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第三章 浮生の都
渡海の客人(1)
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大化三年十月、孝徳天皇は左右大臣とその他気に入りの臣下を何人か連れて有間の湯に向かった。皇后である間人皇后は同行せず、皇太子である葛城王にも同行せよとの命令はなかった。
王都を留守にする天皇に代わり難波に残った葛城王は、子代離宮で粛々と政務を片付けていた。内臣である鎌子も有馬には行かず葛城王の補佐に就いていた。
「葛城王は温泉には行かなくてもよかったのですか」
先代の天皇である宝皇女の家族が外された有間行幸には政治的な意味がある。鎌子がさりげなく出した問いかけだったが、葛城王は正直な答えを返してきた。
「行ったところで西国との交渉だ。湯につかっている暇どころか甲と太刀が手放せない場所に好きこのんで行きたいとは思わない」
有間の地は孝徳天皇が定めた畿内の西の端に当たる。その先は西国、播磨国の領地だった。西国支配の最前線ともいえる有間の地には葛城王の父である舒明天皇もかつて滞在したことがある。
「播磨は倭の王権に従順だ。有間の温泉で互いに饗応しあって絆を深めてくれればそれでよい。大王もかたちのある仕事ができてやりがいを感じているのではないのか。その間、吾には政務に滞りが生じないように働け、ということだろう」
葛城王の目の前には人名とその出自が記された木簡が積まれている。傍らの鎌子は柵となっている別の木簡の束を持っていて、それには氏族の長から聞き集めた人々の業績が記録されていた。葛城王と鎌子が舎人数人の手を借りながら取り組んでいるのは、近いうちに制定する新たな階位にいくつの階が必要なのかを見積もる作業だった。
すでに推古天皇の時代に厩戸王によって冠位十二階が定められている。だが改新の改革によって官位や役職が大幅に増加し、十二の階だけでは賄いきれなくなっていた。新たな冠位の制定は必至だった。
「それよりも鎌子、玄理は何といってきた」
葛城王が木簡に落としていた目を鎌子に向けた。
本来ならば冠位を決める作業の大きな戦力となりうるはずだった高向玄理は、昨年から遣新羅使として新羅に渡っていた。その玄理が鎌子あてに急な報せを送って寄越した。機会を見て直ぐにでも、と、手に取りやすい場所に置いてあったその木簡を鎌子は葛城王に差し出た。
葛城王が木簡を開ききる間に鎌子はそこに書かれている内容を口頭で伝えた。
「玄理は新羅皇太子である金春秋を伴ってすでに新羅を出発したそうです。そろそろ筑紫上陸の知らせが来るでしょう。あと十日ほどで難波に着くかと思われます」
葛城王は文章の末尾に記された玄理のしるしを確認すると、鎌子の手に木簡を返した。
「皇太子が自ら倭国に来るのか」
葛城王は自分と同じ立場にある他国の王族が海を渡って異国に来ることに素直な驚きを隠さなかった。
「金春秋は高句麗と交戦中だったときに当の高句麗にも出向いたことがあるようです」
「戦っている相手の国に行けば命が危ういのは当然だし、そうでなくても自分自身が人質に取られては戦いが不利になってしまう。そのようなことはなかったのか」
「はい。金春秋はむしろ人質として相手の国内に入り込んで内情を探り、無事に新羅に帰還しています。すべてが彼の計画のようです」
「どうして敵国に囚われたりせずに無事に戻れるのか」
「玄理によると、金春秋は人に好まれやすい性質を持った人物だとのことです。人質としてより客人と扱われるので酷い目に遭う事が無いのだとか」
葛城王は腑に落ちない顔のまま、人名が書かれた階位策定のための木簡を再び手に取った。
「大王が難波に不在の今、吾がその金春秋に対応するほかはないのだろう。実際自分の目で見て確かめる。鎌子もその場に同席してほしい」
「わかりました。金春秋との面会は子代離宮の謁見の間でよろしいでしょうか」
鎌子は拱手して返事を待ったが、葛城王はすぐには答えなかった。何か言動に不備でもあったのかと鎌子が顔を上げると、葛城王は笑みを浮かべて鎌子を見ていた。
「なあ鎌子、吾が三韓館に行こう。あちらが倭国に自ら乗り込んでくるというのなら、吾もその気概に負けるわけにはいかない」
三韓館とは難波の港にある高句麗、新羅、百済の使者のための施設である。それぞれの国ごとに建物が設けられていて、倭国を訪れた各国の使者が滞在の間、情報交換や宿泊をする場所だった。
三韓館を使うのは使者だけではない。使者に同行してきた者たちや連絡のために倭国に留まり続けている者たちもそこにはいる。また人だけでなくそれぞれの国から運ばれてきた品物もそこに集まっていて、三韓館の周囲は賑やかに人が集まる異国情緒に溢れた場所だった。
葛城王は玄理と共に倭国を訪れるという新羅の金春秋との面会の場を、その三韓館に決めた。
金春秋は、前の新羅王である徳曼女王の甥にあたる。
以前新羅から倭国にも伝えられた「女帝を認めない」とする唐の方針は、倭国においては皇極天皇の譲位の原因となったが、新羅では内乱を引き起こしていた。
内乱の原因となったのは、唐の意向に反発し徳曼女王の在位継続を支持する勢力と、唐の意向を尊重して徳曼女王を否定する勢力との争いである。
金春秋は徳曼女王を支持する勢力の筆頭だった。
内乱の戦局を決定づけたのは金春秋と親しい王族出身の金庾信という将軍の活躍だった。金春秋と金庾信は以前より互いに信頼篤く、金春秋は金庾信の妹を自分の妃にしていた。内乱は金春秋の勢力が勝利を収めたのだが、戦乱の最中に当の徳曼女王が薨去してしまった。
代わりに、金春秋と金庾信は徳曼女王の従姉妹である勝曼を新たな新羅王に据えて、勝曼女王は金春秋を皇太子に指名した。
倭国とどこか似ているところもあるこの時代の新羅の来歴だが、ともに唐という大国に対応した結果、このようにならざるを得なかったというところだろう。
勝曼女王の即位後すぐに実行された金春秋の倭国訪問は、倭国の対外戦略を金春秋が直接知るための公的な諜報活動でもあった。
金春秋が筑紫から難波に到着したとの知らせが葛城王の下に届いた翌日、三韓館において葛城王と金春秋との会談が昼過ぎから始まった。会談の通訳は玄理が務め、鎌子は身分を隠した文官の装いで葛城王の身辺近くに侍ることにした。
玄理の先導で三韓新羅の館の応接間に金春秋とその従者がやってきて、複雑な木彫で飾られた朱漆の椅子に着いた。それは葛城王のために用意された椅子と揃いのものだった。
――確かに、人当たりは良さそうだ。
応接間の壁際に立つ鎌子は注意深く金春秋の様子を見た。事前に得ていた人に好かれやすい性質という金春秋に関する情報は漠然とした印象に過ぎなかったが、実際に本人を目の前にすると納得できた。
金春秋はなににつけ物腰が柔らかく、柔和な顔立ちには笑みを浮かべていることが多い。一方で表情の変化ははっきりとその顔に表れるので、素直な正直者という印象を見る相手に与える。
金春秋は穏やかなよく通る低い声で自身の従者や玄理と途切れなく会話を紡ぎ、対話する相手の興味を逸らすことがなかった。
自然体でそのような為人を作り出しているのではない。
それは細部まで神経を張り巡らせ、対話する相手から少しでも情報を引き出すために金春秋が年月をかけて練り上げてきた対人術だった。
金春秋はこのとき四十四歳。会談の相手である葛城王は二十二歳で親子ほどに年が離れている。海千山千という言葉通りの相手だが、葛城王は気負う様子なく応接間に入ってきて金春秋と相対した。
滑らかな床石が敷き詰められた応接間は一面が難波の海に面している。
腰高の大きな窓の外からは波のきらめきが、格子を通して波の音が、部屋の中へと入り込んできていた。
「倭国はずいぶんと大掛かりな改革をされている最中のようですね」
ひととおりの挨拶の後、金春秋は葛城王にさっそくそう尋ねてきた。
「新羅にも伝わっているのか」
「勿論です。どのようなことを行っているのか、こちらの玄理殿にも道中いろいろと尋ねさせていただきました」
通訳をする玄理は嬉しそうに金春秋に軽く頭を下げた。葛城王はちらりと玄理を見て、
「玄理にはよく働いてもらっている。今回金春秋殿を倭国にお迎えすることができたのも玄理の功績だ」
金春秋はその葛城王の言葉を聞いて、そうでしょう玄理殿は大変優秀な方です、と笑みを深くした。
「ところでその玄理殿からきいたところによりますと、葛城王にはもう一人、有能な補佐がついておられるとか」
「内臣の中臣鎌子なら今、留守だ」
葛城王は間髪入れず鎌子との事前の打ち合わせ通りの返事をした。
「そうでしたか。是非お会いしたいと思っていたのですが」
ふと、鎌子は金春秋の視線が自分に向けられた気がした。だがそうと気づいた瞬間には金春秋は葛城王の方へと身を乗り出すようにして次の話を始めていた。
王都を留守にする天皇に代わり難波に残った葛城王は、子代離宮で粛々と政務を片付けていた。内臣である鎌子も有馬には行かず葛城王の補佐に就いていた。
「葛城王は温泉には行かなくてもよかったのですか」
先代の天皇である宝皇女の家族が外された有間行幸には政治的な意味がある。鎌子がさりげなく出した問いかけだったが、葛城王は正直な答えを返してきた。
「行ったところで西国との交渉だ。湯につかっている暇どころか甲と太刀が手放せない場所に好きこのんで行きたいとは思わない」
有間の地は孝徳天皇が定めた畿内の西の端に当たる。その先は西国、播磨国の領地だった。西国支配の最前線ともいえる有間の地には葛城王の父である舒明天皇もかつて滞在したことがある。
「播磨は倭の王権に従順だ。有間の温泉で互いに饗応しあって絆を深めてくれればそれでよい。大王もかたちのある仕事ができてやりがいを感じているのではないのか。その間、吾には政務に滞りが生じないように働け、ということだろう」
葛城王の目の前には人名とその出自が記された木簡が積まれている。傍らの鎌子は柵となっている別の木簡の束を持っていて、それには氏族の長から聞き集めた人々の業績が記録されていた。葛城王と鎌子が舎人数人の手を借りながら取り組んでいるのは、近いうちに制定する新たな階位にいくつの階が必要なのかを見積もる作業だった。
すでに推古天皇の時代に厩戸王によって冠位十二階が定められている。だが改新の改革によって官位や役職が大幅に増加し、十二の階だけでは賄いきれなくなっていた。新たな冠位の制定は必至だった。
「それよりも鎌子、玄理は何といってきた」
葛城王が木簡に落としていた目を鎌子に向けた。
本来ならば冠位を決める作業の大きな戦力となりうるはずだった高向玄理は、昨年から遣新羅使として新羅に渡っていた。その玄理が鎌子あてに急な報せを送って寄越した。機会を見て直ぐにでも、と、手に取りやすい場所に置いてあったその木簡を鎌子は葛城王に差し出た。
葛城王が木簡を開ききる間に鎌子はそこに書かれている内容を口頭で伝えた。
「玄理は新羅皇太子である金春秋を伴ってすでに新羅を出発したそうです。そろそろ筑紫上陸の知らせが来るでしょう。あと十日ほどで難波に着くかと思われます」
葛城王は文章の末尾に記された玄理のしるしを確認すると、鎌子の手に木簡を返した。
「皇太子が自ら倭国に来るのか」
葛城王は自分と同じ立場にある他国の王族が海を渡って異国に来ることに素直な驚きを隠さなかった。
「金春秋は高句麗と交戦中だったときに当の高句麗にも出向いたことがあるようです」
「戦っている相手の国に行けば命が危ういのは当然だし、そうでなくても自分自身が人質に取られては戦いが不利になってしまう。そのようなことはなかったのか」
「はい。金春秋はむしろ人質として相手の国内に入り込んで内情を探り、無事に新羅に帰還しています。すべてが彼の計画のようです」
「どうして敵国に囚われたりせずに無事に戻れるのか」
「玄理によると、金春秋は人に好まれやすい性質を持った人物だとのことです。人質としてより客人と扱われるので酷い目に遭う事が無いのだとか」
葛城王は腑に落ちない顔のまま、人名が書かれた階位策定のための木簡を再び手に取った。
「大王が難波に不在の今、吾がその金春秋に対応するほかはないのだろう。実際自分の目で見て確かめる。鎌子もその場に同席してほしい」
「わかりました。金春秋との面会は子代離宮の謁見の間でよろしいでしょうか」
鎌子は拱手して返事を待ったが、葛城王はすぐには答えなかった。何か言動に不備でもあったのかと鎌子が顔を上げると、葛城王は笑みを浮かべて鎌子を見ていた。
「なあ鎌子、吾が三韓館に行こう。あちらが倭国に自ら乗り込んでくるというのなら、吾もその気概に負けるわけにはいかない」
三韓館とは難波の港にある高句麗、新羅、百済の使者のための施設である。それぞれの国ごとに建物が設けられていて、倭国を訪れた各国の使者が滞在の間、情報交換や宿泊をする場所だった。
三韓館を使うのは使者だけではない。使者に同行してきた者たちや連絡のために倭国に留まり続けている者たちもそこにはいる。また人だけでなくそれぞれの国から運ばれてきた品物もそこに集まっていて、三韓館の周囲は賑やかに人が集まる異国情緒に溢れた場所だった。
葛城王は玄理と共に倭国を訪れるという新羅の金春秋との面会の場を、その三韓館に決めた。
金春秋は、前の新羅王である徳曼女王の甥にあたる。
以前新羅から倭国にも伝えられた「女帝を認めない」とする唐の方針は、倭国においては皇極天皇の譲位の原因となったが、新羅では内乱を引き起こしていた。
内乱の原因となったのは、唐の意向に反発し徳曼女王の在位継続を支持する勢力と、唐の意向を尊重して徳曼女王を否定する勢力との争いである。
金春秋は徳曼女王を支持する勢力の筆頭だった。
内乱の戦局を決定づけたのは金春秋と親しい王族出身の金庾信という将軍の活躍だった。金春秋と金庾信は以前より互いに信頼篤く、金春秋は金庾信の妹を自分の妃にしていた。内乱は金春秋の勢力が勝利を収めたのだが、戦乱の最中に当の徳曼女王が薨去してしまった。
代わりに、金春秋と金庾信は徳曼女王の従姉妹である勝曼を新たな新羅王に据えて、勝曼女王は金春秋を皇太子に指名した。
倭国とどこか似ているところもあるこの時代の新羅の来歴だが、ともに唐という大国に対応した結果、このようにならざるを得なかったというところだろう。
勝曼女王の即位後すぐに実行された金春秋の倭国訪問は、倭国の対外戦略を金春秋が直接知るための公的な諜報活動でもあった。
金春秋が筑紫から難波に到着したとの知らせが葛城王の下に届いた翌日、三韓館において葛城王と金春秋との会談が昼過ぎから始まった。会談の通訳は玄理が務め、鎌子は身分を隠した文官の装いで葛城王の身辺近くに侍ることにした。
玄理の先導で三韓新羅の館の応接間に金春秋とその従者がやってきて、複雑な木彫で飾られた朱漆の椅子に着いた。それは葛城王のために用意された椅子と揃いのものだった。
――確かに、人当たりは良さそうだ。
応接間の壁際に立つ鎌子は注意深く金春秋の様子を見た。事前に得ていた人に好かれやすい性質という金春秋に関する情報は漠然とした印象に過ぎなかったが、実際に本人を目の前にすると納得できた。
金春秋はなににつけ物腰が柔らかく、柔和な顔立ちには笑みを浮かべていることが多い。一方で表情の変化ははっきりとその顔に表れるので、素直な正直者という印象を見る相手に与える。
金春秋は穏やかなよく通る低い声で自身の従者や玄理と途切れなく会話を紡ぎ、対話する相手の興味を逸らすことがなかった。
自然体でそのような為人を作り出しているのではない。
それは細部まで神経を張り巡らせ、対話する相手から少しでも情報を引き出すために金春秋が年月をかけて練り上げてきた対人術だった。
金春秋はこのとき四十四歳。会談の相手である葛城王は二十二歳で親子ほどに年が離れている。海千山千という言葉通りの相手だが、葛城王は気負う様子なく応接間に入ってきて金春秋と相対した。
滑らかな床石が敷き詰められた応接間は一面が難波の海に面している。
腰高の大きな窓の外からは波のきらめきが、格子を通して波の音が、部屋の中へと入り込んできていた。
「倭国はずいぶんと大掛かりな改革をされている最中のようですね」
ひととおりの挨拶の後、金春秋は葛城王にさっそくそう尋ねてきた。
「新羅にも伝わっているのか」
「勿論です。どのようなことを行っているのか、こちらの玄理殿にも道中いろいろと尋ねさせていただきました」
通訳をする玄理は嬉しそうに金春秋に軽く頭を下げた。葛城王はちらりと玄理を見て、
「玄理にはよく働いてもらっている。今回金春秋殿を倭国にお迎えすることができたのも玄理の功績だ」
金春秋はその葛城王の言葉を聞いて、そうでしょう玄理殿は大変優秀な方です、と笑みを深くした。
「ところでその玄理殿からきいたところによりますと、葛城王にはもう一人、有能な補佐がついておられるとか」
「内臣の中臣鎌子なら今、留守だ」
葛城王は間髪入れず鎌子との事前の打ち合わせ通りの返事をした。
「そうでしたか。是非お会いしたいと思っていたのですが」
ふと、鎌子は金春秋の視線が自分に向けられた気がした。だがそうと気づいた瞬間には金春秋は葛城王の方へと身を乗り出すようにして次の話を始めていた。
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