白雉の微睡

葛西秋

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第二章 石床の潦水

上番の制

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 旻の寺院に訪問した次の日に、鎌子はさっそくその内容を飛鳥宮にいる葛城王に伝えた。

 葛城王は東宮の執務部屋の卓を挟んで鎌子の報告を聞いた。
「鎌子、今の話だと唐は豪族の子弟を朝廷の任務にあたらせるのではなく、能力を見極める選抜によって朝廷に仕える官人を選んでいるのか」
「そのようです」

 現在の倭朝廷の政は、倭に服属した豪族が一族の上位の者を差し出して朝廷に奉仕させる上番制が習慣とされていた。朝廷に送り込まれた豪族の首長の子弟が発言権を得て政の中央に食い込めば、それはそのまま差し出した豪族の勢力を増大させることになる。
 また采女として差し出された一族の若い娘が王族との間に子供をもうければ王族とも縁戚になれる可能性があった。

 長らく続けられてきた上番制は蘇我氏のような強大な豪族を作り出しただけでなく、王族ですら介入できない豪族同士の複雑な権力関係の原因にもなっていた。

 だが唐で施行されているような試験を行って人材を得るという制度は、豪族とは無関係の人物を政に参加させることにもなる。

「神祇を執る中臣の私が、武人としての才を認められて葛城王に仕えることもあり得るのです」
「鎌子は一通りなんでもできそうだ」
 葛城王の言葉は軽口にも聞こえたので、鎌子は軽く笑みを浮かべて葛城王を見た。だが葛城王の顔は案外まじめだった。
「鎌子は蹴鞠ができるだろう、弓を使えるだろう、それにこの間は琴を弾いていた」
「あの琴は神を呼び起すためのものです。楽曲を奏でるものではありません」
「そうなのか」
「……私は城を築くことはできませんし、鉄を打つこともできません。神祇の他はできないことばかりです」
 話の本題からずれて鎌子に何ができて何ができないのか、葛城王が好奇心で追求し始める前に鎌子はその先手を制した。
「特別な技能というのものは数えきれないほどありますが、一方で文字の読み書きはこれから先、かならず必要な技能です」
「そうだな」
 葛城王は同意を示した。
 朝廷の要職にあっても読み書きができない者はいまだ多い。自らの部民に読み書きのできる渡来人を引き入れてそれでどうにか対応している。

 文字の読み書きだけでなく、大陸や半島の優れた技術をもつ渡来人をどれだけ自分の領地の部民として囲い込めるか。それもまた豪族の力を左右する要因だった。

 葛城王は鎌子が旻から借り受けた書物を見ながら、
「能力がある者を官職に配置する、というのは確かに良案だ。けれどそういった者たちが自分の判断で登用試験を受けることができるのだろうか。部民を所有しているのはその土地の豪族だ」
「そうなりますと、部民という制度そのものを変えなければなりませんね」
「どうなる」
 葛城王の視線がまっすぐに鎌子に向けられる。
「民はすべて皇帝のもの、と。確か唐はそのようなことを明言していたかと思います」
 鎌子は手元の書籍、木簡のなかからその部分を探そうとしたのだが見つからなかった。
「それは臣たちが強く反発するだろう」
 葛城王は鎌子を急かすでもなく眺めながらそう云った。
「はい。もう少し考える必要がありそうです。それでももしこの制度を導入するならば、一息に行うのではなく、いくつかに分けた段階が必要です」
 鎌子は手元の資料よくよく探してみたのだが目的の文章は見つからなかった。旻から借りてくるのを逸したようだ。鎌子がそのことを葛城王に告げると、葛城王はそうか、と軽く頷いた。
「鎌子、どのようにして人材を登用するのかというその問題を含め、旻や玄理と共に唐の律令を倭に導入するための叩き台を作れ」
 明瞭な葛城王の命令に、鎌子は拱手で応えた。
 同時に葛城王の鋭敏な判断力や迷いなく命令を下すときの凛然とした様子に、紛れなく大王の素質があると改めて思った。

 ……私は葛城王を唐の皇帝のような大王にしたい

 その言葉は口に出されないまま、鎌子の心の内の決意を強く固めていった。

 鎌子の公の立場は葛城王が執り行う神祇の補佐である。
 このため鎌子は葛城王の執務部屋近くに小さいながら部屋を与えられていた。本来は神祇に使う祭祀道具や衣装を運び込むための部屋だったが、壁に棚を作り、広い卓を置いて文献の調査がしやすいように改装した。その手狭な部屋で高向玄理とともに葛城王に命じられた律令の草案作りが始まった。

「葛城王が言われたというその言葉通り、難しいのはどのように実行するのか、ということです」
 玄理もまた、葛城王や鎌子と同じ意見だった。
「鎌子殿に何かお考えはありますか」
「上番制の廃止は豪族からの反発が必至です。ならばせめて飛鳥周辺の豪族から始めさせてはどうでしょう」
 玄理は困った顔になった。
「そうすると大臣である蘇我殿をまず味方につけなければなりませんね」
 確かにそうなのである。豪族の権力を削ぐために、まずその豪族の同意を得なければならない。これまでの政の歪みがこの事態を招いていた。

 二人して議論に行き詰ってしばらく、玄理がふと思い出したことを口にした。
「そういえば入鹿殿の様子がこのごろおかしいという噂を聞いています」
「なにか不審な言動でもあったのですか?」
「その反対でやけに静かなのです。以前までは政を決める臣たちの合議の場で立て板に水のように持論を披露されることが度々ありました。ですがこのところ心ここにあらずといった様子がたびたび見られるのです」

 漢字の読み書きができる玄理は、今の朝廷で文書を扱う任務に就いている。ここはいつも人手不足で、最近は玄理も臣が集まって行う合議の場に出て記録を取ることが多い。その時に見た入鹿の姿に隠しようのない憔悴の気配があったのだという。
「父親の蝦夷殿は良くも悪くも他の豪族を圧する威厳がおありでした。入鹿殿はまだお若い。蝦夷殿が大臣にあったとき圧せられていた豪族の方たちから心無い言葉が向けられることもしばしばあります」
「入鹿殿に厳しく当たるのはやはり阿倍内麻呂様でしょうか」
 鎌子は何気なく尋ねたつもりだったが、玄理は肯定も否定もせずに明言を避けた。
「さあ、阿倍様一人だけというわけではなさそうですが、日に日に阿倍様に同調する数が増えているようにも見えます」
 蘇我氏の衰えを敏感に察知した阿倍氏が次第に本性を現し始めたというところだろう。今後、あるいは蘇我氏と阿倍氏の立場が逆転することも考えられる。
 ただ阿倍内麻呂が蘇我入鹿に取って代わったとしても目下の懸念は変わらなかった。
「……阿倍様は上番制の廃止に賛成してくれるだろうか」
 思わず鎌子が洩らした独り言、それはほとんど否定的な希望だった。
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