白雉の微睡

葛西秋

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第二章 石床の潦水

蒼穹の召呼

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 その後、山背大兄王の事件に関する知らせが山科にいる鎌子のところにも届いた。
 高向玄理から届いた書簡によれば、宮廷では蘇我入鹿の専横だと騒がれているらしい。だがそれだけではない、と鎌子は考えていた。その根拠は今も通い続けている山崎離宮で鎌子自身が見聞きしたことにある。

 事件前は度々山崎離宮を訪れていた阿倍内麻呂だが、事件の後は対応に追われ飛鳥から離れられずにいた。その内麻呂が軽皇子へ飛鳥の宮廷の状況を事細かに報告してくるのだ。遣わされた使者が内麻呂の言葉をそのまま口上することもあれば、木簡に記して寄越すこともある。細かな字で木簡に記された報告を軽皇子に奏上するのは字を読むことができる鎌子の務めだった。

 ――蘇我入鹿に対する不満はこれまで以上に膨れ上がっております。殿下におかれましてはそろそろご決断を頂きたく存じます

 書かれた最後の文言を読み上げて、鎌子は木簡の柵を持つ手を下ろした。
 山崎離宮の敷地に建つ古びた物見台の上には軽皇子と鎌子の二人が立っているだけだった。軽皇子は鎌子が報告を読み上げる間、眼下を流れる木津川の流れを眺めていた。

「蘇我が山背大兄王を滅ばしたのは古人大兄王に王位を継がせるという意志の表明だ。古人大兄王はそれを良しとしている。王族の後ろ盾がある限り、入鹿が次に狙うのはわたしだろうな」
 湊についた船から荷揚げが始まり、人足の掛け合う声が聞こえてきた。飛鳥の京は生駒の山並みにさえぎられてここからは見えない。
「このままにしておけば王位につかぬままこの命が潰えるどころか、臣に弑された王族という汚名まで着せられる。内麻呂の言う通り、わたしはそろそろ古人大兄王と対峙しなければならない」
 言葉の割に軽皇子の視線は空に、水面に、移ろって定まらない。
 軽皇子と阿倍内麻呂が結託しているように、古人大兄王と蘇我入鹿は共生の関係にある。どちらも目的が王位の継承に留まっていて、それ以上の考えは軽皇子にも阿倍にもないようだった。すべては王位を継承してからのこと、そう思い定めているのかもしれない。

 ――計画も目的も曖昧に過ぎる。王位を継承してもこれでは国が治まらないだろう。

 鎌子は心の内でそう思うだけに留め、内麻呂からの木簡を巻き取ってまとめた。

 皇極天皇が跡継ぎと認め皇太子としたのはその息子である葛城王である。葛城王が皇位継承を辞退すればその継承権は他の王族に廻ってくる。
 軽皇子も蘇我入鹿も年若い葛城王に皇位継承を辞退させることを前提に先のことを考えているのは明らかだ。

――だが葛城王が素直に皇位継承を放棄するだろうか。

 鎌子が思い出せるのはまだ童形だった二年前の葛城王の姿である。
 成人したとはいえ気が強く活発なあの性格が二年で変わるとは思えなかった。

 鎌子が見聞きした山背大兄王の事件の報告の中には葛城王について言及したものはなかった。葛城王は事件には巻き込まれておらず無事だということだろう。
 葛城王が今どのような状況にあるのか阿倍内麻呂に聞けば答えてくれただろう。けれど鎌子は内麻呂に聞こうとはしなかった。
 宮廷に出入りしている父にも高向玄理にも尋ねようとは思わなかった。葛城王との関わりを疑わたり、無遠慮に踏み込まれたりすることは避けたかった。

 中臣が祀るこの国の神々に葛城王が無事であることを祈るのだろうか。
 仏教の経典を詠唱して葛城王が無事であることを願えばよいのだろうか。

 自分の思いに捉われていた鎌子は、こちらを振り向いた軽皇子への拱手が遅れた。鎌子の微かな狼狽に気づかぬまま軽皇子は鎌子に告げた。

「中臣鎌子、我らと共に蘇我を倒さぬか。蘇我討伐が実現した暁には、そなたを遣唐使に任じよう」
「遣唐使、ですか」
「そうだ。そなた、唐に行ってみたいのではないのか」
「はい。以前からそのような希望は持っておりましたが」
「では飛鳥宮で阿倍内麻呂に協力せよ」

 物見台から去る軽皇子を見送った鎌子は、今一度、背後の木津川の流れを振り返った。

 軽皇子の提案は思いがけないものだった。
 南淵の死によって遠のいた、かつての遣唐使の夢が瞬時に甦り目の前に広がった。
 まだ見たことがない西の海を超えて唐に行き、未だ知らない膨大な知識に触れること。それは鎌子が勉学に目覚めた頃からの真摯な望みだった。

 計画性の乏しい謀略を推し進めようとする軽皇子と阿倍内麻呂への加担には不安がある。けれど利用できるものは利用してみようという気持ちが鎌子の中に沸き上がった。

 山崎離宮から見上げる空は遥か唐にも繋がっている。
 軽皇子と阿倍内麻呂の先には飛鳥宮の葛城王がいる。
 
 もう一度、飛鳥へ。

 皇極天皇三年正月、中臣鎌子は朝廷の神祇官の任に就くため飛鳥へと戻った。
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