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第二章 石床の潦水
移風の兆
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鎌子は旻から借りそびれた資料を貸してもらうために、早朝、中臣の館から直接旻の寺院に向かった。秋の朝の冷気は飛鳥川から川霧を立ち昇らせて、鎌子が乗る鹿毛の馬の足先を濡らした。
寺院の境内にはすでに多くの人の気配があった。取次に出た年若い僧侶に聞くと今朝は旻が講義を行う日なのだという。講義が終わるまでただ待つよりも、周易を得意とする旻がどのような話をするのか、鎌子は興味が湧いた。周易は大陸の神祇に通じている。
「私も聞かせてもらってもよいでしょうか」
「もちろんです。もう始まっておりますが、あちらの入り口からどうぞ」
鎌子は僧侶に示された半開きの戸からそっと中に入った。講堂の中は開けられた蔀から入る朝の光がうっすらと差し込むだけの明るさで、目が慣れない鎌子はうっかり香炉の置かれた台にぶつかってしまった。
それほど大きな音ではなかったが、講堂の中、板張りの床に敷物を敷いて座る何人かが振り向いた。その中に席を詰めて鎌子を招く仕草の人影があった。助けられた思いでその場に座り礼を言うと、相手は蘇我入鹿だった。
入鹿は興味深そうに隣に座る鎌子を覗き込んできた。鎌子が誰だか分からないまま自分の隣に招いたようだ。
「南淵先生の塾で見た顔だ」
入鹿は鎌子より二、三歳年下だが同年代といっていい年齢である。南淵が遣唐使として唐に赴いている間、入鹿は留守を任された南淵の門弟から教えを受けていた。当時、東国の旅から戻って時折手伝いに訪れていた鎌子の姿を微かに憶えていたらしい。
「中臣鎌子と申します」
鎌子は軽く会釈して入鹿の視線に応えた。
「中臣」
入鹿は眉を上げた。その覇気ある顔貌に微かに困惑の色が浮かぶ。
蘇我と中臣は百年ほど前、用明天皇の頃に仏教の受容を巡って確執があった。その確執の結果、中臣は政の権威を失墜し今に至っている。鎌子は入鹿に向けていた目を伏せた。
「昔のことを私は気にしませんが、入鹿殿が気にするようでしたら私は場所を移ります」
入鹿は軽く肩をすくめて自分も気にしていないことを無言で示し、顔を前に向けた。会話はそれで終わりかと思ったら、入鹿は小声で鎌子に話しかけてきた。
「……鎌子殿は宮廷には出ていないのか」
「最近、宮仕えになったばかりです。政の場には参加せずに葛城王の神祇の補佐をしておりますので、入鹿殿に会う機会はこれまでありませんでした」
「へえ、あの葛城王の相手は大変だろう」
葛城王の名を気軽に呼ぶ入鹿に、鎌子は一瞬軽い反発を覚えたが入鹿に悪気は皆無だった。
「葛城王は今、何歳になるんだったか」
入鹿は鎌子の困惑には気づかないまま、機嫌が良いともとれる口調で鎌子に訊いてきた。
「十九歳です」
「若いなあ。自分が十九歳だったときなんて遥か昔のことのようだ」
鎌子はあまりに屈託ない入鹿に拍子抜けの気持ちすら覚えた。
入鹿はそれ以上話しかけてくることはなく、二人は並んで旻の講義を聞いた。
天変で吉兆を占う旻の周易の講義が終わって、鎌子は旻と話す機会を得た。だが旻は申し訳なさそうに鎌子に詫びた。
「鎌子様、申し訳ございません、これから定められた法要がありますのでお相手することができません。お申し付けの資料は弟子が用意いたしますので、どうぞこちらでお待ちください」
「こちらこそ前触れを出すべきでした。お忙しい時に失礼いたしました」
旻に礼を言って鎌子は講堂に留まった。
旻の講義を聴いていた者達は、ある者は去り、ある者は本堂へと移動して、その場に残るのは鎌子だけになった。
旻が座していた場所には背後に脇侍を従えた観音菩薩像が置かれている。次第に明るさを増していく秋の陽の光が観音像の足元を照らしていた。鎌子は菩薩像の前に座して暗記している維摩経の一節を読み上げた。
――爾時釋提桓因 於大衆中 白佛言世尊 我雖従佛及文殊師利聞百千経 未會聞此不可思議自在神通
講堂に誰かが入ってきた気配を感じ、鎌子は読経を止めて振り向いた。そこには既に帰ったと思っていた入鹿の姿があった。入鹿は気負いなく観音菩薩の前に進み、座して礼拝した。流石に仏教を篤く信仰する蘇我氏の当主ともいうべき流れるような作法だった。
「鎌子殿は仏教の勉強をしているのか」
突然、入鹿にそう問われて鎌子は戸惑ったが、けれど今、取り組み始めた律令の制定には蘇我氏の協力が必要であることを思い起こし、思い切って切り出した。
「いえ、この国の在り方について勉強しています」
今度は入鹿の方が意表を突かれたようで、鎌子の顔を無言で眺めた。鎌子は入鹿から目を離さないまま、二人は観音菩薩像の前で対峙した。
「……限られたいくつかの豪族による政の運営はもう無理だろう。親父にもそう言ったんだけどな」
やがて口を開いた入鹿は軽くそう言ったが、軽皇子とは異なり、現実的に物事を見ている人間の意見だった。
「かといって学者が云うような唐の律令は、この国の者達が受け入れるのには時間がかかる。段階的に移行できるような、あるいはこの国に合った別の仕組みはないだろうかとは考えている」
入鹿の意見に鎌子は驚きを覚えた。入鹿は唐の律令を否定してはいるが、考え方としては鎌子とそう遠くはない。
「そうですね。この国に受け入れられるような仕組みならば、例えば氏の持ち回りで大臣を務めるというのはいかがでしょうか」
鎌子は、他の豪族の合意なく父である蝦夷から大臣の位を譲り受けた入鹿に対する牽制を試してみた。だが入鹿は怒るよりもむしろ面白そうに笑みを浮かべた。
「合議無く、ただ決められた順番に応じて、か」
「はい。氏で決めた長者がその任に就く、というのは」
「面白いかもしれない。だが持ち回りとなる氏をどう決める。力のある豪族など、時間が経てばころころ変わる」
「確かに。では入鹿殿はどのようなお考えをお持ちでしょうか」
入鹿は鎌子の真の目的がこの質問にあることを瞬時に見抜いた。笑みを消し、強さを増した眼光で鎌子を見据えて入鹿は言った。
「百済王族を倭の朝廷に組み込む」
「……それは」
今度は鎌子が絶句する側だった。
「臣が変わるより、王の在り方が変わった方が良いとは思わないか」
「待ってください、百済の王族を倭の臣にするのではなく、倭の王位を継承させるということですか」
入鹿は不敵な笑みで頷いた。
「何を狼狽える。既に何代か前の王族には百済王家の血が入っている」
それは確かに紛れない事実ではあった。
だが。
思いがけない入鹿の提案に反論する糸口が見つからない鎌子から目を離さないまま入鹿が言う。
「と、今の鎌子殿のように、このような意見はなかなか他には受け入れ難いものだろう」
本気なのか、冗談なのか、入鹿の口調からは読めなかった。しばらく互いが互いを探り合い、やがてどちらともなく逸らした目は正面の観音菩薩像に向けられた。
試そうとして、試された。
会話の速度が同じなのは同程度の思考力を持っているからだ。
鎌子は入鹿との会話に葛城王とは違うひりつくような昂揚を感じた。
「王族をどうこういうより前に我が一族も一枚岩ではない」
入鹿の方は鎌子を認めたようで、気を許した相手にするように自分の身内の話を始めた。
「石麻呂など不平不満のかたまりだ。相応の待遇が得られていないというが、努力も学ぶ姿勢も欠いている。あれでは役を斡旋しようにも役が無い」
入鹿の口調の気軽さの中には、それまでなかった鎌子に対する親しみがあった。
一度認めた相手は無条件で信用する。多くの豪族を束ねる大臣の地位を継承してきた一族に独特の、育ちの良さともいえる性質だった。鎌子は微笑して入鹿に応じた。
「身内に対して厳しい意見ですね」
「身内だからこそさ」
ただ入鹿には少々気配りが欠けるように鎌子は思った。そしてそれこそが葛城王と合わないところだろう。もし入鹿も共に律令の草案作成に関わるのなら、葛城王との調整は自分がしなければならない。
鎌子がそこまで考えを巡らしていた一方で、入鹿の表情は穏やかになっていた。
「久しぶりにこんな話をした気がする。朝廷の臣たちと建設的な話し合いなどできたためしがない」
入鹿の根が素直なところは葛城王と似ている。上手く二人の間を取り持つことができれば、草案作りは捗るに違いない。鎌子はこれから先の見通しに明るい兆しを見出した。
「入鹿殿がそう思われるのなら、それはここが政から離れた学問の場だからではないでしょうか」
「そうかもしれない。それにしても学問からもこのところ遠ざかっていた」
ここに来てみてよかったな、そう呟く入鹿の声を鎌子は聞いた。
観音菩薩像の眼差しが講堂中に注がれている。鎌子と入鹿はどちらともなく菩薩像に手を合わせた。
「……最近、親父殿が妙なふるまいをするようになった」
入鹿が観音菩薩像に目を向けたまま、ひとり言のように話し始めた。鎌子はこれまでとは異なり覇気が感じられない入鹿の横顔を見た。入鹿の様子がおかしい、と玄理が言っていたことを思い出す。
「妙とは」
「わたしが跡目を継いだ後、親父は引退して悠々自適の生活を始めた。最初のうちはそれを楽しんでいたのだが、この頃は無理難題を言い出したり、家中の者を激しく叱責したりすることが多くなった」
先ほどの石麻呂よりも深刻な話に、思わず鎌子も眉根を寄せた。
「親父殿は今までが気の張りつめた生活だったから仕方ない、というものもいるのだが、記憶もしだいに失くしつつある。体の自由も効かなくなってただ老いの焦りだけが日々、募っている」
「年寄りの中にはそんな者もあるといいますが」
「親父殿はただの年寄りではない。せめて家の中で大人しくしていてくれればいいのだが」
「……入鹿殿は臣を束ねる大臣の任を預かっておられます。お身内のことに煩わされるのはご苦労な事でしょう」
鎌子の言葉に、うん、と入鹿は小さく頷き、しばらく無言で観音像を仰ぎ見た後にぽつりと言葉を洩らした。
「臣を統率すれば王から叛逆を疑われ、王に従えば他の臣を裏切ることになる。大臣の座がここまで苦しいものだとは知らなかった」
入鹿はその先の言葉を呑み込んだ。
話す必要のないことまでうっかり口にしてしまった、という心の揺らぎが明らだったが、けれど入鹿が誰にも相談できずに一人で抱え込んでいたというその心情の機微は鎌子自身にも心当たりがあるものだった。
当初こそ蘇我の権力を利用できればという計算が鎌子にあったが、今は入鹿に同情する気持ちの方が強かった。
「入鹿殿」
鎌子がかけた言葉に慰めを感じ取った入鹿は、それを振り切るように立ち上がった。
「中臣鎌子殿、今後宮廷で顔を合わせることも増えるだろう。我々の世代でこれからの国を造っていこう。楽しみだ」
「私は表には出ない神祇官ですので、どこまでお手伝いできるか分かりませんが」
鎌子もその場に立ち上がり、拱手で応えた。
従者と共に寺院の門をでる入鹿を見送ってそう時間も経たないうちに、旻の侍僧が鎌子を呼びにやって来た。
用意された書物を受け取って馬の背に乗せ飛鳥宮に戻る道すがら、入鹿との会話で呼び起された昂揚の熱は次第に宥められた。
改めて思い返すと、入鹿との会話の中に引っ掛かりを覚えた箇所があった。
――王に従えば他の臣を裏切ることになる
入鹿はいったい何のことを言ったのだろう。
寺院の境内にはすでに多くの人の気配があった。取次に出た年若い僧侶に聞くと今朝は旻が講義を行う日なのだという。講義が終わるまでただ待つよりも、周易を得意とする旻がどのような話をするのか、鎌子は興味が湧いた。周易は大陸の神祇に通じている。
「私も聞かせてもらってもよいでしょうか」
「もちろんです。もう始まっておりますが、あちらの入り口からどうぞ」
鎌子は僧侶に示された半開きの戸からそっと中に入った。講堂の中は開けられた蔀から入る朝の光がうっすらと差し込むだけの明るさで、目が慣れない鎌子はうっかり香炉の置かれた台にぶつかってしまった。
それほど大きな音ではなかったが、講堂の中、板張りの床に敷物を敷いて座る何人かが振り向いた。その中に席を詰めて鎌子を招く仕草の人影があった。助けられた思いでその場に座り礼を言うと、相手は蘇我入鹿だった。
入鹿は興味深そうに隣に座る鎌子を覗き込んできた。鎌子が誰だか分からないまま自分の隣に招いたようだ。
「南淵先生の塾で見た顔だ」
入鹿は鎌子より二、三歳年下だが同年代といっていい年齢である。南淵が遣唐使として唐に赴いている間、入鹿は留守を任された南淵の門弟から教えを受けていた。当時、東国の旅から戻って時折手伝いに訪れていた鎌子の姿を微かに憶えていたらしい。
「中臣鎌子と申します」
鎌子は軽く会釈して入鹿の視線に応えた。
「中臣」
入鹿は眉を上げた。その覇気ある顔貌に微かに困惑の色が浮かぶ。
蘇我と中臣は百年ほど前、用明天皇の頃に仏教の受容を巡って確執があった。その確執の結果、中臣は政の権威を失墜し今に至っている。鎌子は入鹿に向けていた目を伏せた。
「昔のことを私は気にしませんが、入鹿殿が気にするようでしたら私は場所を移ります」
入鹿は軽く肩をすくめて自分も気にしていないことを無言で示し、顔を前に向けた。会話はそれで終わりかと思ったら、入鹿は小声で鎌子に話しかけてきた。
「……鎌子殿は宮廷には出ていないのか」
「最近、宮仕えになったばかりです。政の場には参加せずに葛城王の神祇の補佐をしておりますので、入鹿殿に会う機会はこれまでありませんでした」
「へえ、あの葛城王の相手は大変だろう」
葛城王の名を気軽に呼ぶ入鹿に、鎌子は一瞬軽い反発を覚えたが入鹿に悪気は皆無だった。
「葛城王は今、何歳になるんだったか」
入鹿は鎌子の困惑には気づかないまま、機嫌が良いともとれる口調で鎌子に訊いてきた。
「十九歳です」
「若いなあ。自分が十九歳だったときなんて遥か昔のことのようだ」
鎌子はあまりに屈託ない入鹿に拍子抜けの気持ちすら覚えた。
入鹿はそれ以上話しかけてくることはなく、二人は並んで旻の講義を聞いた。
天変で吉兆を占う旻の周易の講義が終わって、鎌子は旻と話す機会を得た。だが旻は申し訳なさそうに鎌子に詫びた。
「鎌子様、申し訳ございません、これから定められた法要がありますのでお相手することができません。お申し付けの資料は弟子が用意いたしますので、どうぞこちらでお待ちください」
「こちらこそ前触れを出すべきでした。お忙しい時に失礼いたしました」
旻に礼を言って鎌子は講堂に留まった。
旻の講義を聴いていた者達は、ある者は去り、ある者は本堂へと移動して、その場に残るのは鎌子だけになった。
旻が座していた場所には背後に脇侍を従えた観音菩薩像が置かれている。次第に明るさを増していく秋の陽の光が観音像の足元を照らしていた。鎌子は菩薩像の前に座して暗記している維摩経の一節を読み上げた。
――爾時釋提桓因 於大衆中 白佛言世尊 我雖従佛及文殊師利聞百千経 未會聞此不可思議自在神通
講堂に誰かが入ってきた気配を感じ、鎌子は読経を止めて振り向いた。そこには既に帰ったと思っていた入鹿の姿があった。入鹿は気負いなく観音菩薩の前に進み、座して礼拝した。流石に仏教を篤く信仰する蘇我氏の当主ともいうべき流れるような作法だった。
「鎌子殿は仏教の勉強をしているのか」
突然、入鹿にそう問われて鎌子は戸惑ったが、けれど今、取り組み始めた律令の制定には蘇我氏の協力が必要であることを思い起こし、思い切って切り出した。
「いえ、この国の在り方について勉強しています」
今度は入鹿の方が意表を突かれたようで、鎌子の顔を無言で眺めた。鎌子は入鹿から目を離さないまま、二人は観音菩薩像の前で対峙した。
「……限られたいくつかの豪族による政の運営はもう無理だろう。親父にもそう言ったんだけどな」
やがて口を開いた入鹿は軽くそう言ったが、軽皇子とは異なり、現実的に物事を見ている人間の意見だった。
「かといって学者が云うような唐の律令は、この国の者達が受け入れるのには時間がかかる。段階的に移行できるような、あるいはこの国に合った別の仕組みはないだろうかとは考えている」
入鹿の意見に鎌子は驚きを覚えた。入鹿は唐の律令を否定してはいるが、考え方としては鎌子とそう遠くはない。
「そうですね。この国に受け入れられるような仕組みならば、例えば氏の持ち回りで大臣を務めるというのはいかがでしょうか」
鎌子は、他の豪族の合意なく父である蝦夷から大臣の位を譲り受けた入鹿に対する牽制を試してみた。だが入鹿は怒るよりもむしろ面白そうに笑みを浮かべた。
「合議無く、ただ決められた順番に応じて、か」
「はい。氏で決めた長者がその任に就く、というのは」
「面白いかもしれない。だが持ち回りとなる氏をどう決める。力のある豪族など、時間が経てばころころ変わる」
「確かに。では入鹿殿はどのようなお考えをお持ちでしょうか」
入鹿は鎌子の真の目的がこの質問にあることを瞬時に見抜いた。笑みを消し、強さを増した眼光で鎌子を見据えて入鹿は言った。
「百済王族を倭の朝廷に組み込む」
「……それは」
今度は鎌子が絶句する側だった。
「臣が変わるより、王の在り方が変わった方が良いとは思わないか」
「待ってください、百済の王族を倭の臣にするのではなく、倭の王位を継承させるということですか」
入鹿は不敵な笑みで頷いた。
「何を狼狽える。既に何代か前の王族には百済王家の血が入っている」
それは確かに紛れない事実ではあった。
だが。
思いがけない入鹿の提案に反論する糸口が見つからない鎌子から目を離さないまま入鹿が言う。
「と、今の鎌子殿のように、このような意見はなかなか他には受け入れ難いものだろう」
本気なのか、冗談なのか、入鹿の口調からは読めなかった。しばらく互いが互いを探り合い、やがてどちらともなく逸らした目は正面の観音菩薩像に向けられた。
試そうとして、試された。
会話の速度が同じなのは同程度の思考力を持っているからだ。
鎌子は入鹿との会話に葛城王とは違うひりつくような昂揚を感じた。
「王族をどうこういうより前に我が一族も一枚岩ではない」
入鹿の方は鎌子を認めたようで、気を許した相手にするように自分の身内の話を始めた。
「石麻呂など不平不満のかたまりだ。相応の待遇が得られていないというが、努力も学ぶ姿勢も欠いている。あれでは役を斡旋しようにも役が無い」
入鹿の口調の気軽さの中には、それまでなかった鎌子に対する親しみがあった。
一度認めた相手は無条件で信用する。多くの豪族を束ねる大臣の地位を継承してきた一族に独特の、育ちの良さともいえる性質だった。鎌子は微笑して入鹿に応じた。
「身内に対して厳しい意見ですね」
「身内だからこそさ」
ただ入鹿には少々気配りが欠けるように鎌子は思った。そしてそれこそが葛城王と合わないところだろう。もし入鹿も共に律令の草案作成に関わるのなら、葛城王との調整は自分がしなければならない。
鎌子がそこまで考えを巡らしていた一方で、入鹿の表情は穏やかになっていた。
「久しぶりにこんな話をした気がする。朝廷の臣たちと建設的な話し合いなどできたためしがない」
入鹿の根が素直なところは葛城王と似ている。上手く二人の間を取り持つことができれば、草案作りは捗るに違いない。鎌子はこれから先の見通しに明るい兆しを見出した。
「入鹿殿がそう思われるのなら、それはここが政から離れた学問の場だからではないでしょうか」
「そうかもしれない。それにしても学問からもこのところ遠ざかっていた」
ここに来てみてよかったな、そう呟く入鹿の声を鎌子は聞いた。
観音菩薩像の眼差しが講堂中に注がれている。鎌子と入鹿はどちらともなく菩薩像に手を合わせた。
「……最近、親父殿が妙なふるまいをするようになった」
入鹿が観音菩薩像に目を向けたまま、ひとり言のように話し始めた。鎌子はこれまでとは異なり覇気が感じられない入鹿の横顔を見た。入鹿の様子がおかしい、と玄理が言っていたことを思い出す。
「妙とは」
「わたしが跡目を継いだ後、親父は引退して悠々自適の生活を始めた。最初のうちはそれを楽しんでいたのだが、この頃は無理難題を言い出したり、家中の者を激しく叱責したりすることが多くなった」
先ほどの石麻呂よりも深刻な話に、思わず鎌子も眉根を寄せた。
「親父殿は今までが気の張りつめた生活だったから仕方ない、というものもいるのだが、記憶もしだいに失くしつつある。体の自由も効かなくなってただ老いの焦りだけが日々、募っている」
「年寄りの中にはそんな者もあるといいますが」
「親父殿はただの年寄りではない。せめて家の中で大人しくしていてくれればいいのだが」
「……入鹿殿は臣を束ねる大臣の任を預かっておられます。お身内のことに煩わされるのはご苦労な事でしょう」
鎌子の言葉に、うん、と入鹿は小さく頷き、しばらく無言で観音像を仰ぎ見た後にぽつりと言葉を洩らした。
「臣を統率すれば王から叛逆を疑われ、王に従えば他の臣を裏切ることになる。大臣の座がここまで苦しいものだとは知らなかった」
入鹿はその先の言葉を呑み込んだ。
話す必要のないことまでうっかり口にしてしまった、という心の揺らぎが明らだったが、けれど入鹿が誰にも相談できずに一人で抱え込んでいたというその心情の機微は鎌子自身にも心当たりがあるものだった。
当初こそ蘇我の権力を利用できればという計算が鎌子にあったが、今は入鹿に同情する気持ちの方が強かった。
「入鹿殿」
鎌子がかけた言葉に慰めを感じ取った入鹿は、それを振り切るように立ち上がった。
「中臣鎌子殿、今後宮廷で顔を合わせることも増えるだろう。我々の世代でこれからの国を造っていこう。楽しみだ」
「私は表には出ない神祇官ですので、どこまでお手伝いできるか分かりませんが」
鎌子もその場に立ち上がり、拱手で応えた。
従者と共に寺院の門をでる入鹿を見送ってそう時間も経たないうちに、旻の侍僧が鎌子を呼びにやって来た。
用意された書物を受け取って馬の背に乗せ飛鳥宮に戻る道すがら、入鹿との会話で呼び起された昂揚の熱は次第に宥められた。
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