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第三章 浮生の都
難波の王宮
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鎌子は葛城王が王宮の外に邸を構えるという意向を伝えるため、王宮造営の指揮を執る左大臣、阿倍内麻呂と話し合いの場を設けた。しばらく待たされることも覚悟の上だったが、阿倍内麻呂からはすぐに返事が来た。難波宮の造営が行き詰まっていて、むしろ相談したいのはこっちのほうだ、という。
「近くにいた漁撈の民を追い出しただけで辺りは水辺のままだ。工事が思ったように進まない」
難波宮の造営予定地を眺める高台で阿倍内麻呂は鎌子にそう打ち明けた。二人の背後には子代離宮がある。ここにはすでに飛鳥宮から孝徳天皇が移ってきていたが、未だ整備が必要なところもあって政の場としての機能は十分とはいえなかった。
「大王の意向はどのようなものなのですか」
「壮大なものにせよ、と仰せだが具体的なことはまったく指示が無い」
「これまで飛鳥の地に造ってきたような倭の王宮を踏襲する、というわけではないのですね」
「それはない。明らかなのはそれだけだ」
阿倍内麻呂は苛立たし気につま先で土を蹴った。
「阿倍様、確か僧旻殿が唐の王宮についての書をもっていたと思います。意見を求めてみてはいかがでしょうか」
「百済ではなく唐か。工人がおらんだろう」
「見た目は唐の宮殿ですが、構築法は百済や新羅にも伝わっています。玄理殿も遣唐使として唐に渡った一人です。まだ唐の都の様子も記憶しているでしょう」
「僧旻も高向玄理も国博士、か」
「はい。このような時のために置いた役職です。後ほど私から僧旻殿と玄理殿に使いを送りましょう」
「鎌子殿、頼んだ。……わしは年寄りだ。新しい国の制度というのが何のためのものなのか正直、まだ分かっていないところがある。だが使い方さえ飲み込めば便利なものだということは何となくだが分かる」
もっと早くに始めておくべきだったか、と推古天皇の時代から王族に仕えてきた古い一族の長は呟いた。
「葛城王がこちらに来てくれて良かった。大王は政向きではない。今も葛城王が策定し我々が協議した文書を詔として読み上げているだけだ。民の声を集める意見箱や罪人の恩赦などには積極的に関心を示すのだが、政とはそれだけではやっていけないものだ」
阿倍内麻呂がこのごろ苛立ちや憤りを露にするようになったのは、老いた自らの先が長くないことを否応なく自覚し始めたためだった。
「百済大井宮で舒明天皇が始められたこの国の在り方を変える改革。わしは自分が理解した範囲をできるだけ大王にお伝えしてきたはずだったのだが……」
鎌子は、かつて孝徳天皇が軽皇子であったとき山崎離宮で交わされていた阿倍内麻呂との会話を思い出した。鎌子が阿倍に呼ばれて山科から山崎離宮に通ったのも唐の制度について軽皇子に話をするためだった。
葛城王の父である舒明天皇と阿倍内麻呂がどれほど親しかったのかは分からない。だが舒明天皇が政を執り行った百済大井宮は阿倍氏の領地であり、阿倍内麻呂は今、その隣に大きな寺院を造営していた。
老いた重臣の横顔には、気づかぬうちに脇道に逸れていた己の人生を造営の進まない難波宮に重ねた苦渋が滲んでいた。
内麻呂の言葉が途切れたところを見計らい、鎌子は葛城王の意向を伝えた。
「葛城王は難波宮の内裏で執務を行い、住処となる邸は王宮の外に建てたいと望んでいます。今からでも王宮内裏の計画の変更は可能でしょうか」
「計画も何も杭の一本も打ち込んでいない。もっとも東宮御所は内裏には必要な建物だから必ず造ることになるだろう」
「葛城王が内裏の東宮御所を使わなければ、誰かそこを使うことはあるのでしょうか」
「大王の御子である有間皇子様だろうか」
自ら口にした言葉に阿倍内麻呂は黙り込んだ。鎌子も口をつぐんだ。次の王位を巡る火種が早くも二人の目前にあった。
大化二年正月、孝徳天皇は造営が遅れている難波宮の代わりに子代離宮が仮の王宮であることを公にした。
「鎌子は難波宮をどう見る」
難波の四天王寺に建てられた五重塔で葛城王と鎌子は早春の青空を見ていた。もともと四天王寺の境内は小高い台地の上にあって見晴らしがよい。二人はそこからさらに五重塔の中ほどまで登って来ていたので、難波の海の水平線が青空の彼方に見えていた。
「難波宮は難波の海と河内の湖の間に伸びた半島の先端に造られることになっています。けれど石垣や堤が無ければ海からの守りが脆弱です。攻めてくる敵がいなくても、海の水が上がり湖の水が溢れれば王宮は容易に陸から孤立します」
境内に咲く梅花の香りを運ぶ風に似つかわしくない話題だったが、ここからならば難波の海だけでなく子代離宮も造営中の難波宮も一望にできる。王宮の立地を確認するには都合が良かった。
「大王は石川麻呂の調子のいいだけの言葉に乗せられたか。鎌子、吾の邸はどこに置くのがいいと思う」
「こちらの方が良いかと」
鎌子は北に見える難波宮のやや東の方角を指し示した。
「厩戸王がかつて宮を造るために切り開いた場所があります。海ではなく河内の湖に面した高台にあって水はけがよく、古くから人々が住んでいた場所です」
河内湖は生駒山に向かう水運となり、生駒山の向こうは慣れ親しんだ大和の地である。葛城王は気に入ったようだった。
「そこにしよう。鎌子はどこに住む」
「部の民が生駒山の麓におりますのでそこに邸を造ろうかと思っております」
「どこだ、それは」
「枚岡といって、あの辺りです」
鎌子は手でその場所を指し示したが、葛城王は不服そうだった。
「遠い。もっと近くに住め」
「中臣の宗家である国足の邸が王宮近くに造られる予定です。そこに間借りすることもできます」
今度は葛城王は呆れた顔になった。
「鎌子は内臣だぞ。吾の政務を補佐してもらわなければならない。吾の邸の近くに土地を与えるから自分の邸を造れ」
葛城王にそう言われてしまえば鎌子に断ることはできない。
「分かりました」
鎌子は拱手し、葛城王に感謝の意思を示した。
この年、子代離宮からは駅制と伝馬制を定める詔が出された。
駅制とは、倭朝廷の政治府がある都と地方の政府機関である国衙を結ぶ官道の三十里ごとに駅を設ける制度のことである。国衙とその下の機関である郡家(評家)を結ぶ道には伝馬制によって馬を配置することが義務付けられた。
この二つの決まるごとにより、国衙、郡家、そして駅には、各々朝廷と国司との連絡に使われる馬を置くことが定められた。
駅制と伝馬制は朝廷の命令を地方に伝えるためだけでなく、税である庸調の輸送や兵の移動を効率よく行うためのしくみでもあった。
西国に先んじて派遣された東国の国司は、詔に応じて各地で駅を設営してさっそく運用を始めた。だが、彼らの報告や実情を調査した結果、いくつかの問題が明らかになった。
それらの問題のうち、国司の配下の役人が農民に対して庸調とは別に供物を要求したり、定められた人夫以外の者を公務に徴用したりといった事例は、国司の仕組みが出来上がっていないために生じた問題だともいえる。
子代離宮に寄せられた問題に対し、葛城王は罰則などの対応をひとつひとつ細かに吟味し、制度の補完を行っていった。
そうした実例をもとに西国の国司の運用を推進しようとしても、未だ各地の国造やその他の豪族からの反発は大きく、西国には国司を置くことすらままならない状態が続いていた。
「西国の国造たち不満を和らげるために、吾は自分の領地を手放そうと思う」
葛城王は阿倍内麻呂、蘇我石川麻呂にそう告げた。これは鎌子と相談した上での左右大臣への提議だった。
「それは葛城王に限っての事でしょうか。それとも広く王族にも適用しようとお考えですか」
石川麻呂がやや慌てた様子で尋ねてきた。側に控えていた鎌子は葛城王の合図をうけ、葛城王に代わって石川麻呂に説明した。
「大王以外の王族はすべて、です。これまで領地から得ていた財はすべて大王に返還し、全国から集められた庸調の財を分配することとします」
「それは大王の御子であってでもですか」
石川麻呂が云う大王の御子とは有間皇子のことを指す。阿倍内麻呂が無言のまま横目で石川麻呂を見た。
「はい、そうです。王族の領地がすべて大王の下に返還されることで、国造たちも例外ではないことを明らかにするのです」
鎌子の説明を聞いた石川麻呂が気づかわし気に葛城王を窺い見た。
「そうなると葛城王はお困りになるのではありませんか」
石川麻呂に無用の心配されたことを察した葛城王が自ら答えた。
「しばらくは困ることはない。このところ吾は妃を何人か迎えたが、それぞれの出自の一族が財を寄こした。必要ならば追加にも応じられるし、吾と妃の間に子が生まれればそのための財も惜しまないと言っている。いくつかの国から税が確実に納められるようになるまで吾が困ることはない」
はあ、と石川麻呂は気の抜けたような返事をした。
石川麻呂は最近、孝徳天皇の側に呼ばれることが多く、阿倍内麻呂と腰を据えて話すこともないのだという。阿倍内麻呂が終始どこか疑わし気な目を石川麻呂に向けているのも仕方がないことだった。
この年の九月、国博士である高向玄理が遣新羅使として新羅に派遣されることになった。
「どうにもわたしには大学寮の仕事もあるのですが」
高向玄理は困った顔で鎌子に言った。
「玄理殿が留守の間は私が代わりとなって大学寮の面倒を見ます」
「鎌子殿もお忙しいでしょう。早くわたしの後を継いでくれるものが大学寮から出てくれればいいのですが、そのための教育を放り出して新羅に行かねばならないという、なんとも上手く行かないものです」
「玄理殿の代わりになるのなら私が行きたいぐらいです」
鎌子がそう冗談めかして玄理の愚痴に応えると、玄理は笑いながら手を振った。
「いやいや、鎌子殿はもう都から離れられないでしょう。鎌子殿がおられなかったら葛城王もお困りでしょうし、やはりわたしが行かなければなりませんね」
愚痴を引っ込めて任務に前向きになった玄理を見ながら、鎌子の脳裡にはかつての自分の夢が思い出された。
――遣唐使になるという夢を忘れたわけではないけれど。
この人生を懸けて実現したい別の夢を鎌子は見つけてしまっていた。
葛城王の新たな邸が建つと、定まらない難波宮の代わりに多くの人々が入れ代わり立ち代わり訪れるようになった。造営を急いだために王族の住む邸としては簡素だったが、葛城王の信頼篤い佐伯子麻呂が邸の警備の任にあたっていた。
そして難波の土地で、大化の改新前からの葛城王の妃である遠智娘は二番目の娘である鵜野皇女(のちの持統天皇)を出産した。
「近くにいた漁撈の民を追い出しただけで辺りは水辺のままだ。工事が思ったように進まない」
難波宮の造営予定地を眺める高台で阿倍内麻呂は鎌子にそう打ち明けた。二人の背後には子代離宮がある。ここにはすでに飛鳥宮から孝徳天皇が移ってきていたが、未だ整備が必要なところもあって政の場としての機能は十分とはいえなかった。
「大王の意向はどのようなものなのですか」
「壮大なものにせよ、と仰せだが具体的なことはまったく指示が無い」
「これまで飛鳥の地に造ってきたような倭の王宮を踏襲する、というわけではないのですね」
「それはない。明らかなのはそれだけだ」
阿倍内麻呂は苛立たし気につま先で土を蹴った。
「阿倍様、確か僧旻殿が唐の王宮についての書をもっていたと思います。意見を求めてみてはいかがでしょうか」
「百済ではなく唐か。工人がおらんだろう」
「見た目は唐の宮殿ですが、構築法は百済や新羅にも伝わっています。玄理殿も遣唐使として唐に渡った一人です。まだ唐の都の様子も記憶しているでしょう」
「僧旻も高向玄理も国博士、か」
「はい。このような時のために置いた役職です。後ほど私から僧旻殿と玄理殿に使いを送りましょう」
「鎌子殿、頼んだ。……わしは年寄りだ。新しい国の制度というのが何のためのものなのか正直、まだ分かっていないところがある。だが使い方さえ飲み込めば便利なものだということは何となくだが分かる」
もっと早くに始めておくべきだったか、と推古天皇の時代から王族に仕えてきた古い一族の長は呟いた。
「葛城王がこちらに来てくれて良かった。大王は政向きではない。今も葛城王が策定し我々が協議した文書を詔として読み上げているだけだ。民の声を集める意見箱や罪人の恩赦などには積極的に関心を示すのだが、政とはそれだけではやっていけないものだ」
阿倍内麻呂がこのごろ苛立ちや憤りを露にするようになったのは、老いた自らの先が長くないことを否応なく自覚し始めたためだった。
「百済大井宮で舒明天皇が始められたこの国の在り方を変える改革。わしは自分が理解した範囲をできるだけ大王にお伝えしてきたはずだったのだが……」
鎌子は、かつて孝徳天皇が軽皇子であったとき山崎離宮で交わされていた阿倍内麻呂との会話を思い出した。鎌子が阿倍に呼ばれて山科から山崎離宮に通ったのも唐の制度について軽皇子に話をするためだった。
葛城王の父である舒明天皇と阿倍内麻呂がどれほど親しかったのかは分からない。だが舒明天皇が政を執り行った百済大井宮は阿倍氏の領地であり、阿倍内麻呂は今、その隣に大きな寺院を造営していた。
老いた重臣の横顔には、気づかぬうちに脇道に逸れていた己の人生を造営の進まない難波宮に重ねた苦渋が滲んでいた。
内麻呂の言葉が途切れたところを見計らい、鎌子は葛城王の意向を伝えた。
「葛城王は難波宮の内裏で執務を行い、住処となる邸は王宮の外に建てたいと望んでいます。今からでも王宮内裏の計画の変更は可能でしょうか」
「計画も何も杭の一本も打ち込んでいない。もっとも東宮御所は内裏には必要な建物だから必ず造ることになるだろう」
「葛城王が内裏の東宮御所を使わなければ、誰かそこを使うことはあるのでしょうか」
「大王の御子である有間皇子様だろうか」
自ら口にした言葉に阿倍内麻呂は黙り込んだ。鎌子も口をつぐんだ。次の王位を巡る火種が早くも二人の目前にあった。
大化二年正月、孝徳天皇は造営が遅れている難波宮の代わりに子代離宮が仮の王宮であることを公にした。
「鎌子は難波宮をどう見る」
難波の四天王寺に建てられた五重塔で葛城王と鎌子は早春の青空を見ていた。もともと四天王寺の境内は小高い台地の上にあって見晴らしがよい。二人はそこからさらに五重塔の中ほどまで登って来ていたので、難波の海の水平線が青空の彼方に見えていた。
「難波宮は難波の海と河内の湖の間に伸びた半島の先端に造られることになっています。けれど石垣や堤が無ければ海からの守りが脆弱です。攻めてくる敵がいなくても、海の水が上がり湖の水が溢れれば王宮は容易に陸から孤立します」
境内に咲く梅花の香りを運ぶ風に似つかわしくない話題だったが、ここからならば難波の海だけでなく子代離宮も造営中の難波宮も一望にできる。王宮の立地を確認するには都合が良かった。
「大王は石川麻呂の調子のいいだけの言葉に乗せられたか。鎌子、吾の邸はどこに置くのがいいと思う」
「こちらの方が良いかと」
鎌子は北に見える難波宮のやや東の方角を指し示した。
「厩戸王がかつて宮を造るために切り開いた場所があります。海ではなく河内の湖に面した高台にあって水はけがよく、古くから人々が住んでいた場所です」
河内湖は生駒山に向かう水運となり、生駒山の向こうは慣れ親しんだ大和の地である。葛城王は気に入ったようだった。
「そこにしよう。鎌子はどこに住む」
「部の民が生駒山の麓におりますのでそこに邸を造ろうかと思っております」
「どこだ、それは」
「枚岡といって、あの辺りです」
鎌子は手でその場所を指し示したが、葛城王は不服そうだった。
「遠い。もっと近くに住め」
「中臣の宗家である国足の邸が王宮近くに造られる予定です。そこに間借りすることもできます」
今度は葛城王は呆れた顔になった。
「鎌子は内臣だぞ。吾の政務を補佐してもらわなければならない。吾の邸の近くに土地を与えるから自分の邸を造れ」
葛城王にそう言われてしまえば鎌子に断ることはできない。
「分かりました」
鎌子は拱手し、葛城王に感謝の意思を示した。
この年、子代離宮からは駅制と伝馬制を定める詔が出された。
駅制とは、倭朝廷の政治府がある都と地方の政府機関である国衙を結ぶ官道の三十里ごとに駅を設ける制度のことである。国衙とその下の機関である郡家(評家)を結ぶ道には伝馬制によって馬を配置することが義務付けられた。
この二つの決まるごとにより、国衙、郡家、そして駅には、各々朝廷と国司との連絡に使われる馬を置くことが定められた。
駅制と伝馬制は朝廷の命令を地方に伝えるためだけでなく、税である庸調の輸送や兵の移動を効率よく行うためのしくみでもあった。
西国に先んじて派遣された東国の国司は、詔に応じて各地で駅を設営してさっそく運用を始めた。だが、彼らの報告や実情を調査した結果、いくつかの問題が明らかになった。
それらの問題のうち、国司の配下の役人が農民に対して庸調とは別に供物を要求したり、定められた人夫以外の者を公務に徴用したりといった事例は、国司の仕組みが出来上がっていないために生じた問題だともいえる。
子代離宮に寄せられた問題に対し、葛城王は罰則などの対応をひとつひとつ細かに吟味し、制度の補完を行っていった。
そうした実例をもとに西国の国司の運用を推進しようとしても、未だ各地の国造やその他の豪族からの反発は大きく、西国には国司を置くことすらままならない状態が続いていた。
「西国の国造たち不満を和らげるために、吾は自分の領地を手放そうと思う」
葛城王は阿倍内麻呂、蘇我石川麻呂にそう告げた。これは鎌子と相談した上での左右大臣への提議だった。
「それは葛城王に限っての事でしょうか。それとも広く王族にも適用しようとお考えですか」
石川麻呂がやや慌てた様子で尋ねてきた。側に控えていた鎌子は葛城王の合図をうけ、葛城王に代わって石川麻呂に説明した。
「大王以外の王族はすべて、です。これまで領地から得ていた財はすべて大王に返還し、全国から集められた庸調の財を分配することとします」
「それは大王の御子であってでもですか」
石川麻呂が云う大王の御子とは有間皇子のことを指す。阿倍内麻呂が無言のまま横目で石川麻呂を見た。
「はい、そうです。王族の領地がすべて大王の下に返還されることで、国造たちも例外ではないことを明らかにするのです」
鎌子の説明を聞いた石川麻呂が気づかわし気に葛城王を窺い見た。
「そうなると葛城王はお困りになるのではありませんか」
石川麻呂に無用の心配されたことを察した葛城王が自ら答えた。
「しばらくは困ることはない。このところ吾は妃を何人か迎えたが、それぞれの出自の一族が財を寄こした。必要ならば追加にも応じられるし、吾と妃の間に子が生まれればそのための財も惜しまないと言っている。いくつかの国から税が確実に納められるようになるまで吾が困ることはない」
はあ、と石川麻呂は気の抜けたような返事をした。
石川麻呂は最近、孝徳天皇の側に呼ばれることが多く、阿倍内麻呂と腰を据えて話すこともないのだという。阿倍内麻呂が終始どこか疑わし気な目を石川麻呂に向けているのも仕方がないことだった。
この年の九月、国博士である高向玄理が遣新羅使として新羅に派遣されることになった。
「どうにもわたしには大学寮の仕事もあるのですが」
高向玄理は困った顔で鎌子に言った。
「玄理殿が留守の間は私が代わりとなって大学寮の面倒を見ます」
「鎌子殿もお忙しいでしょう。早くわたしの後を継いでくれるものが大学寮から出てくれればいいのですが、そのための教育を放り出して新羅に行かねばならないという、なんとも上手く行かないものです」
「玄理殿の代わりになるのなら私が行きたいぐらいです」
鎌子がそう冗談めかして玄理の愚痴に応えると、玄理は笑いながら手を振った。
「いやいや、鎌子殿はもう都から離れられないでしょう。鎌子殿がおられなかったら葛城王もお困りでしょうし、やはりわたしが行かなければなりませんね」
愚痴を引っ込めて任務に前向きになった玄理を見ながら、鎌子の脳裡にはかつての自分の夢が思い出された。
――遣唐使になるという夢を忘れたわけではないけれど。
この人生を懸けて実現したい別の夢を鎌子は見つけてしまっていた。
葛城王の新たな邸が建つと、定まらない難波宮の代わりに多くの人々が入れ代わり立ち代わり訪れるようになった。造営を急いだために王族の住む邸としては簡素だったが、葛城王の信頼篤い佐伯子麻呂が邸の警備の任にあたっていた。
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