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第二章 石床の潦水
河畔の古宮
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皇極天皇は即位後、夫であった舒明天皇の喪葬の儀式が終わるまで百済大井宮で政務を執り続けた。だが舒明天皇の埋葬を終えると早々に都を飛鳥に戻した。
飛鳥には舒明天皇が百済大井宮に移る前に使っていた飛鳥岡本宮がある。皇極天皇はこの王宮に修繕以上の改修を行い、これまでは萱葺だった屋根を板葺に変えた。改修を終えた宮殿は飛鳥板葺宮という名で呼ばれることになった。
百済、高句麗、新羅の三韓は舒明天皇の死を悼み、そして皇極天皇の即位を言祝ぐ使者を送ってきた。その中には百済が人質同然に倭国へと送り寄越した百済の王族、翹岐も含まれていた。
翹岐は百済王の息子で、上にいる兄に次いで王位継承権を持つ正統の王子である。その翹岐に近づいたのが蘇我入鹿だった。
「入鹿よ、最近お前が翹岐王子を招いて宴会を行ったというのは本当か」
入鹿の父である蘇我蝦夷がそう問うと、青年の覇気溢れる容貌に笑みを浮かべて入鹿は頷いた。
「はい。王子の無聊を慰めるべく、畝傍の宅でもてなしました。王子と私は年齢が近いので親しく話ができました。楽しんでもらえたようです」
翹岐は人質同然とはいえ建前は国賓である。三韓の均衡を保つことで半島での権威を維持してきた倭国にとって、蘇我氏という自国の重臣の一族が百済一国に肩入れするという行為は大きな外交上の問題だった。
「もう少しよく考えて行動しろ。我ら蘇我の一族は百済と縁が深い。だからこそ付き合いには十分注意しなければ、他の豪族どころか大王にすら疑念を抱かれかねない」
頭の良い入鹿がそれに気づかなかったはずはない。
臣下の者が諫めなかったのか、他の豪族の苦言は耳に入らなかったのか、問い質そうとした蝦夷は口の端に余裕の笑みを浮かべた入鹿の顔を見て言葉を呑み込んだ。入鹿が独断で王子を招いて宴会を強行したのは明らかだった。
「まさか父上からそのような言葉を聞くとは思いませんでした。我らは我らが決めたことを実行する、それだけの力があることを時に触れて他の者達に思い知らせる必要があると言っていたのは父上ではありませんか」
「そうだが、それは己の力を以てして、だ。他国の王族の威を借りてすることではない」
蝦夷には百済への畏敬の思いがあったが、入鹿には百済を利用しようとする思惑が強く表れていた。
親子の年代の違いがそうさせるのか、蝦夷には入鹿の思惑が受け入れがたく感じられた。だが自分の老いは確実であり、その老いた自分の跡を継ぐのは入鹿以外にないことは分かっていた。
「入鹿、そろそろお前に後を任せるつもりなのだ、蘇我の当主となるからにはそのような機微も必要だ」
「後を任せて下さるのはいいのですが、父上にはまだまだ働いてもらいます」
入鹿は明朗な笑顔を蝦夷に向け、飄々と答えた。
そのような状況の下で、皇極天皇は飛鳥板葺宮に臣下一同を集めて当座の政の方針を明らかにした。
――前の勅せる所の如く、更改め換ること無し
つまり、以前からの制度、役職に変更はない。皆々は今、自分が任命されている職に励むように、という現状維持の指示である。この詔を好機と取り、蝦夷は自分の大臣の位を息子である入鹿に譲った。
多少の至らなさはこれからのことと蝦夷が目をつぶって入鹿を朝廷に送り込んでみたものの、歴任の老臣に比べれば格段に年若い入鹿が蘇我の権力をそのまま維持することは目に見えて困難だった。
他の有力豪族もしだいに朝廷の中で力をつけてきており、なかでも阿倍氏は次の天皇の座を見込んで皇極天皇の弟である軽皇子に接近していた。
一方で蘇我氏は舒明天皇のころから古人大兄皇子を推している。大臣であった蝦夷こそ他の臣の協議に諮って舒明天皇の即位に賛同したが、蘇我氏一族の大意は依然として古人大兄皇子にある。
葛城王という正式な皇太子をよそに、阿倍氏と蘇我氏の対立構造が明確になり始めていた。
やがて手の指の間から砂のように零れ落ちていく権力を百済の王族の力を借りても引き留めようとしでも叶わず、入鹿は飛鳥の宮殿で焦りを募らせていくことになる。
その頃、鎌子は山科の邸宅で鹿狩りと読書の日々を送っていた。
朝廷の隠微な権力争いの噂は届かず、これまで文字を習うためだけに開いていた仏教の経典を読み、玄理が送ってくれた唐の武徳令や貞観令を読んだ。遣唐使として海を渡るという夢は薄れつつあったが、目的を見失った向学心はこれまでとは異なる対象に探求の目を向けさせた。立身出世のためではない学問は、どこまでも自由に鎌子の思想を広げていった。
――仏像を手に入れ祀ってみても良いのでは。
鎌子の心の内にそんな思いも兆し始めたある日のこと、飛鳥にいる父から使いが来た。
「近いうちにある人物から呼び出しがあるだろう、断らずに言われた場所に行くように、とのことです」
使いはその内容を紙にも木簡にも残さず、鎌子に直接口頭で伝えて返事も聞かずに帰っていった。
父は皇極天皇に仕える神祇官として、都が飛鳥宮に代わっても変わらず朝廷に出入りしている。そこで厄介な頼まれごとでも引き受けたのだろうか。
危ぶむ気持ちもあったが、今は職もなく、父に養われている身の上である。鎌子は大人しくその呼び出しを待つことにした。
父の報せがあった数日後に、山科の館に馬を牽いた使いがやってきた。
これに乗れ、と言われたが、鎌子は自分が鹿狩りに使っている馬で行くことを選んだ。使いは自分が牽いてきた馬に乗り、鎌子の先に立って駆け始めた。使者との会話はほとんど無かったが交わした短い言葉の内の発声やふるまいの端々から、百済からの渡来人もしくはそれに近い者であることが分かった。
山科を出てから山沿いに南下し、巨椋池を回り込んで西へ向かう。広い川を渡った先、使者の馬の足が止まったのは山崎宮と呼ばれる古い宮殿の前だった。
鎌子は中から出てきた舎人に馬の手綱を預けて、使者に促されるまま宮殿の中に足を踏み入れた。古びてはいるが見上げるほどに大きく立派な門を潜り、回廊に沿って進むとやがて一つの建物の前で前を歩く使者の足が止まった。
「軽皇子様、中臣鎌子をここに連れてまいりました」
飛鳥には舒明天皇が百済大井宮に移る前に使っていた飛鳥岡本宮がある。皇極天皇はこの王宮に修繕以上の改修を行い、これまでは萱葺だった屋根を板葺に変えた。改修を終えた宮殿は飛鳥板葺宮という名で呼ばれることになった。
百済、高句麗、新羅の三韓は舒明天皇の死を悼み、そして皇極天皇の即位を言祝ぐ使者を送ってきた。その中には百済が人質同然に倭国へと送り寄越した百済の王族、翹岐も含まれていた。
翹岐は百済王の息子で、上にいる兄に次いで王位継承権を持つ正統の王子である。その翹岐に近づいたのが蘇我入鹿だった。
「入鹿よ、最近お前が翹岐王子を招いて宴会を行ったというのは本当か」
入鹿の父である蘇我蝦夷がそう問うと、青年の覇気溢れる容貌に笑みを浮かべて入鹿は頷いた。
「はい。王子の無聊を慰めるべく、畝傍の宅でもてなしました。王子と私は年齢が近いので親しく話ができました。楽しんでもらえたようです」
翹岐は人質同然とはいえ建前は国賓である。三韓の均衡を保つことで半島での権威を維持してきた倭国にとって、蘇我氏という自国の重臣の一族が百済一国に肩入れするという行為は大きな外交上の問題だった。
「もう少しよく考えて行動しろ。我ら蘇我の一族は百済と縁が深い。だからこそ付き合いには十分注意しなければ、他の豪族どころか大王にすら疑念を抱かれかねない」
頭の良い入鹿がそれに気づかなかったはずはない。
臣下の者が諫めなかったのか、他の豪族の苦言は耳に入らなかったのか、問い質そうとした蝦夷は口の端に余裕の笑みを浮かべた入鹿の顔を見て言葉を呑み込んだ。入鹿が独断で王子を招いて宴会を強行したのは明らかだった。
「まさか父上からそのような言葉を聞くとは思いませんでした。我らは我らが決めたことを実行する、それだけの力があることを時に触れて他の者達に思い知らせる必要があると言っていたのは父上ではありませんか」
「そうだが、それは己の力を以てして、だ。他国の王族の威を借りてすることではない」
蝦夷には百済への畏敬の思いがあったが、入鹿には百済を利用しようとする思惑が強く表れていた。
親子の年代の違いがそうさせるのか、蝦夷には入鹿の思惑が受け入れがたく感じられた。だが自分の老いは確実であり、その老いた自分の跡を継ぐのは入鹿以外にないことは分かっていた。
「入鹿、そろそろお前に後を任せるつもりなのだ、蘇我の当主となるからにはそのような機微も必要だ」
「後を任せて下さるのはいいのですが、父上にはまだまだ働いてもらいます」
入鹿は明朗な笑顔を蝦夷に向け、飄々と答えた。
そのような状況の下で、皇極天皇は飛鳥板葺宮に臣下一同を集めて当座の政の方針を明らかにした。
――前の勅せる所の如く、更改め換ること無し
つまり、以前からの制度、役職に変更はない。皆々は今、自分が任命されている職に励むように、という現状維持の指示である。この詔を好機と取り、蝦夷は自分の大臣の位を息子である入鹿に譲った。
多少の至らなさはこれからのことと蝦夷が目をつぶって入鹿を朝廷に送り込んでみたものの、歴任の老臣に比べれば格段に年若い入鹿が蘇我の権力をそのまま維持することは目に見えて困難だった。
他の有力豪族もしだいに朝廷の中で力をつけてきており、なかでも阿倍氏は次の天皇の座を見込んで皇極天皇の弟である軽皇子に接近していた。
一方で蘇我氏は舒明天皇のころから古人大兄皇子を推している。大臣であった蝦夷こそ他の臣の協議に諮って舒明天皇の即位に賛同したが、蘇我氏一族の大意は依然として古人大兄皇子にある。
葛城王という正式な皇太子をよそに、阿倍氏と蘇我氏の対立構造が明確になり始めていた。
やがて手の指の間から砂のように零れ落ちていく権力を百済の王族の力を借りても引き留めようとしでも叶わず、入鹿は飛鳥の宮殿で焦りを募らせていくことになる。
その頃、鎌子は山科の邸宅で鹿狩りと読書の日々を送っていた。
朝廷の隠微な権力争いの噂は届かず、これまで文字を習うためだけに開いていた仏教の経典を読み、玄理が送ってくれた唐の武徳令や貞観令を読んだ。遣唐使として海を渡るという夢は薄れつつあったが、目的を見失った向学心はこれまでとは異なる対象に探求の目を向けさせた。立身出世のためではない学問は、どこまでも自由に鎌子の思想を広げていった。
――仏像を手に入れ祀ってみても良いのでは。
鎌子の心の内にそんな思いも兆し始めたある日のこと、飛鳥にいる父から使いが来た。
「近いうちにある人物から呼び出しがあるだろう、断らずに言われた場所に行くように、とのことです」
使いはその内容を紙にも木簡にも残さず、鎌子に直接口頭で伝えて返事も聞かずに帰っていった。
父は皇極天皇に仕える神祇官として、都が飛鳥宮に代わっても変わらず朝廷に出入りしている。そこで厄介な頼まれごとでも引き受けたのだろうか。
危ぶむ気持ちもあったが、今は職もなく、父に養われている身の上である。鎌子は大人しくその呼び出しを待つことにした。
父の報せがあった数日後に、山科の館に馬を牽いた使いがやってきた。
これに乗れ、と言われたが、鎌子は自分が鹿狩りに使っている馬で行くことを選んだ。使いは自分が牽いてきた馬に乗り、鎌子の先に立って駆け始めた。使者との会話はほとんど無かったが交わした短い言葉の内の発声やふるまいの端々から、百済からの渡来人もしくはそれに近い者であることが分かった。
山科を出てから山沿いに南下し、巨椋池を回り込んで西へ向かう。広い川を渡った先、使者の馬の足が止まったのは山崎宮と呼ばれる古い宮殿の前だった。
鎌子は中から出てきた舎人に馬の手綱を預けて、使者に促されるまま宮殿の中に足を踏み入れた。古びてはいるが見上げるほどに大きく立派な門を潜り、回廊に沿って進むとやがて一つの建物の前で前を歩く使者の足が止まった。
「軽皇子様、中臣鎌子をここに連れてまいりました」
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