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第二章 石床の潦水
白毬の鈴音
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蘇我氏に次ぐ権力をもつ阿倍氏の長、阿倍内麻呂は、蘇我氏の権勢の翳りを見逃さなかった。
臣たちによる合議の場では大臣である蘇我入鹿の決断に異を唱えたり、既に決まったことに対して難癖をつけて覆させようとしたりする。最初は様子見だった周りの臣たちも、そんな場面が繰り返されるうちに次第に阿倍内麻呂に迎合し始めた。
入鹿の父である蝦夷には遠慮がちだった物言いが、年若い入鹿に対しては何の遠慮なく浴びせられるようになっていた。
政の場に出ない鎌子は直接その様子を知ることはなかったが、ともに倭の律令の草案を作成している高向玄理が教えてくれた。律令の草案が出来上がれば、実行のために有力な豪族の協力を取り付けなければならない。今現在、政治権力の均衡がどうなっているのか無視することはできなかった。
「入鹿殿はそれでもまだ合議の秩序をなんとか保っていますが、私のようなものはその場にすら居たたまれないと感じることも度々です」
玄理が溜息をつきながらそう言った。
学者である玄理にとって、仕事とはいえ政の生々しさは刺激が強すぎるようだった。鎌子が代わろうにも神祇官という身の上では政の場に出ることができない。
「玄理殿のお話のように、入鹿殿と阿倍殿が互いに反目しあっているなら我らの仕事は邪魔されずに済みそうですね」
「それは確かです」
玄理が力強く頷いた。
帰国した遣唐使の報告を受けて舒明天皇が始めようとした律令の編纂は、その動きを知った豪族の強固な反対に遭った。当時の王宮である飛鳥岡本宮は放火されて炎上、消失し、舒明天皇は百済大井宮に遷都したという経緯がある。
「けれどいつまでも臣たちの目から隠しておくわけにはいきません。今後のことを考えるならば、早めに協力してもらう豪族の長を見定めて、交渉を始めなければ」
玄理の言葉を聞きながら鎌子は先日の入鹿との会話を思い出した。阿倍内麻呂より入鹿の方が適任である事は明らかだったし、説き伏せることができれば物事を進める推進力となる人物だった。だが、
――今の大王は蘇我入鹿を快く思っていない
葛城王の言葉が鎌子には引っ掛かっていた。律令の策定を葛城王が主導したとしても全権は大王にある。優先すべき相手は決まっていた。
「玄理殿、私は阿倍内麻呂殿と面識がありますので、様子をみておきましょう」
「それはありがたいことです。鎌子殿、よろしくお願いします」
そうは言ってみたものの、阿倍内麻呂の頭の中は蘇我入鹿の失脚と軽皇子の王位継承で占められていた。
「鎌子殿、時にどうだ、こちらに引き入れられそうなものは宮中にいたか」
飛鳥宮の廊下の片隅でしばしば行う情報の交換も、今の鎌子には煩わしくすら思われた。かといって阿倍内麻呂との繋がりを断つわけにはいかない。
「宮中は分かりませんが、蘇我石麻呂が蘇我氏の中では少々浮いている、という話を聞きました」
「なるほど」
鎌子自身は大した情報ではないように思って告げたその言葉を、阿倍は吟味し、何か考えを巡らせる様子を見せた。
「では、わしの方から少しつついてみよう。鎌子殿も機を見て蘇我石麻呂に接触してほしい」
阿倍内麻呂はそう言うと、鎌子を置いて廊下の暗がりからさっさと去っていった。
そんな阿倍氏とのやり取りを含め、律令草案の策定にまつわる様々なことを鎌子は葛城王にすべて伝えていた。
「鎌子はどう思う」
飛鳥宮の東宮御殿中庭で、毬を蹴り上げながら葛城王が聞いてきた。以前はできないから、と避けがちだった蹴鞠だが、鎌子が教えると葛城王は直ぐに鞠の扱い方を習得した。この頃の天気の良い日は鎌子を相手に蹴鞠をするのが葛城王にとって息抜きとなっていた。
秋の澄んだ青空に葛城王が蹴った真白な鞠が高く上がる。鞠の中の鈴がチリチリと涼やかな音を空から降らせた。
「阿倍殿はまだ軽皇子の名を公に口にしてはおりません。ですので王族である貴方が軽率に動いてはなりません。何も気づかないふりをしているのが得策です」
ふん、と葛城王が軽く鼻を鳴らして、また毬を高く蹴り上げた。
「ならば鎌子、敵を油断させるというのをやってみよう。しばらく内麻呂や叔父上に吾は無能だと思われている方が良いのだろう?」
「そこまででもなくて良いと思いますが、けれどどうやって油断させましょうか」
「女にうつつを抜かす」
葛城王が面白そうにそう言って、鎌子へと毬を蹴って寄越した。思わず毬を手のひらで受け取った鎌子の側に葛城王が歩み寄る。
「確か六韜にそんなことが書いてあったぞ」
葛城王は笑みを浮かべて鎌子を見た。
「よく憶えていますね」
「鎌子ほどじゃない」
それは一見突拍子もないようだが、悪くはない考えだった。
鎌子は葛城王の案に同意したが、とはいっても葛城王は皇太子である。宮廷に采女はいくらでもいるが手当たり次第というわけにもいかないだろう。
それとも、もしかしたら葛城王は誰かを見初めたのだろうか。
そんな疑問も覚えた鎌子は葛城王に確かめた。
「誰かお相手に心当たりでもあるのですか」
けれど葛城王の返事はいたって冷静だった。
「それこそ阿倍内麻呂に斡旋させればいい。女の斡旋は阿倍が得意とするところではないのか」
そう言うと葛城王は、ふいっと鎌子から目を逸らした。大人ぶったことを口にしていても十九歳の葛城王の目元には微かな含羞が隠しようなく浮かんでいた。
「ところで鎌子、さっきからこちらを見ているものがいるが」
いつもよりやや大きな声の葛城王の視線の先、宮廷の警備兵の装いをした男が一人立っていた。
臣たちによる合議の場では大臣である蘇我入鹿の決断に異を唱えたり、既に決まったことに対して難癖をつけて覆させようとしたりする。最初は様子見だった周りの臣たちも、そんな場面が繰り返されるうちに次第に阿倍内麻呂に迎合し始めた。
入鹿の父である蝦夷には遠慮がちだった物言いが、年若い入鹿に対しては何の遠慮なく浴びせられるようになっていた。
政の場に出ない鎌子は直接その様子を知ることはなかったが、ともに倭の律令の草案を作成している高向玄理が教えてくれた。律令の草案が出来上がれば、実行のために有力な豪族の協力を取り付けなければならない。今現在、政治権力の均衡がどうなっているのか無視することはできなかった。
「入鹿殿はそれでもまだ合議の秩序をなんとか保っていますが、私のようなものはその場にすら居たたまれないと感じることも度々です」
玄理が溜息をつきながらそう言った。
学者である玄理にとって、仕事とはいえ政の生々しさは刺激が強すぎるようだった。鎌子が代わろうにも神祇官という身の上では政の場に出ることができない。
「玄理殿のお話のように、入鹿殿と阿倍殿が互いに反目しあっているなら我らの仕事は邪魔されずに済みそうですね」
「それは確かです」
玄理が力強く頷いた。
帰国した遣唐使の報告を受けて舒明天皇が始めようとした律令の編纂は、その動きを知った豪族の強固な反対に遭った。当時の王宮である飛鳥岡本宮は放火されて炎上、消失し、舒明天皇は百済大井宮に遷都したという経緯がある。
「けれどいつまでも臣たちの目から隠しておくわけにはいきません。今後のことを考えるならば、早めに協力してもらう豪族の長を見定めて、交渉を始めなければ」
玄理の言葉を聞きながら鎌子は先日の入鹿との会話を思い出した。阿倍内麻呂より入鹿の方が適任である事は明らかだったし、説き伏せることができれば物事を進める推進力となる人物だった。だが、
――今の大王は蘇我入鹿を快く思っていない
葛城王の言葉が鎌子には引っ掛かっていた。律令の策定を葛城王が主導したとしても全権は大王にある。優先すべき相手は決まっていた。
「玄理殿、私は阿倍内麻呂殿と面識がありますので、様子をみておきましょう」
「それはありがたいことです。鎌子殿、よろしくお願いします」
そうは言ってみたものの、阿倍内麻呂の頭の中は蘇我入鹿の失脚と軽皇子の王位継承で占められていた。
「鎌子殿、時にどうだ、こちらに引き入れられそうなものは宮中にいたか」
飛鳥宮の廊下の片隅でしばしば行う情報の交換も、今の鎌子には煩わしくすら思われた。かといって阿倍内麻呂との繋がりを断つわけにはいかない。
「宮中は分かりませんが、蘇我石麻呂が蘇我氏の中では少々浮いている、という話を聞きました」
「なるほど」
鎌子自身は大した情報ではないように思って告げたその言葉を、阿倍は吟味し、何か考えを巡らせる様子を見せた。
「では、わしの方から少しつついてみよう。鎌子殿も機を見て蘇我石麻呂に接触してほしい」
阿倍内麻呂はそう言うと、鎌子を置いて廊下の暗がりからさっさと去っていった。
そんな阿倍氏とのやり取りを含め、律令草案の策定にまつわる様々なことを鎌子は葛城王にすべて伝えていた。
「鎌子はどう思う」
飛鳥宮の東宮御殿中庭で、毬を蹴り上げながら葛城王が聞いてきた。以前はできないから、と避けがちだった蹴鞠だが、鎌子が教えると葛城王は直ぐに鞠の扱い方を習得した。この頃の天気の良い日は鎌子を相手に蹴鞠をするのが葛城王にとって息抜きとなっていた。
秋の澄んだ青空に葛城王が蹴った真白な鞠が高く上がる。鞠の中の鈴がチリチリと涼やかな音を空から降らせた。
「阿倍殿はまだ軽皇子の名を公に口にしてはおりません。ですので王族である貴方が軽率に動いてはなりません。何も気づかないふりをしているのが得策です」
ふん、と葛城王が軽く鼻を鳴らして、また毬を高く蹴り上げた。
「ならば鎌子、敵を油断させるというのをやってみよう。しばらく内麻呂や叔父上に吾は無能だと思われている方が良いのだろう?」
「そこまででもなくて良いと思いますが、けれどどうやって油断させましょうか」
「女にうつつを抜かす」
葛城王が面白そうにそう言って、鎌子へと毬を蹴って寄越した。思わず毬を手のひらで受け取った鎌子の側に葛城王が歩み寄る。
「確か六韜にそんなことが書いてあったぞ」
葛城王は笑みを浮かべて鎌子を見た。
「よく憶えていますね」
「鎌子ほどじゃない」
それは一見突拍子もないようだが、悪くはない考えだった。
鎌子は葛城王の案に同意したが、とはいっても葛城王は皇太子である。宮廷に采女はいくらでもいるが手当たり次第というわけにもいかないだろう。
それとも、もしかしたら葛城王は誰かを見初めたのだろうか。
そんな疑問も覚えた鎌子は葛城王に確かめた。
「誰かお相手に心当たりでもあるのですか」
けれど葛城王の返事はいたって冷静だった。
「それこそ阿倍内麻呂に斡旋させればいい。女の斡旋は阿倍が得意とするところではないのか」
そう言うと葛城王は、ふいっと鎌子から目を逸らした。大人ぶったことを口にしていても十九歳の葛城王の目元には微かな含羞が隠しようなく浮かんでいた。
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