白雉の微睡

葛西秋

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第三章  浮生の都

埒外の臣

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「阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我石川麻呂を右大臣に任ずる」
 孝徳天皇の新たな政権には鎌子たちが作り上げた倭の律令制の組織が初めて置かれた。左大臣、右大臣という職位はその一つである。臣の最高位であるこの二つの役職には、蘇我蝦夷入鹿親子の討伐に功労があった二人が任命された。

 これまで蘇我氏が歴任してきた豪族の代表者としての大臣の名称と位は破棄され、皇太子である葛城王が左・右大臣の上に立って政の実権を掌握する、王族による臣の支配の意志を明確にした組織だった。

「鎌子の職位なのだが……」
 朝廷の新たな組織を決める際、鎌子の役職は最後まで決まっていなかった。
 蘇我と阿倍という強力な一族に比べて中臣はやはり劣っていることは隠しようがない。他の臣を従える最高位である左大臣・右大臣の地位は望むべくもなかった。

「僧旻殿や玄理殿と同じく国博士に任じていただければこれまでの仕事を続けることができます」
 旻や玄理が任じられた国博士は、官吏の教育が主な任務である。加えて仏教や漢籍の読み書きなど、それぞれの専門分野の管掌と葛城王の政治上の相談相手でもあった。鎌子のこれまでの経験や仕事の内容から言って最もふさわしい職位のはずだった。だが葛城王は鎌子の国博士就任に難色を示した。

「吾が鎌子に望むのはそのような仕事ではない」
「神祇官としての仕事でしょうか」
 それこそ葛城王の望むところではないだろうとは思いながらも、思い当たるものはそれしかなかった。
「鎌子には決められた範囲を専らに務めるのではなく、吾の政務全般の補佐をしてほしい」
「すべて、ですか」
「そうだ。神祇も入る。確か唐の制度の中に内臣というものがあった」
「確かにありますが、通称のようなもので正式な職位名称ではありません」

 葛城王が想定している職位は鎌子の想定よりも重い責任を伴うものだった。慌てる鎌子の様子を見ても葛城王はまったく表情を変えなかった。

「倭の実情に沿ったように唐の制度を改変する必要がある、と云ったのは鎌子だろう。未だ律令の制度が整っていないこの国の状況を鑑みて、内臣を倭の正式な職位とし、鎌子をそれに任じる」
「……その内臣は組織の中でどのような位置に」
「吾の政務の補佐だから、左大臣や右大臣の命令で左右される立場であってはならない。吾の直属となる」
 それは皇太子に次ぐ身分ということだった。鎌子は言葉を無くした。
「鎌子が内臣になれば、これまでよりもなにかと入用になるだろう。新たな地位に見合うだけの領地の加増をする」
 既に葛城王が決定事項としていることを覆すのは難しい。鎌子は拱手し、内臣の任を拝命した。
「それから佐伯子麻呂と稚犬養網田は吾の直轄軍の将にする」
 これまで王宮の衛士に過ぎなかった二人も破格の出世となった。

 新たな朝廷の中心となる人事を公にした翌日、孝徳天皇は王族と臣下をすべて飛鳥寺に集めた。飛鳥寺の境内には大きな槻がある。槻の下は古来より倭の王族の儀式の場でもあった。

「天は覆い地はす。帝道唯一なり。今より以後、君は二つの政無く、臣は朝にふた心あること無し。若し此の盟にそむかば、天災てんわざわい地妖つちわざわいし、鬼ころし人たむ」

 夏の風わたる青空の下、孝徳天皇は葛城王をはじめとする王族や整列した臣たちと呪詛にも似た盟約を交わした。盟約の文言に隠しようもなく滲む禍々しさは、葛城王や阿倍内麻呂への裏切りを孝徳天皇自ら隠蔽する意図が公然とあるためだ。
 葛城王の表情は常と変わらず、けれど阿倍内麻呂の顔にはこの儀式を白々しく思う気持ちが現われていた。

 神祇官の衣を纏って儀式に参列していた鎌子は、葉を繁らせる飛鳥寺の槻の木を見上げた。同じ場所で鎌子が葛城王と再会してから二年の月日が経ち、葛城王はニ十歳、鎌子は三十二歳になっていた。

「それよりもわたしは間人皇女まひとひめが不憫でならない」
 飛鳥宮の後宮で皇祖母尊すめみおやのみこととなった宝皇女(元・皇極天皇)はきらびやかな衣の片袖で顔を覆って嘆いていた。

 孝徳天皇の即位と共にその皇后として名指しされたのは、宝皇女の娘であり葛城王の妹である間人皇女だった。
 まだ十六歳の間人皇女は、涼やかな目元、整った顔立ちが兄である葛城王ともよく似た少女だった。今は咲き初めた乙女でも、母である宝皇女の爛漫の花のような華やかさがこれから備わるであろうと誰にも思わせる素質を持ち合わせていた。

 宝皇女が目に入れても痛くないほどに可愛がっていたその皇女が四十を過ぎた孝徳天皇の后となる。

「せめて二十歳まで我が手元においてそれから伊勢か紀に遣わそうと思っていたのに」
 間人皇女の世話をする女官たちも宝皇女と思いは同じようで、この婚礼をともに嘆いていた。
「大王の座に着くには王族の妻を持たなければならないのが決まり事。仕方ないこととはいえ形ばかりで良いのだ、褥を共にする必要もない。気分が優れなければすぐにわたしの部屋に来い」
「わたくしもお母さまの側にいないと心細くてなりません」
「ああ、漢皇子あやのみこが生きて居ればそなたと娶せたものを。似合いのよい夫婦になれたのに。間人、間人、私はずっとあなたの側に居ますよ」
 宝皇女は間人皇女を胸に抱いて離そうとしなかった。

 孝徳天皇には阿倍内麻呂の娘である小足媛おたりひめとの間に八歳となる有間皇子ありまのみこがいる。その阿倍内麻呂は、蘇我入鹿を討つための孝徳天皇の謀略に巻き込まれたこともあって即位の前から孝徳天皇とは疎遠になっていた。
 孝徳天皇は即位後、皇太子時代に世話になっていた阿倍ではなく、蘇我石麻呂を身近に置くことが多くなった。

 一方で国博士に任じられた玄理と旻は、内臣となった鎌子とともに改新の大詰めの作業に追われていた。

「鎌子殿、文字を書くことができる者を何とか集めました」
「玄理殿、ありがとうございます。やはり渡来の民が多くなりますか」
「大人が新たに文字を憶えるのは難しいものです。年若いものに今、文字を習わせておりますのであと二、三年はかかってしまいます」
「習う者が多くなると今の場所も手狭になるでしょう。大学寮の建設を急がせます」
 できれば三韓や唐の使者と会話できる者を育てるのが目標だったが、贅沢を言っていられない。まずは文書の読み書きができる官人が必要だった。

 仏教と朝廷の在り方も大きく変化した。
「旻殿、長旅ができる僧侶が必要です。また寺院の建築に詳しいものがいればご紹介ください」
「仏教を広めるためならば喜んで力をお貸しします。幸い、我が寺にいる僧尼は布教の志が強い者達です。それにしても鎌子殿、寺院の建築とは、いったいどちらに」
「宮廷の臣に、各々が治めている土地に寺院を建設するよう働きかけようと思っております」
「建築の技術を持った者をすぐ各地に派遣するというのは難しいかもしれません」
「まずは大和の内にいくつか寺院を建立しようと考えております。そこで技術を学ばせた者を地方へ派遣します」
「葛城王の命で各地に寺院を建立させるのですね。素晴らしいことです」
 律令を制するために必要な仏教の布教には、朝廷から積極的に補助を出すことになっていた。

「分かった、手始めにわしが建てよう」
 阿倍内麻呂は鎌子の打診に好意的な反応をした。孝徳天皇への反発もそこにはあったに違いない。阿倍内麻呂は自分の領地に壮大な寺院の建立を始めた。そこは舒明天皇のかつての都である百済大井宮の近くでもあった。

 これまで地方と倭朝廷との繋がりは、剣や鏡の贈与、古墳増築の技術の伝達によってなされてきたが、すでに小さな部族にも潤沢に行き渡っており飽和していた。それらの古い象徴に代わって仏教寺院を立てることが新たな大和王朝との絆であることを示すことが第一の目的だった。

 地方と朝廷の繋がりについても大きな変革が始まり、かねてからの計画通りに東国八道を手始めとして動き始めていた。

 東宮の執務室で鎌子は葛城王からこれからの予定を尋られた。
「西国はいつから始める」
「それが人員不足です。玄理殿が官吏の教育をしておりますがまだ文字の読み書きが充分にできる者の数が足りません。また各地に派遣する僧侶に貸与する経典も不足しています」
「時間がかかるのは仕方ない。少しずつでも進めよう」
 実際に新たな朝廷が動き出してみると、内臣である鎌子の下には次から次へと問題が集まってきた。
「葛城王、東国を優先して補強する理由が他にもあります」
「北方の蝦夷のことか」
「そうです。以前より蝦夷は倭に敵対してきました。これまでは将を派遣してきましたが、東国を直接支配することで蝦夷への広域対応が可能になります」
「今、対応しているのは」
「陸は上毛野氏が、海からは阿倍比羅夫が水軍を使って蝦夷と交戦しています」
「彼らについては吾が直接指揮を執れるようにしてほしい。それぞれの土地の国司に任じよう」
「わかりました。現地の民も兵として使うことができるよう、彼等には将の肩書を与えましょう」
「任命は文字に起こした文書で渡そう。鎌子、それでよいか」
「はい」

 様々なことを形にしていかなければならない忙しい時期ではあったが、孝徳天皇は遷都を決定した。
「新しいことを始めるのなら都も移そうではないか。ここは古い」
 孝徳天皇に諸手を上げて賛成したのは蘇我石麻呂だった。
「どちらがよろしいでしょうか、やはり大王にゆかりの深い難波などはいかがでしょう。海が間近に、三韓の饗応の施設もあって退屈をせずに過ごせます。造営は領地が近い阿倍殿に任命されてはいかがでしょうか」
 石川麻呂の調子のいい提案に孝徳天皇は喜び、阿倍内麻呂は苦虫をかみつぶした顔を袖に隠して孝徳天皇に拝命の叩頭をした。

 これまでの雑務に加えて遷都のための仕事も増え、鎌子は中臣の邸宅に帰らず飛鳥宮に泊まり込んで作業する日が続いていた。

 蛍がちらほらと光を灯す夏の夜、作業を続ける鎌子のところに一度私室に下がった葛城王がやってきた。
「鎌子、しばらくここにいてもいいか」
 差し迫った用事ではないことを葛城王の表情から見て取って、鎌子は手近にあった椅子を葛城王の側に運んだ。鎌子は葛城王が座るのを待ち、
「こちらに記した祭祀の儀礼を今、憶えていただければ、明日の私の仕事が楽になります」
 儀礼の手順を記した木簡をその手に渡した。
 葛城王は手渡された木簡の文字を見るからに上の空のまま目で追ったが、すぐに顔を上げた。
「鎌子、吾は遷都をするのは嫌だ。難波などまだ百済大井宮の方がいい」
 孝徳天皇の遷都は、先王である皇極天皇の権力地盤を断つためという目論見も見え隠れしていた。
 葛城王が遷都を嫌がるのはそんな孝徳天皇の隠微な謀略を鋭敏に感じ取ってのことだった。
 鎌子は身をかがめ、椅子に座る葛城王と視線を合わせた。
「正直、私も遷都にまつわる仕事を思うと億劫です。けれど考え方にもよります」
「なんだ」
「現在、東国への伝令は陸路に限られていますが、西国には海を使って指示を出すことができます。新たな制度を充分に周知するために西国と密に連絡を取ることができる海を使えるのは重要です」
「難波からなら船を出すことは容易だ」
「はい。ですのでせめて西国への周知が済むまで、難波の地にいることを我慢してください」
 葛城王はそうだな、と頷きしばらく黙った。自分の心の内を納得させているのだろう。
 鎌子は葛城王の手元の灯りに油を注した。柔らかな黄橙色の揺らめきが部屋の壁に、衝立に映る。
「それでも新たな都が出来上がるまでしばらくかかるはずです。本宮が完成するまでここに残られてはいかがでしょうか」
 遷都に先立って何度か仮宮に移り住むのはこの時代の大王の慣習だった。いちいちついて行っては改革もままならない。葛城王は我が意を得たりという顔で鎌子を見た。
「鎌子もここに残るだろう?」
「もちろんです。私は貴方の内臣ですから」
 本来ならば内臣は孝徳天皇の臣下でもあるが、実質、鎌子の主上は葛城王だった。鎌子の返事に満足した葛城王は手元の木簡に再び目を落とした。

 新たな都、難波宮の建設が始まると孝徳天皇は早々に飛鳥を離れた。
 予想外だったのは宝皇女もともに飛鳥宮を離れたことだった。孝徳天皇の皇后となった間人皇女に付き添ったともとれるが、孝徳天皇が切り離そうとした先王の権力地盤がそのまま宝皇女とともに移動したことになる。

 難波を拠点の一つに持つ阿倍内麻呂は宝皇女への支持を表明し、新たな大王の時代は始まる前から分裂の気配を孕んでいた。

 新たな都も未だ定まらない大化元年九月、飛鳥宮に残る葛城王のもとに急な知らせが飛び込んできた。
「葛城王、急ぎお伝えしたいことが」
 そう怒鳴りながら東宮に駆け込んだ佐伯子麻呂は、一人の男を連れていた。
「何ごとだ」
「この吉備笠垂きび しだるという者の話によりますと、古人大兄皇子様が大王への謀叛を企み、吉野で兵を集めているとのことです!」
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