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第三章 浮生の都
神器の継承
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謁見の間の石床に流れた入鹿の血はきれいに洗い清められたものの、皇極天皇は血の穢れを嫌って王宮を移すことを決めた。急な事なので新たな宮を造る時間などなく、飛鳥川の上流にある旻の寺を飛鳥稲渕宮とし王宮の最低限の設備を整えてここに移った。旻は蘇我氏が建立した飛鳥寺に他の僧侶を連れて移り、一時的にこの寺の管理を任されることになった。
「鎌子、今、吾は王位に就いて良いものだろうか」
玄理とともに飛鳥宮東宮の書庫の整理をしていた鎌子は、部屋に入ってきた葛城王にそう聞かれた。
皇極天皇は以前から表明しているように葛城王に王位を譲ろうとしている。だが葛城王の近くにいた鎌子は葛城王に即位の意志がまだないことを知っていた。葛城王が鎌子に尋ねたのは王位継承の是非ではなく、即位を拒むための理由だった。
「葛城王、いまだ新たな律令の草案は出来上がっていません。今、貴方が王位に就いてもこれまでの大王と何ら変わるところはありません。律令を形にしなければ大王の権力も今まで通りです。今は他の王族の方に王位に就いてもらう方が良いでしょう」
傍らで作業していた玄理も鎌子に同調した。
「わたしと鎌子殿が急いで草案を造り上げるまでは、これまでどおり最も年上の方が王位に就かれるのがよろしいかと」
二人の言葉を聞いても、まだ葛城王の表情は晴れなかった。
「いちばん年上なのは吾の兄である古人大兄王だ」
古人大兄王は舒明天皇(葛城王の父)と蘇我蝦夷の娘との間に生まれた子で葛城王の異母兄にあたる。その古人大兄王を支えていた蘇我蝦夷と入鹿は葛城王に討伐された。現行の王権の在り方からすれば、有力な豪族の後ろ盾がないまま王位に就いても政は行えないだろう。そうなると軽皇子がやはり王位を継ぐことになるが、軽皇子は葛城王を陥れようとした当人だ。
葛城王の逡巡はその軽皇子の存在がいちばん大きな原因だった。鎌子は一度拱手した後、改めて葛城王と向かい合った。
「貴方が入鹿を誅した現場に居合わせた臣は少なくありません。そして先の大王だった御父上も今の大王も、ともに貴方を皇太子としています。古人大兄王様が継がれても軽皇子様が継がれても、今回の王位の移譲が一時的なものであることを皆知っています」
鎌子の話を聞いた葛城王は軽く息を吐いた。
「分かった。私が気に掛けるべきなのは誰が王位に就くかではなく、誰が王位に就いても皇太子として指名されなくてはならない、ということなんだな」
「はい」
鎌子は拱手し葛城王の言葉を肯定した。話を聞いていた玄理が葛城王に云った。
「今の大王が次の大王を指名する時、葛城王を皇太子とすることも宣言してもらいましょう。葛城王にはお母上である大王にこのことをお話して頂ければと思います」
「……吾から母に頼むのか」
話の流れでは自然な提案だったが葛城王は僅か動揺した。鎌子はその動揺を見逃さなかった。
「そうしていただければ――」
玄理は葛城王の表情の変化に気づかず話し続けようとする。鎌子は玄理の言葉を何気なく遮った。
「葛城王、よろしければ私が父である御食子とともに大王にお願いしてみます」
「うん、それがいい。玄理が言うことももっともだが、鎌子の父は吾の母の信用が篤い。鎌子、頼んだぞ」
葛城王が鎌子に向けた目の内には安堵があった。
鎌子は葛城王の逡巡に母である皇極天皇へのわだかまりや大海人皇子の存在があることを察していた。それはいずれ葛城王と共に鎌子も対峙しなければならない問題だった。
中臣御食子は葛城王の蘇我討伐の後、体調不良で宮廷を下がり中臣の邸宅で療養していた。だが鎌子が事情を説明して協力を仰ぐと、御食子は年老いてままならない体をおして川原宮に上がり、皇極天皇に謁見した。
「宝皇女様、私は生涯をかけて皇女様と先王に仕えてまいりました。私の神祇官としての働きをお認め下さるのなら、どうか御譲位の際に貴方様の御子である葛城王を皇太子にご指名ください」
齢四十を超している女帝は返事の前にまず自分より年長である御食子の労をねぎらった。
「御食子、これまでご苦労だった。我が夫であった先王にもよく仕えてくれた。我が意志は葛城王にあっても、やはり年が若すぎる。王位は我が弟である軽皇子が継ぐのが妥当だ。けれど王位に就きたければ葛城王を皇太子に立てよと念を押しておこう。そもそも葛城王以外に皇太子となれるものはいないが、……従わねば入鹿のようになるぞ、といえば良かろう」
「ありがとうございます」
跪いて深々と額を床に付ける御食子の姿を皇極天皇は柔らかな眼差しで見た。
「なあ、御食子。わたしは王位を譲ったら久方ぶりに行ってみたいところがいくつかある。わたしが生まれ育った近江淡海など、このところ懐かしく思い出されるのだ。御食子、近江は中臣の領地にも近いのだろう?」
「はい。王がお出ましの際は私が必ず先導をいたしましょう」
「ならばその時まで十分に体を休めておれ」
皇極天皇と中臣御食子は、今は亡き舒明天皇の即位時の争いに始まり決して平坦ではなかった時を共に過ごしてきた。時が紡いだ余人が立ち入ることのできない絆が二人の間にあった。
おそらくはこれが今生の別れになるだろうとの決意で御食子は皇極天皇に会いに来たのだろう。その決意を皇極天皇もわかっていたはずだ。
皇極天皇の前から辞す時、御食子は再び深々と頭を垂れた。
数日後、古人大兄皇子は王位を辞退し、剃髪した僧形となって吉野へと退いた。古人大兄皇子が王位継承の意志が無いことを明らかにしたため、軽皇子が倭の新たな大王に就くことになった。
「大王の位は軽皇子に譲る。皇太子には中大兄皇子を立てよ」
皇極天皇は譲位に臨み、軽皇子を次の大王に指名するだけでなく葛城王を皇太子として指名した。新たに即位した大王が自ら皇太子を決めるこれまでの慣例は、未だ権力を手放していない女帝によって破られた。
軽皇子は皇極天皇の詔を拝命して神器を受け、新たな王、孝徳天皇として大王の位に就いた。
「鎌子、今、吾は王位に就いて良いものだろうか」
玄理とともに飛鳥宮東宮の書庫の整理をしていた鎌子は、部屋に入ってきた葛城王にそう聞かれた。
皇極天皇は以前から表明しているように葛城王に王位を譲ろうとしている。だが葛城王の近くにいた鎌子は葛城王に即位の意志がまだないことを知っていた。葛城王が鎌子に尋ねたのは王位継承の是非ではなく、即位を拒むための理由だった。
「葛城王、いまだ新たな律令の草案は出来上がっていません。今、貴方が王位に就いてもこれまでの大王と何ら変わるところはありません。律令を形にしなければ大王の権力も今まで通りです。今は他の王族の方に王位に就いてもらう方が良いでしょう」
傍らで作業していた玄理も鎌子に同調した。
「わたしと鎌子殿が急いで草案を造り上げるまでは、これまでどおり最も年上の方が王位に就かれるのがよろしいかと」
二人の言葉を聞いても、まだ葛城王の表情は晴れなかった。
「いちばん年上なのは吾の兄である古人大兄王だ」
古人大兄王は舒明天皇(葛城王の父)と蘇我蝦夷の娘との間に生まれた子で葛城王の異母兄にあたる。その古人大兄王を支えていた蘇我蝦夷と入鹿は葛城王に討伐された。現行の王権の在り方からすれば、有力な豪族の後ろ盾がないまま王位に就いても政は行えないだろう。そうなると軽皇子がやはり王位を継ぐことになるが、軽皇子は葛城王を陥れようとした当人だ。
葛城王の逡巡はその軽皇子の存在がいちばん大きな原因だった。鎌子は一度拱手した後、改めて葛城王と向かい合った。
「貴方が入鹿を誅した現場に居合わせた臣は少なくありません。そして先の大王だった御父上も今の大王も、ともに貴方を皇太子としています。古人大兄王様が継がれても軽皇子様が継がれても、今回の王位の移譲が一時的なものであることを皆知っています」
鎌子の話を聞いた葛城王は軽く息を吐いた。
「分かった。私が気に掛けるべきなのは誰が王位に就くかではなく、誰が王位に就いても皇太子として指名されなくてはならない、ということなんだな」
「はい」
鎌子は拱手し葛城王の言葉を肯定した。話を聞いていた玄理が葛城王に云った。
「今の大王が次の大王を指名する時、葛城王を皇太子とすることも宣言してもらいましょう。葛城王にはお母上である大王にこのことをお話して頂ければと思います」
「……吾から母に頼むのか」
話の流れでは自然な提案だったが葛城王は僅か動揺した。鎌子はその動揺を見逃さなかった。
「そうしていただければ――」
玄理は葛城王の表情の変化に気づかず話し続けようとする。鎌子は玄理の言葉を何気なく遮った。
「葛城王、よろしければ私が父である御食子とともに大王にお願いしてみます」
「うん、それがいい。玄理が言うことももっともだが、鎌子の父は吾の母の信用が篤い。鎌子、頼んだぞ」
葛城王が鎌子に向けた目の内には安堵があった。
鎌子は葛城王の逡巡に母である皇極天皇へのわだかまりや大海人皇子の存在があることを察していた。それはいずれ葛城王と共に鎌子も対峙しなければならない問題だった。
中臣御食子は葛城王の蘇我討伐の後、体調不良で宮廷を下がり中臣の邸宅で療養していた。だが鎌子が事情を説明して協力を仰ぐと、御食子は年老いてままならない体をおして川原宮に上がり、皇極天皇に謁見した。
「宝皇女様、私は生涯をかけて皇女様と先王に仕えてまいりました。私の神祇官としての働きをお認め下さるのなら、どうか御譲位の際に貴方様の御子である葛城王を皇太子にご指名ください」
齢四十を超している女帝は返事の前にまず自分より年長である御食子の労をねぎらった。
「御食子、これまでご苦労だった。我が夫であった先王にもよく仕えてくれた。我が意志は葛城王にあっても、やはり年が若すぎる。王位は我が弟である軽皇子が継ぐのが妥当だ。けれど王位に就きたければ葛城王を皇太子に立てよと念を押しておこう。そもそも葛城王以外に皇太子となれるものはいないが、……従わねば入鹿のようになるぞ、といえば良かろう」
「ありがとうございます」
跪いて深々と額を床に付ける御食子の姿を皇極天皇は柔らかな眼差しで見た。
「なあ、御食子。わたしは王位を譲ったら久方ぶりに行ってみたいところがいくつかある。わたしが生まれ育った近江淡海など、このところ懐かしく思い出されるのだ。御食子、近江は中臣の領地にも近いのだろう?」
「はい。王がお出ましの際は私が必ず先導をいたしましょう」
「ならばその時まで十分に体を休めておれ」
皇極天皇と中臣御食子は、今は亡き舒明天皇の即位時の争いに始まり決して平坦ではなかった時を共に過ごしてきた。時が紡いだ余人が立ち入ることのできない絆が二人の間にあった。
おそらくはこれが今生の別れになるだろうとの決意で御食子は皇極天皇に会いに来たのだろう。その決意を皇極天皇もわかっていたはずだ。
皇極天皇の前から辞す時、御食子は再び深々と頭を垂れた。
数日後、古人大兄皇子は王位を辞退し、剃髪した僧形となって吉野へと退いた。古人大兄皇子が王位継承の意志が無いことを明らかにしたため、軽皇子が倭の新たな大王に就くことになった。
「大王の位は軽皇子に譲る。皇太子には中大兄皇子を立てよ」
皇極天皇は譲位に臨み、軽皇子を次の大王に指名するだけでなく葛城王を皇太子として指名した。新たに即位した大王が自ら皇太子を決めるこれまでの慣例は、未だ権力を手放していない女帝によって破られた。
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