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第二章 石床の潦水
慮外の嫁娶
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告げられた名に自分を呼び出した相手を知り、鎌子は軽く息をのんだ。
「ご苦労だったな。下がって良い」
力強い声音で使者に告げ、扉の内から姿を現したのは背の低い中年の男だった。皇子と名乗る身分には見えないが、着ている衣にせよ、金の飾りがこれ見よがしに光る帯にせよ、身に付けているものは贅沢なものだった。
「初めて会う。わしは阿倍内麻呂だ。中臣鎌子、わしは其方の父を知っておるぞ」
阿倍内麻呂は朝廷でも有力な豪族の一つ、阿倍氏の宗主である。鎌子は拱手し顔を伏せた。内麻呂は部屋の奥に声をかけた。
「軽皇子、確かに中臣鎌子でございます。ぜひ皇子からお声がけください」
衣擦れの音が微かに聞こえ、それは内麻呂にはわかる応諾の意味があるようだった。
「鎌子、立って部屋の奥に進め。皇子は先からそなたが来るのを待っておられたのだ」
鎌子は言われた通りに立ち上がり、顔を伏せたまま足を進めた。横目で見る部屋の調度は華やかな色柄のものが多く、ここが高貴な女性の部屋であることが察せられた。
その部屋の奥には一段高く設えられた場所があり几帳が巡らされている。敷物が幾重にも重ねられたその上に、軽皇子が寵姫である阿倍小足媛を侍らせて悠然と座っていた。
軽皇子は今の天皇である皇極天皇の弟である。
齢四十を過ぎてはいるが王位継承の上位者であり、皇極天皇の次に天皇となる資格を備えた王族だった。
「顔を上げてよい」
後ろからついてきた内麻呂の言葉に従い鎌子は相手から自分の顔が見える程度に頭を上げた。拱手は解かず目線は下に向けたままだ。内麻呂が満足げに軽皇子に鎌子を紹介した。
「鎌子殿は蘇我入鹿に遜色ない秀才と聞き及んでおります。しばらく前から領地に戻っていると聞き、皇子にはぜひお目に掛けたいと思っておりました」
皇子の視線がゆっくりと鎌子に向けられた。
「この先、政をどうしていくべきか、お前の意見を聞いてみたい」
軽皇子は小足媛の手をとって撫でさすりながら鎌子へと質問を投げかけた。その質問は議論を求めるものではなく、足りない知識を聞き覚えに知っておきたいという緩やかなものだった。
「新たな決まり事を作っていくべきかと存じます」
「さて、その決まり事とは」
「唐では律と令という決まり事を作り、国の礎となしているとききます。わが国でもそのような決まり事を作り、皆に従わせることが必要かと」
「そうか、唐にはそのような決まりごとがあるのか」
軽皇子は余りこの問題に関心が無いのか、口調には抑揚が無い。内麻呂が軽皇子の側に進み寄り小足媛に皇子の盃に酒を注ぐよう促した。小足媛は内麻呂の実の娘である。
「三韓の国々も唐の決まりごとに関心を持っているようです」
「それはどういうことになる」
軽皇子の視線は内麻呂に向けられた。この二人が小足媛を介して親密な間柄であることは鎌子にも見て分かった。
内麻呂の宗家である阿倍氏は、今、鎌子がいる山崎宮周辺に拠点となる領地を持っていた。継体天皇の昔に建てられた山崎宮を修復し、軽皇子を招き入れたのは阿倍氏一族の総意に違いない。
王家と密接なかかわりを作ることで政権での地位を確保しようという目論見が明らかだった。
――軽皇子の無聊の慰みに連れてこられたのか
鎌子は肩透かしを食ったような気がしたが、そもそも何かを期待などして出向いたわけではないと思い直した。
そのうちに鎌子にも杯が渡されて酒が注がれ、酒肴が並ぶ持て成しを受けた。
「鎌子、また呼ぶ。遊びに来い」
去り際に軽皇子から掛けられた言葉は本当だったようで、それから日を置いて何回か、山崎宮から呼び出しがあった。
軽皇子との会合は心を躍らせるようなものではなかった。だが王族の命令に応える仕事と思えばそれまでのことだった。父からの指示でもあり、なにより山科の中臣の領地から山崎宮までは馬で駆けるのが気持ちの良い距離だった。
やがて巨椋池の周りの薄の穂が伸び、枯れた野のどこからともなく雉の声が聞こえ始めてきた。
二度目の訪問からは軽皇子の寵姫である小足媛は姿を見せなくなり、代わりに一人の采女が鎌子の横について接待をするようになった。可憐さがあった小足媛に比べ、肉付きの良さが色気となって滲む成熟した女だった。
訪れる度にいつもその采女が鎌子につき酒を注いだ。そしてその采女が鎌子に向ける目の中に、媚だけでなくどこか縋るような色があることに気づくのに時間はかからなかった。
ある日、鎌子が山崎宮を出て帰ろうとすると阿倍内麻呂に引き留められた。
「鎌子殿、あの采女を妻にせぬか」
それはいささか鎌子の意表を突く申し出だった。答えに窮する鎌子の耳元に内麻呂が声低く打ち明けた。
「あの采女、実は軽皇子の子を身ごもっておる」
「それは……」
「あの者は上毛野の車持の娘だ。身分はあまり高くない。皇子があの采女との間に子を成したとあれば皇子の評判に傷がつく」
何より自分の娘である小足媛を差し置いて軽皇子の子を孕んだ采女を腹の子ごと山崎宮から追い出したいというのが内麻呂の本心であることは確かだった。
「そなたそろそろ齢三十になるというのにまだ妻を持っておらぬだろう。何か理由があるのか」
内麻呂が意味ありげに鎌子を見た。学問に専心していたから、という言い訳は老獪な内麻呂には通用しない。内麻呂は答えに窮する鎌子の肩を軽く叩いた。
「もし体に障りがあって子が為せぬなら、この話は悪くない話だ。子種をすでに孕んだ女子だぞ。生まれた子をおのれの子と成せばよいではないか。悪いようにはせぬ、あの采女を妻として迎え入れよ」
鎌子の内情に踏み込んでくる内麻呂の言葉だったが、未だ子も持たず妻も持たない鎌子が傍からどう見えるのかを正面から認識させられる言葉だった。
車持は小さいとはいえ朝廷に出仕している地方の有力豪族である。王族である軽皇子の妃になるには身分が低いが、中臣とはおおよそ同格の一族だった。内麻呂の言う通り、悪くない話なのだろう。
「都にいる父に確認します」
それは鎌子が采女を妻にとることを前提とした返事だった。内麻呂は満足げに頷いた。
山科への帰り道、鎌子は上弦の月影を映す夕暮れの巨椋池で馬の足を止めた。
妻を持つ、という実感は湧かなかった。妻となる相手の手も触れないうちに半年後には子も生まれるとあってはなおさらだ。
鎌子は夜が迫る空を振り仰ぎ、内麻呂の提案を受け入れた己の心の内を問いただした。
自分は有力な豪族に繋がる妻を欲しいと思っていたのだろうか。
軽皇子との会話の内に、無闇と積み重ねただけの知識の使い道を探していたのだろうか。
それとも、阿倍内麻呂や軽皇子と繋がって政治の内幕に入ることを無意識のうちに望んでいたのだろうか。
あらためて心の奥底を探ってみれば、どの願望も自分の内にあったが、どの願望もそれ以上の根拠に至らなかった。
――正妻には、しない。
阿倍内麻呂は鎌子にそこまでは求めていない筈だった。それだけ決めると鎌子は馬の腹を軽く蹴り、山科に向かって駆け始めた。
朝、同じ道を山崎離宮に向かうときには雉が鳴く声が聞こえたが、日暮れた今は耳を凝らしても聞こえなかった。ただ立ち枯れた葦の葉が北風に揺れてさわさわと音を鳴らしていた。
妻を娶ることを都にいる父に認めてもらう必要はないが、報告はしなければならない。書簡か、あるいは直接行った方が良いのか。迷って飛鳥の中臣本邸を訪れることだけを知らせる木簡を書き終えたところで急な使いが飛び込んできた。
皇極天皇の在位二年十一月一日、蘇我入鹿が軍勢を率いて山背大兄王を攻め、山背大兄王は自殺、厩戸王の血を引く一族が滅ぼされた。
「ご苦労だったな。下がって良い」
力強い声音で使者に告げ、扉の内から姿を現したのは背の低い中年の男だった。皇子と名乗る身分には見えないが、着ている衣にせよ、金の飾りがこれ見よがしに光る帯にせよ、身に付けているものは贅沢なものだった。
「初めて会う。わしは阿倍内麻呂だ。中臣鎌子、わしは其方の父を知っておるぞ」
阿倍内麻呂は朝廷でも有力な豪族の一つ、阿倍氏の宗主である。鎌子は拱手し顔を伏せた。内麻呂は部屋の奥に声をかけた。
「軽皇子、確かに中臣鎌子でございます。ぜひ皇子からお声がけください」
衣擦れの音が微かに聞こえ、それは内麻呂にはわかる応諾の意味があるようだった。
「鎌子、立って部屋の奥に進め。皇子は先からそなたが来るのを待っておられたのだ」
鎌子は言われた通りに立ち上がり、顔を伏せたまま足を進めた。横目で見る部屋の調度は華やかな色柄のものが多く、ここが高貴な女性の部屋であることが察せられた。
その部屋の奥には一段高く設えられた場所があり几帳が巡らされている。敷物が幾重にも重ねられたその上に、軽皇子が寵姫である阿倍小足媛を侍らせて悠然と座っていた。
軽皇子は今の天皇である皇極天皇の弟である。
齢四十を過ぎてはいるが王位継承の上位者であり、皇極天皇の次に天皇となる資格を備えた王族だった。
「顔を上げてよい」
後ろからついてきた内麻呂の言葉に従い鎌子は相手から自分の顔が見える程度に頭を上げた。拱手は解かず目線は下に向けたままだ。内麻呂が満足げに軽皇子に鎌子を紹介した。
「鎌子殿は蘇我入鹿に遜色ない秀才と聞き及んでおります。しばらく前から領地に戻っていると聞き、皇子にはぜひお目に掛けたいと思っておりました」
皇子の視線がゆっくりと鎌子に向けられた。
「この先、政をどうしていくべきか、お前の意見を聞いてみたい」
軽皇子は小足媛の手をとって撫でさすりながら鎌子へと質問を投げかけた。その質問は議論を求めるものではなく、足りない知識を聞き覚えに知っておきたいという緩やかなものだった。
「新たな決まり事を作っていくべきかと存じます」
「さて、その決まり事とは」
「唐では律と令という決まり事を作り、国の礎となしているとききます。わが国でもそのような決まり事を作り、皆に従わせることが必要かと」
「そうか、唐にはそのような決まりごとがあるのか」
軽皇子は余りこの問題に関心が無いのか、口調には抑揚が無い。内麻呂が軽皇子の側に進み寄り小足媛に皇子の盃に酒を注ぐよう促した。小足媛は内麻呂の実の娘である。
「三韓の国々も唐の決まりごとに関心を持っているようです」
「それはどういうことになる」
軽皇子の視線は内麻呂に向けられた。この二人が小足媛を介して親密な間柄であることは鎌子にも見て分かった。
内麻呂の宗家である阿倍氏は、今、鎌子がいる山崎宮周辺に拠点となる領地を持っていた。継体天皇の昔に建てられた山崎宮を修復し、軽皇子を招き入れたのは阿倍氏一族の総意に違いない。
王家と密接なかかわりを作ることで政権での地位を確保しようという目論見が明らかだった。
――軽皇子の無聊の慰みに連れてこられたのか
鎌子は肩透かしを食ったような気がしたが、そもそも何かを期待などして出向いたわけではないと思い直した。
そのうちに鎌子にも杯が渡されて酒が注がれ、酒肴が並ぶ持て成しを受けた。
「鎌子、また呼ぶ。遊びに来い」
去り際に軽皇子から掛けられた言葉は本当だったようで、それから日を置いて何回か、山崎宮から呼び出しがあった。
軽皇子との会合は心を躍らせるようなものではなかった。だが王族の命令に応える仕事と思えばそれまでのことだった。父からの指示でもあり、なにより山科の中臣の領地から山崎宮までは馬で駆けるのが気持ちの良い距離だった。
やがて巨椋池の周りの薄の穂が伸び、枯れた野のどこからともなく雉の声が聞こえ始めてきた。
二度目の訪問からは軽皇子の寵姫である小足媛は姿を見せなくなり、代わりに一人の采女が鎌子の横について接待をするようになった。可憐さがあった小足媛に比べ、肉付きの良さが色気となって滲む成熟した女だった。
訪れる度にいつもその采女が鎌子につき酒を注いだ。そしてその采女が鎌子に向ける目の中に、媚だけでなくどこか縋るような色があることに気づくのに時間はかからなかった。
ある日、鎌子が山崎宮を出て帰ろうとすると阿倍内麻呂に引き留められた。
「鎌子殿、あの采女を妻にせぬか」
それはいささか鎌子の意表を突く申し出だった。答えに窮する鎌子の耳元に内麻呂が声低く打ち明けた。
「あの采女、実は軽皇子の子を身ごもっておる」
「それは……」
「あの者は上毛野の車持の娘だ。身分はあまり高くない。皇子があの采女との間に子を成したとあれば皇子の評判に傷がつく」
何より自分の娘である小足媛を差し置いて軽皇子の子を孕んだ采女を腹の子ごと山崎宮から追い出したいというのが内麻呂の本心であることは確かだった。
「そなたそろそろ齢三十になるというのにまだ妻を持っておらぬだろう。何か理由があるのか」
内麻呂が意味ありげに鎌子を見た。学問に専心していたから、という言い訳は老獪な内麻呂には通用しない。内麻呂は答えに窮する鎌子の肩を軽く叩いた。
「もし体に障りがあって子が為せぬなら、この話は悪くない話だ。子種をすでに孕んだ女子だぞ。生まれた子をおのれの子と成せばよいではないか。悪いようにはせぬ、あの采女を妻として迎え入れよ」
鎌子の内情に踏み込んでくる内麻呂の言葉だったが、未だ子も持たず妻も持たない鎌子が傍からどう見えるのかを正面から認識させられる言葉だった。
車持は小さいとはいえ朝廷に出仕している地方の有力豪族である。王族である軽皇子の妃になるには身分が低いが、中臣とはおおよそ同格の一族だった。内麻呂の言う通り、悪くない話なのだろう。
「都にいる父に確認します」
それは鎌子が采女を妻にとることを前提とした返事だった。内麻呂は満足げに頷いた。
山科への帰り道、鎌子は上弦の月影を映す夕暮れの巨椋池で馬の足を止めた。
妻を持つ、という実感は湧かなかった。妻となる相手の手も触れないうちに半年後には子も生まれるとあってはなおさらだ。
鎌子は夜が迫る空を振り仰ぎ、内麻呂の提案を受け入れた己の心の内を問いただした。
自分は有力な豪族に繋がる妻を欲しいと思っていたのだろうか。
軽皇子との会話の内に、無闇と積み重ねただけの知識の使い道を探していたのだろうか。
それとも、阿倍内麻呂や軽皇子と繋がって政治の内幕に入ることを無意識のうちに望んでいたのだろうか。
あらためて心の奥底を探ってみれば、どの願望も自分の内にあったが、どの願望もそれ以上の根拠に至らなかった。
――正妻には、しない。
阿倍内麻呂は鎌子にそこまでは求めていない筈だった。それだけ決めると鎌子は馬の腹を軽く蹴り、山科に向かって駆け始めた。
朝、同じ道を山崎離宮に向かうときには雉が鳴く声が聞こえたが、日暮れた今は耳を凝らしても聞こえなかった。ただ立ち枯れた葦の葉が北風に揺れてさわさわと音を鳴らしていた。
妻を娶ることを都にいる父に認めてもらう必要はないが、報告はしなければならない。書簡か、あるいは直接行った方が良いのか。迷って飛鳥の中臣本邸を訪れることだけを知らせる木簡を書き終えたところで急な使いが飛び込んできた。
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