこともあった。だが、それでも実際に唐に行き、現地の様子を見聞きした二人の会話の内容は鎌子にとって刺激的で勉強になることが多かった。
「いつか先生たちの様に私も唐に行ってみたいものです」
作業の合間に鎌子が洩らした言葉を聞いて玄理は手を打って喜んだ。
「これはこれは、南淵先生はよいお弟子をお持ちだ。学問を治めても役人になって生涯安泰を望む者が多いというのに、中臣鎌子どのは立派な心掛けです」
南淵も嬉しそうに玄理に顔を向けた。
「半島の三国との関係も大事だが、大陸の状況も必ず気をつけなければならない。新羅や百済に仏教や技術を伝えたのが隋やその前の王朝であることを考えれば、むしろ唐との外交こそが我らには必須だ。鎌子もそれを充分に分かっておる」
「次の遣唐使に鎌子どのが加わってくれれば私も心強い」
南淵と玄理の言葉に、鎌子は遣唐使になるという夢を強く意識するようになっていった。
南淵の報告書を持って百済大井宮に行けば、雉子が必ず鎌子に会いに来た。
最初は途切れ途切れだった六韜は次第につながり合うようになり、雉子は鎌子が書いた木簡を順番通りにつないで冊を作り始めていた。
雉子は六韜だけでなく、様々な話を鎌子から聞きたがった。
昼前に雪が降り始めたその日も、雉子は鎌子に会いに来ていた。
雉子が座っているいつもの長椅子には鎌子が持ってきた鹿の皮が敷かれている。昨年の冬に鎌子が狩った大きな雄鹿の毛皮は、毛足が長く温かい。雉子はこの鹿皮を気に入って、一度座るとその上から動こうとしなかった。
長椅子の側には雉子が持ち込んだ素焼きの甕が置かれて中には火の点いた木炭がいくつも入っていた。部屋には二人が持ち込んだものが次第に増えて、一晩ぐらいなら快適に過ごせるようになっていた。そしてこの頃になると王やその后である宝皇女から寄越される南淵への質問が、決まって次の日の朝になることが分かってきた。
時間は十分にある。鎌子は甕を挟んだ雉子の対面に椅子を運んで座った。
どこからか吹き込んでくる隙間風を唐牡丹の衝立が妨げて、二人がいる部屋の一画は心地よく温かい空間になっていた。
――渓谷険阻者 所以止車禦騎也 隘塞山林者 所以少撃衆者 澤窈冥者 所以匿其形也 清明無隠者 所以戦勇力也
いつものように鎌子は六韜の一節を雉子に示した。
「深い渓谷は敵の戦車、騎馬の侵攻を防ぎます。道の狭い山林は少数で敵を撃つことができます。湿地には兵を隠すことができ、逆に視野の広い場所は決戦の場となります」
鎌子が読み上げる読み下しを聞きながら、雉子は字を指でなぞっていく。
「土地の性質を戦略に活かすべきだ、とも、戦略によって戦う場所を選べ、とも読める。いずれにしても戦場となる土地の特徴は知っておくべきなのか」
「はい。例えば大和の山は穏やかな稜線ですが、東国には険しい山々が連なる地があります。東国にまで行かなくても近江の淡海、河内の草地など、土地ごとに様々な様相があります」
鎌子の言葉を最後まで聞いた雉子だが、ふいに長椅子の上に仰向けに寝転がった。
「吾は一度もこの地を離れたことが無い。生まれたのは近江の淡海のほとりだったとは聞いているけれど、そんなの憶えていない。険しい山とはどんな山だ。天まで届くほどの高さなのか。近江の淡海は海とは違うのか。そもそも吾は海を見たことが無い。外の世界を何も知らない」
「それでも草地や川のほとりには立ったことがあるでしょう?」
雉子は横目で鎌子を見ただけでその問いには答えず木簡に視線を戻した。
「鎌子は外から来ているけれど、他の土地にも行ったことがあるのか」
「あります」
「どこに行ったことがある」
「信濃に行ったことがあります。大和よりも深い山と谷が幾重にも重なっている土地です」
鎌子の返事を聞いて、雉子は木簡に向けていた目を鎌子に戻した。鎌子は雉子の機嫌が悪くなったかと心配したのだが好奇心の方が強かった。
「信濃には何をしに行ったんだ」
「彼の地の豪族が崇める神に名を付けに参りました」
「神の名?」
「各地それぞれに祀る神がおります。王は天照大神、私の氏である中臣は天児屋命であるように」
「そうか、皆それぞれに信じる神があって、それは他の土地でも同じことなのか」
雉子は起き上がって長椅子の上に座り直した。
「そうです。倭に従属する地方の臣は、倭の権威を借りるために自らが信奉する神に倭風の名を付けることを望んでいました。ですが地方にはまだ字を知らぬものが多い。私はそのような土地の神々に名を付けるため東国を訪ねたのです」
それは鎌子が二十歳を過ぎた時に神祇官として王に使えていた父親から命じられた任務だった。
十六歳の時に朝廷から仕官の命を断った鎌子は、都から中臣の本拠地である近江山科に移っていた。
――都から離れて渡来の学問から遠ざかれば少しは頭が冷えるだろう。
それが父の考えだったらしいが、鎌子は山科の南にある巨椋池やその周辺に広がる草原での狩りに夢中になった。辺りには多くの獲物がいたが、鎌子はとりわけ鹿狩りが得意だった。
学問がいったん頭から抜けたのはいいものの、山科の土地を治めようという素振りも見せず野山を馬で駆けまわる鎌子に父は業を煮やした。
「鎌子、太占に使う鹿の骨はもう十分だ」
ある日、都から遥々山科にやってきた父は鎌子にそう告げた。そして東国に行ってこい、と命じたのだった。
――地方豪族に倭の神祇を伝えて王の権威を強固にする。
これは朝廷の神祇官である中臣氏の役目である、という理屈は通ったが、何よりも跡を継ごうとしない息子が領地でただ遊び惚けているというのは体面が良くない。任務とはいえ親が子に課したものであり、体のいい厄介払いだった。
そんな父親の苦渋の決断は知らず、若い鎌子にとって見知らぬ土地への長旅は魅力的な提案だった。
今、鎌子の目の前にいる少年の姿は、かつての鎌子自身の姿と重なって見えた。
「鎌子、お前が出会った東国の民はどのような神を信じていたのか」
「信濃には金刺という半島から渡ってきた馬飼の民がおりました。彼等が渡ってくる前からそこに住んでいた者達もいて、最初のうちは激しく争ったのだと聞きました」
「半島の神と元からいた者達が信じた神の争いになったのか。どっちが勝ったんだ?」
雉子が興味津々に身を乗り出した。
「どちらが勝ったのか、あまりにも昔のことなので分からないのだそうです。ただ今は互いに争うことなく平穏に同じ場所で暮らしているので、友和の証にそれぞれが信仰している神を併せて新たな神を祀りたいということでした」
「そうなのか」
雉子はどこか不満げな表情だった。物事の全てに明らかな勝敗があるわけではない、ということをまだ若い雉子は知らないようだ。
「その新たな神に名を付けてきました。もともと土地の神はスワという名で呼ばれた山ノ神。なので険しくも神々しい山を表すタケという言葉から、建御名方命という名を与えました」
鎌子は木簡に建御名方命と字を書いて雉子に示した。
「なるほど、強そうな名前だ。いいな」
雉子はその木簡を手にして神の名前を褒めた。
「信濃の他にはどこに行った?」
雉子が好奇心を目に溢れさせながら鎌子に尋ねてくる。
「上毛野や常陸にも行きました」
「どんなところだ」
「上毛野は平らな土地がどこまでも広がっている場所でした。清明無隠者。まさしく先ほどの六韜に書かれたような場所です」
「山は無いのか」
「山はありますが遥か彼方に見えます。もっとも近いのは榛名山という大きな山で、この辺りの山を五つほど集めて三つほど重ねたほどの大きさです。昔、榛名の山が火を噴いて辺りの田畑が山から溢れた岩石で埋め尽くされたということです」
「上毛野の誰かがそんなことを言っていた気がする。そうか、その地に鎌子は行って来たのか」
雉子の顔には素直な羨望の表情が浮かんでいる。雉子に話しながら、鎌子の記憶も次第に鮮明に思い出されてきた。
「上毛野もそうですが、毛野の土地は榛名山の他は山が無く、あまりに平らなので不二の山までずうっと見渡すことができました」
「近くに山が無い景色とはどんなものだろう。想像が難しいな」
「倭建命の話はご存じでしょう。命が歩かれたその土地でもあります。今日のように雪が降ると辺り一面に真っ白な雪原が広がります。どこまでも続く雪原を馬で行くのは格別のものです。上毛野の馬は雪原を力強く走ることができるのです」
「馬で、行くのか」
雉子はその形良い目を閉じた。光景を想像しようとしているのだろう。
「――いつか一緒に行ってみましょうか」
鎌子が何気なく口にした言葉に、雉子は目を開いて少し驚いた顔をした。無防備なその顔は雉子の素直さをそのままさらけ出し、けれどすぐに表情は硬くなった。
「そうだな。いつか吾も行けたら良い」
何かを諦めたような、どこか大人びた雉子の表情は、これまで鎌子が見たことのないものだった。そしてそれは雉子の成人が近いことを鎌子に思い起させたのだった。
南淵は自らの老いを充分に知り、もう二度と遣唐使の任に就くことはないと覚悟していた。なので今回だけでなく、これまでの経験も余すところなく報告書に書き入れようとする力の入り具合で、年内に書き終わるかどうかというのが目算だった。
その南淵を助けるために、同じく遣唐使であった高向玄理が南淵の私邸を何度か訪れていた。
同じ場にいても大陸の言葉が交じり合う二人の会話は、正直、鎌子には聞き取れないこともあった。だが、それでも実際に唐に行き、現地の様子を見聞きした二人の会話の内容は鎌子にとって刺激的で勉強になることが多かった。
「いつか先生たちの様に私も唐に行ってみたいものです」
作業の合間に鎌子が洩らした言葉を聞いて玄理は手を打って喜んだ。
「これはこれは、南淵先生はよいお弟子をお持ちだ。学問を治めても役人になって生涯安泰を望む者が多いというのに、中臣鎌子どのは立派な心掛けです」
南淵も嬉しそうに玄理に顔を向けた。
「半島の三国との関係も大事だが、大陸の状況も必ず気をつけなければならない。新羅や百済に仏教や技術を伝えたのが隋やその前の王朝であることを考えれば、むしろ唐との外交こそが我らには必須だ。鎌子もそれを充分に分かっておる」
「次の遣唐使に鎌子どのが加わってくれれば私も心強い」
南淵と玄理の言葉に、鎌子は遣唐使になるという夢を強く意識するようになっていった。
南淵の報告書を持って百済大井宮に行けば、雉子が必ず鎌子に会いに来た。
最初は途切れ途切れだった六韜は次第につながり合うようになり、雉子は鎌子が書いた木簡を順番通りにつないで冊を作り始めていた。
雉子は六韜だけでなく、様々な話を鎌子から聞きたがった。
昼前に雪が降り始めたその日も、雉子は鎌子に会いに来ていた。
雉子が座っているいつもの長椅子には鎌子が持ってきた鹿の皮が敷かれている。昨年の冬に鎌子が狩った大きな雄鹿の毛皮は、毛足が長く温かい。雉子はこの鹿皮を気に入って、一度座るとその上から動こうとしなかった。
長椅子の側には雉子が持ち込んだ素焼きの甕が置かれて中には火の点いた木炭がいくつも入っていた。部屋には二人が持ち込んだものが次第に増えて、一晩ぐらいなら快適に過ごせるようになっていた。そしてこの頃になると王やその后である宝皇女から寄越される南淵への質問が、決まって次の日の朝になることが分かってきた。
時間は十分にある。鎌子は甕を挟んだ雉子の対面に椅子を運んで座った。
どこからか吹き込んでくる隙間風を唐牡丹の衝立が妨げて、二人がいる部屋の一画は心地よく温かい空間になっていた。
――渓谷険阻者 所以止車禦騎也 隘塞山林者 所以少撃衆者 澤窈冥者 所以匿其形也 清明無隠者 所以戦勇力也
いつものように鎌子は六韜の一節を雉子に示した。
「深い渓谷は敵の戦車、騎馬の侵攻を防ぎます。道の狭い山林は少数で敵を撃つことができます。湿地には兵を隠すことができ、逆に視野の広い場所は決戦の場となります」
鎌子が読み上げる読み下しを聞きながら、雉子は字を指でなぞっていく。
「土地の性質を戦略に活かすべきだ、とも、戦略によって戦う場所を選べ、とも読める。いずれにしても戦場となる土地の特徴は知っておくべきなのか」
「はい。例えば大和の山は穏やかな稜線ですが、東国には険しい山々が連なる地があります。東国にまで行かなくても近江の淡海、河内の草地など、土地ごとに様々な様相があります」
鎌子の言葉を最後まで聞いた雉子だが、ふいに長椅子の上に仰向けに寝転がった。
「吾は一度もこの地を離れたことが無い。生まれたのは近江の淡海のほとりだったとは聞いているけれど、そんなの憶えていない。険しい山とはどんな山だ。天まで届くほどの高さなのか。近江の淡海は海とは違うのか。そもそも吾は海を見たことが無い。外の世界を何も知らない」
「それでも草地や川のほとりには立ったことがあるでしょう?」
雉子は横目で鎌子を見ただけでその問いには答えず木簡に視線を戻した。
「鎌子は外から来ているけれど、他の土地にも行ったことがあるのか」
「あります」
「どこに行ったことがある」
「信濃に行ったことがあります。大和よりも深い山と谷が幾重にも重なっている土地です」
鎌子の返事を聞いて、雉子は木簡に向けていた目を鎌子に戻した。鎌子は雉子の機嫌が悪くなったかと心配したのだが好奇心の方が強かった。
「信濃には何をしに行ったんだ」
「彼の地の豪族が崇める神に名を付けに参りました」
「神の名?」
「各地それぞれに祀る神がおります。王は天照大神、私の氏である中臣は天児屋命であるように」
「そうか、皆それぞれに信じる神があって、それは他の土地でも同じことなのか」
雉子は起き上がって長椅子の上に座り直した。
「そうです。倭に従属する地方の臣は、倭の権威を借りるために自らが信奉する神に倭風の名を付けることを望んでいました。ですが地方にはまだ字を知らぬものが多い。私はそのような土地の神々に名を付けるため東国を訪ねたのです」
それは鎌子が二十歳を過ぎた時に神祇官として王に使えていた父親から命じられた任務だった。
十六歳の時に朝廷から仕官の命を断った鎌子は、都から中臣の本拠地である近江山科に移っていた。
――都から離れて渡来の学問から遠ざかれば少しは頭が冷えるだろう。
それが父の考えだったらしいが、鎌子は山科の南にある巨椋池やその周辺に広がる草原での狩りに夢中になった。辺りには多くの獲物がいたが、鎌子はとりわけ鹿狩りが得意だった。
学問がいったん頭から抜けたのはいいものの、山科の土地を治めようという素振りも見せず野山を馬で駆けまわる鎌子に父は業を煮やした。
「鎌子、太占に使う鹿の骨はもう十分だ」
ある日、都から遥々山科にやってきた父は鎌子にそう告げた。そして東国に行ってこい、と命じたのだった。
――地方豪族に倭の神祇を伝えて王の権威を強固にする。
これは朝廷の神祇官である中臣氏の役目である、という理屈は通ったが、何よりも跡を継ごうとしない息子が領地でただ遊び惚けているというのは体面が良くない。任務とはいえ親が子に課したものであり、体のいい厄介払いだった。
そんな父親の苦渋の決断は知らず、若い鎌子にとって見知らぬ土地への長旅は魅力的な提案だった。
今、鎌子の目の前にいる少年の姿は、かつての鎌子自身の姿と重なって見えた。
「鎌子、お前が出会った東国の民はどのような神を信じていたのか」
「信濃には金刺という半島から渡ってきた馬飼の民がおりました。彼等が渡ってくる前からそこに住んでいた者達もいて、最初のうちは激しく争ったのだと聞きました」
「半島の神と元からいた者達が信じた神の争いになったのか。どっちが勝ったんだ?」
雉子が興味津々に身を乗り出した。
「どちらが勝ったのか、あまりにも昔のことなので分からないのだそうです。ただ今は互いに争うことなく平穏に同じ場所で暮らしているので、友和の証にそれぞれが信仰している神を併せて新たな神を祀りたいということでした」
「そうなのか」
雉子はどこか不満げな表情だった。物事の全てに明らかな勝敗があるわけではない、ということをまだ若い雉子は知らないようだ。
「その新たな神に名を付けてきました。もともと土地の神はスワという名で呼ばれた山ノ神。なので険しくも神々しい山を表すタケという言葉から、建御名方命という名を与えました」
鎌子は木簡に建御名方命と字を書いて雉子に示した。
「なるほど、強そうな名前だ。いいな」
雉子はその木簡を手にして神の名前を褒めた。
「信濃の他にはどこに行った?」
雉子が好奇心を目に溢れさせながら鎌子に尋ねてくる。
「上毛野や常陸にも行きました」
「どんなところだ」
「上毛野は平らな土地がどこまでも広がっている場所でした。清明無隠者。まさしく先ほどの六韜に書かれたような場所です」
「山は無いのか」
「山はありますが遥か彼方に見えます。もっとも近いのは榛名山という大きな山で、この辺りの山を五つほど集めて三つほど重ねたほどの大きさです。昔、榛名の山が火を噴いて辺りの田畑が山から溢れた岩石で埋め尽くされたということです」
「上毛野の誰かがそんなことを言っていた気がする。そうか、その地に鎌子は行って来たのか」
雉子の顔には素直な羨望の表情が浮かんでいる。雉子に話しながら、鎌子の記憶も次第に鮮明に思い出されてきた。
「上毛野もそうですが、毛野の土地は榛名山の他は山が無く、あまりに平らなので不二の山までずうっと見渡すことができました」
「近くに山が無い景色とはどんなものだろう。想像が難しいな」
「倭建命の話はご存じでしょう。命が歩かれたその土地でもあります。今日のように雪が降ると辺り一面に真っ白な雪原が広がります。どこまでも続く雪原を馬で行くのは格別のものです。上毛野の馬は雪原を力強く走ることができるのです」
「馬で、行くのか」
雉子はその形良い目を閉じた。光景を想像しようとしているのだろう。
「――いつか一緒に行ってみましょうか」
鎌子が何気なく口にした言葉に、雉子は目を開いて少し驚いた顔をした。無防備なその顔は雉子の素直さをそのままさらけ出し、けれどすぐに表情は硬くなった。
「そうだな。いつか吾も行けたら良い」
何かを諦めたような、どこか大人びた雉子の表情は、これまで鎌子が見たことのないものだった。そしてそれは雉子の成人が近いことを鎌子に思い起させたのだった。
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