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第二章 石床の潦水
大化の序章
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旻という僧侶は、大陸系の渡来人を祖とする新という氏族をその出自とする。元は新日文という名だったが、推古天皇の命を受けて遣隋使として大陸に渡り、彼の地で僧となった。日文という名を一字にまとめて僧名とした旻は、隋が唐に変わる時代を現地で見ている。
旻と共に遣隋使として大陸に渡った南渕請安や高向玄理もまた、隋の滅亡と唐の建国をその目で見ていた。二十数年を大陸で過ごした彼らは大陸の文化を倭に持ち帰っただけでなく、自身が歴史の証人としての経験を持ち合わせていた。
旻は飛鳥宮から南に離れた稲渕の谷の入り口で小規模ながら伽藍を備えた寺院を営んでいた。鎌子が飛鳥川の流れを辿ってその寺院を訪れると、旻自らが山門まで出迎えて鎌子を招き入れた。
「中臣鎌子殿、以前からお名前は伺っています。お待ちしておりました」
老僧は境内奥に建てられた小屋の中へと鎌子を案内した。その小屋は書庫として使われており壁一面の棚には木簡が積まれ、床には書物がみっしりと入れられた櫃が所狭しと並んでいた。部屋の中央には大きな机があって、今まさに読みかけだと思われる書籍、木簡が置かれていた。
仄暗い静寂が支配するその空間は、南渕の私塾とも、飛鳥宮の書庫とも異なる雰囲気を漂わせていた。
「挨拶もそこそこにこのような場所に通して申し訳ありませんが、鎌子殿ならここで話した方が話が早いと思いまして」
鎌子は旻の従者に勧められるまま、手近な椅子に腰を下ろした。
「私は唐から戻った後、ずっとここで彼の国の政治の在り方について研究を続けてまいりました」
旻が鎌子の前に一枚の紙を広げた。書かれている文字や図式で示されているのは唐の政府組織図だという。
皇帝を頂点としてその下に三省六部と呼ばれる組織が整然と並び、末端まで指揮命令系統が繋がっている。
「皇帝の命令は三省を通じて具体的な法律となり、全ての組織に伝達されます。また役職に就く官人は世襲ではなく、厳格な試験に合格した者が就きます」
旻の言葉には倭にはない抑揚があった。大陸の言葉に通じるその音は鎌子に今は亡き恩師、南淵を思い出させた。
「世襲ではない、ということは、特定の豪族による朝廷の支配は不可能になりますね」
鎌子の言葉に旻は深く頷いた。
「この仕組みこそ、これからの倭に必要なものではありませんか?」
「確かに。けれど旻殿、貴方は何故この研究をされているのですか? 大陸に遣わされた僧侶は仏典の研究をするものとばかり思っていましたが」
「私が遣唐使から戻った時に息長足日広額大王(舒明天皇・葛城王の父)の命令があったのです。唐の政治体制を研究せよ、と」
唐の組織図に目を奪われていた鎌子は、旻のその言葉に顔を上げた。
「息長足日広額大王はすでに亡くなられておりますが」
「はい。けれど宝皇女が大王に即位されたとき、これまで行われてきたことはすべて継続せよと仰せになりました」
――前の勅せる所の如く、更改め換ること無し
皇極天皇のその言葉は、蘇我蝦夷をして子の入鹿に大臣を継がせる口実となったが、旻においては研究を継続せよという命令となった。
「三省六部が何をしているところなのか、どのような働きがそこに務める官人に求められているのか、これまでに調べてきました。もちろん大陸の制度ですので倭には要不要があります」
「唐の制度をそのまま当てはめるわけにはいかない、ということですか」
「はい。この国に合う様に修正する必要があります」
なるほど、と鎌子は旻の説明に頷いた。旻は鎌子の様子を見て、
「けれど私は僧です。倭の朝廷の細かな決まりごとは分かりません。また唐では仏教と道教が主要な信仰で政治にも影響を与えていますが、倭国では未だ仏教はひろがっておりません」
「唐の制度は仏教や道教がなければ成り立たない仕組みなのでしょうか?」
「制度があっても、その決まり事を守ろうと人が自らを律する力が必要です。唐ではそれを仏教や道教に求めています」
旻がなぜ鎌子に熱弁を振るうのか、次第に鎌子にも分かってきた。
「旻殿は、我が国に古来伝わる神祇が唐でいうところの仏教や道教になるのではというお考えなのですか」
「はい。ですので宮廷神祇を司どる中臣の鎌子殿に是非、ご意見を頂きたいと思っていたのです」
旻はそう云い終えると鎌子に向かい拱手した。
しかし、と鎌子は思った。中臣に伝わる神祇は人智の外にある神への祈りであり、感謝であり、誓願である。人の心を律する教えとは性質が違う。
「旻殿、もし神祇を唐の政治の在り方に適用させようとするのなら、神祇の在り方も変わってしまいます。神と人との関係すら変容してしまうでしょう」
旻は鎌子の目をじっと見返しながら返事をした。
「中臣は神と人の間に立つ氏族だと聞いております。これは鎌子殿にしか考えることのできないことです。ぜひご助力を頂きたいと思います」
難しいことだとしか思えなかったが、鎌子は自分がかつて東国を回って豪族の信仰する神に倭の名を与えてきたことを思い出した。
猛々しくも気高い信州の山の神に建御名方という名を、常州のわだつみを渡る雄々しい海の神に武甕槌という名を与えた。
それらの武勇に優れた神の名を、例えば三省六部のうちの兵部という組織に置いてみる。石工や水利工作に優れた部民を有する豪族の神を工部に、朝廷で政に参加している豪族の神の名を皇帝直属の三省に置いてみた。
そして皇帝の座に倭の最高神である天照大神を置いてみると、唐の律令に似た枠組みは案外できるのではないかと思えてきた。
ただ豪族ごとに信仰する神があり、人間の血縁で結ばれた神もある。その関係性を反映する新たな神の名も必要だろう
天照大神を頂点とする倭国の神々の系統を整理し体系化することで、王の正統性とともに権力の方向を決定づけることができるのではないだろうか。
それは確かに王の神祇官であり、倭国の祭祀を司る中臣にしかできないことだった。
鎌子は正面から旻を見た。
「やってみましょう」
旻の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
「鎌子殿は南渕氏や玄理殿の云われていた通りのお方ですね」
「というと?」
「失礼ながら、中臣氏はかつて物部氏とともに仏教を排斥しようとしました。僧の云うことなど断られても無理はない、思っていたのです」
「王族が仏教を受け入れるのなら、王に仕える我々も全てを拒絶するわけにはいきません。私が中臣だからこそできることかもしれないと思えるのです」
旻はやや不思議そうに鎌子を見た。
「鎌子殿のその志は中臣のものなのでしょうか。それとも鎌子殿自身の意志なのでしょうか」
問われて言葉に詰まった。自分がやろうとしていることは、これまでの中臣の存在意義すら無効にしかねない。中臣の総意であろうはずがない。
理由を求めて思い浮かんだのは、葛城王の姿だった。
すぐに答えることのできない鎌子の様子を見て、旻は頭を下げて鎌子に詫びた。
「仏の道ですら追究する理由を求めるだけで一生を費やす者がおります。軽々しい質問をしてしまい、失礼いたしました」
この会話を機に、鎌子はその日、旻の寺院を辞去した。
旻は山門まで鎌子を見送った。
「旻殿、今日聞いたお話を他に伝えても良いでしょうか」
「王命で行っている研究です。どなたにお話しいただいても構いません。けれどよろしければどなたにお話になるつもりか、お聞かせ願いませんでしょうか」
「葛城王にお伝えしたいのです」
旻は深く頷いた。
「ぜひお伝えください。葛城王に先の王の意志が受け継がれるのなら何よりです。どうぞよろしくお願いいたします」
寺院を辞した鎌子は馬に乗り、飛鳥宮へと歩ませた。
盛夏を過ぎた飛鳥の夕日は青々と穂を伸ばす稲田を一面に照らしていた。
――葛城王に、この国の全てを。
いつか唐の皇帝のようにこの国に君臨する葛城王の姿を見てみたいと鎌子は思った。そしてそれはこれから後の鎌子の生涯を通じた目標となっていった。
旻と共に遣隋使として大陸に渡った南渕請安や高向玄理もまた、隋の滅亡と唐の建国をその目で見ていた。二十数年を大陸で過ごした彼らは大陸の文化を倭に持ち帰っただけでなく、自身が歴史の証人としての経験を持ち合わせていた。
旻は飛鳥宮から南に離れた稲渕の谷の入り口で小規模ながら伽藍を備えた寺院を営んでいた。鎌子が飛鳥川の流れを辿ってその寺院を訪れると、旻自らが山門まで出迎えて鎌子を招き入れた。
「中臣鎌子殿、以前からお名前は伺っています。お待ちしておりました」
老僧は境内奥に建てられた小屋の中へと鎌子を案内した。その小屋は書庫として使われており壁一面の棚には木簡が積まれ、床には書物がみっしりと入れられた櫃が所狭しと並んでいた。部屋の中央には大きな机があって、今まさに読みかけだと思われる書籍、木簡が置かれていた。
仄暗い静寂が支配するその空間は、南渕の私塾とも、飛鳥宮の書庫とも異なる雰囲気を漂わせていた。
「挨拶もそこそこにこのような場所に通して申し訳ありませんが、鎌子殿ならここで話した方が話が早いと思いまして」
鎌子は旻の従者に勧められるまま、手近な椅子に腰を下ろした。
「私は唐から戻った後、ずっとここで彼の国の政治の在り方について研究を続けてまいりました」
旻が鎌子の前に一枚の紙を広げた。書かれている文字や図式で示されているのは唐の政府組織図だという。
皇帝を頂点としてその下に三省六部と呼ばれる組織が整然と並び、末端まで指揮命令系統が繋がっている。
「皇帝の命令は三省を通じて具体的な法律となり、全ての組織に伝達されます。また役職に就く官人は世襲ではなく、厳格な試験に合格した者が就きます」
旻の言葉には倭にはない抑揚があった。大陸の言葉に通じるその音は鎌子に今は亡き恩師、南淵を思い出させた。
「世襲ではない、ということは、特定の豪族による朝廷の支配は不可能になりますね」
鎌子の言葉に旻は深く頷いた。
「この仕組みこそ、これからの倭に必要なものではありませんか?」
「確かに。けれど旻殿、貴方は何故この研究をされているのですか? 大陸に遣わされた僧侶は仏典の研究をするものとばかり思っていましたが」
「私が遣唐使から戻った時に息長足日広額大王(舒明天皇・葛城王の父)の命令があったのです。唐の政治体制を研究せよ、と」
唐の組織図に目を奪われていた鎌子は、旻のその言葉に顔を上げた。
「息長足日広額大王はすでに亡くなられておりますが」
「はい。けれど宝皇女が大王に即位されたとき、これまで行われてきたことはすべて継続せよと仰せになりました」
――前の勅せる所の如く、更改め換ること無し
皇極天皇のその言葉は、蘇我蝦夷をして子の入鹿に大臣を継がせる口実となったが、旻においては研究を継続せよという命令となった。
「三省六部が何をしているところなのか、どのような働きがそこに務める官人に求められているのか、これまでに調べてきました。もちろん大陸の制度ですので倭には要不要があります」
「唐の制度をそのまま当てはめるわけにはいかない、ということですか」
「はい。この国に合う様に修正する必要があります」
なるほど、と鎌子は旻の説明に頷いた。旻は鎌子の様子を見て、
「けれど私は僧です。倭の朝廷の細かな決まりごとは分かりません。また唐では仏教と道教が主要な信仰で政治にも影響を与えていますが、倭国では未だ仏教はひろがっておりません」
「唐の制度は仏教や道教がなければ成り立たない仕組みなのでしょうか?」
「制度があっても、その決まり事を守ろうと人が自らを律する力が必要です。唐ではそれを仏教や道教に求めています」
旻がなぜ鎌子に熱弁を振るうのか、次第に鎌子にも分かってきた。
「旻殿は、我が国に古来伝わる神祇が唐でいうところの仏教や道教になるのではというお考えなのですか」
「はい。ですので宮廷神祇を司どる中臣の鎌子殿に是非、ご意見を頂きたいと思っていたのです」
旻はそう云い終えると鎌子に向かい拱手した。
しかし、と鎌子は思った。中臣に伝わる神祇は人智の外にある神への祈りであり、感謝であり、誓願である。人の心を律する教えとは性質が違う。
「旻殿、もし神祇を唐の政治の在り方に適用させようとするのなら、神祇の在り方も変わってしまいます。神と人との関係すら変容してしまうでしょう」
旻は鎌子の目をじっと見返しながら返事をした。
「中臣は神と人の間に立つ氏族だと聞いております。これは鎌子殿にしか考えることのできないことです。ぜひご助力を頂きたいと思います」
難しいことだとしか思えなかったが、鎌子は自分がかつて東国を回って豪族の信仰する神に倭の名を与えてきたことを思い出した。
猛々しくも気高い信州の山の神に建御名方という名を、常州のわだつみを渡る雄々しい海の神に武甕槌という名を与えた。
それらの武勇に優れた神の名を、例えば三省六部のうちの兵部という組織に置いてみる。石工や水利工作に優れた部民を有する豪族の神を工部に、朝廷で政に参加している豪族の神の名を皇帝直属の三省に置いてみた。
そして皇帝の座に倭の最高神である天照大神を置いてみると、唐の律令に似た枠組みは案外できるのではないかと思えてきた。
ただ豪族ごとに信仰する神があり、人間の血縁で結ばれた神もある。その関係性を反映する新たな神の名も必要だろう
天照大神を頂点とする倭国の神々の系統を整理し体系化することで、王の正統性とともに権力の方向を決定づけることができるのではないだろうか。
それは確かに王の神祇官であり、倭国の祭祀を司る中臣にしかできないことだった。
鎌子は正面から旻を見た。
「やってみましょう」
旻の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
「鎌子殿は南渕氏や玄理殿の云われていた通りのお方ですね」
「というと?」
「失礼ながら、中臣氏はかつて物部氏とともに仏教を排斥しようとしました。僧の云うことなど断られても無理はない、思っていたのです」
「王族が仏教を受け入れるのなら、王に仕える我々も全てを拒絶するわけにはいきません。私が中臣だからこそできることかもしれないと思えるのです」
旻はやや不思議そうに鎌子を見た。
「鎌子殿のその志は中臣のものなのでしょうか。それとも鎌子殿自身の意志なのでしょうか」
問われて言葉に詰まった。自分がやろうとしていることは、これまでの中臣の存在意義すら無効にしかねない。中臣の総意であろうはずがない。
理由を求めて思い浮かんだのは、葛城王の姿だった。
すぐに答えることのできない鎌子の様子を見て、旻は頭を下げて鎌子に詫びた。
「仏の道ですら追究する理由を求めるだけで一生を費やす者がおります。軽々しい質問をしてしまい、失礼いたしました」
この会話を機に、鎌子はその日、旻の寺院を辞去した。
旻は山門まで鎌子を見送った。
「旻殿、今日聞いたお話を他に伝えても良いでしょうか」
「王命で行っている研究です。どなたにお話しいただいても構いません。けれどよろしければどなたにお話になるつもりか、お聞かせ願いませんでしょうか」
「葛城王にお伝えしたいのです」
旻は深く頷いた。
「ぜひお伝えください。葛城王に先の王の意志が受け継がれるのなら何よりです。どうぞよろしくお願いいたします」
寺院を辞した鎌子は馬に乗り、飛鳥宮へと歩ませた。
盛夏を過ぎた飛鳥の夕日は青々と穂を伸ばす稲田を一面に照らしていた。
――葛城王に、この国の全てを。
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