白雉の微睡

葛西秋

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第三章  浮生の都

海濱の謀

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 これまでの倭国は、地方を支配している豪族との緩やかな共同体関係によって成り立っていた。有力な豪族は王族によって国造という地位を与えられていたが、地方支配の実権は王族にはなく、国造がそのほとんどを掌握していた。

 国造が支配する地方には、そこに伝わる信仰や祭祀がある。民の信仰と支配階級である国造の祭祀にはほとんど区別がなく、民間に流布した信仰がその地の治安を脅かすことが度々生じた。

 例えば皇極天皇三年七月、東国の富士川に大生部多おおうべのおおという巫覡ふげきが現われた。
 大生部多は橘の木についた蝶の幼虫を指して常世の神と呼び、近くの村人たちにこの蟲を祀ることを勧めた。

――貧しき人は富を成し、老いた人は若返る

 大生部多が説いた言葉を信じた者達は皆、この幼虫を探し求めて家の敷居に置いて祀り、そして虫のために歌い踊りながら幸いを求めて財を投げ打った。

 探せばどこにでも見つかる蝶の幼虫である。だが大生部多に煽られ、唆された村人たちは狂ったようにこの虫を祀りあげ、米作りすらおろそかにし始めた。
 
 この騒ぎは飛鳥の王宮にまで届き、当時有力な臣だった秦河勝はたの かわかつがこの地に派遣された。そして騒ぎの元凶である大生部多を処刑すると、村人たちは目が覚めたように蟲祭りを止めて田畑での作業に戻ったという。

 この富士川の大生部多ような民間の祭祀は多くの土地で行われていた。そのいくつかにはその土地を治める国造の祖霊信仰が大元となっているものがあった。
 国司による地方支配を強化する時、その土地に伝わってきた信仰や祭祀がその妨げになる可能性があった。

「それらを一律に禁じるのではなく、ある程度統一した作法をもって祭祀を行う事を規定すれば、やがて同じ根を持つ信仰となるのではないだろうかと考えたのです」
 鎌子は、鏡を手に持ち敷物の上に座る葛城王に説明をした。

 祀る神はその土地、その氏族の神であり祈りの内容もそれぞれだろう。けれど祭祀の作法や神に付随する伝承を関連付けて、王族の神である天照大神に繋がる一つの信仰にまとめ上げる。それは天照大神を頂点とし、各氏族の神を人の手で再編成する作業だった。
 
 鎌子の話を聞いていた葛城王は鏡を見た。
「中臣は人と神との間を繋ぐ祭祀を生業とする一族。たしかに鎌子にしかできない仕事だ。だが吾ら王族が信奉している神は天照大神だけではなかったはずだ」
 葛城王の傍らに座る鎌子には、磨かれた鏡面に映る葛城王の顔が見えていた。
「はい。高皇産霊神たかみむすびも王族の祖神として祭祀が行われています。このところ天照大神の祭祀が多くなっているのは宝皇女様のご意向です」
「母上の、か」
「宝皇女様は以前より雨乞いの祈祷を行うなど、積極的に民に恵みをもたらす神事を行っておられます。民の信仰に寄り添うには太陽をその姿とする天照大神の祭祀が適切だとお考えのようです」

 葛城王は手元の鏡に燭台の炎を映した。
 鏡の裏面には細かな模様が浮き出ている。青銅の鏡はかつて倭の王族が権力の象徴として地方の豪族に与えてきたものだった。しかししばらく前から地方各地に鏡を作る技術が伝わり、王族の権威の象徴としての意味は消失しつつあった。

 葛城王が鏡を傾けると鏡の形に反射した光が壁際の几帳を淡く照らした。
「天照大神は太陽の神だ。雨を降らせる雲は太陽を隠す。天照大神を祀る祭祀と雨乞いの祭祀とは異なるものではないのか」
「太陽神の姿が雲に隠れれば雨が降り、雨の後には晴天が訪れる。日の光も豊かな水も、どちらも稲の成長に必要なものです。晴雨は表裏一体の現象なのです。もっとも宝皇女様は他に雨を降らせる神がいないか、私の父に相談していました」
「雨を降らせるのなら、民の間にもいくつか祭祀があると聞いた」
「村里では祝部という呪術者が指示するままに牛馬を殺したり、河伯という水神に雨を乞うたりしていますが、宝皇女様が求めたのは吉野の龍神であるおかみでした」

 山や里に雨や雪を降らせる蛇体の神は稲作の神として倭の建国以前から信仰されていた。漢字が比較的早くもたらされた大和の地では、龗という龍神の一種を表す漢字がこの神の名にあてられていた。

「吉野の龍神か。そういえばその名を吾も聞いたことがある」
「私の父である中臣御食子は、吉野で龗の祭祀を執り行っていた神官を飛鳥に呼び出して祭祀を行わせ、さらに自らその術を習い憶えていました。宝皇女様はことのほかこの神を大切に祀るよう父に命じたそうです」
「吉野の龍神ならば、そこに住んでいる者達の祖霊神でもあろう。彼らに自分たちの神を奪われたと恨まれることはないのか」
「神そのものではなく神威を借りる分霊という作法が中臣に伝わっております。地方で祀られている神々の神威を王族が支配するために、この龍神を始め王族の祖霊神である天照大神の下に部族の神を配置し神々の物語を作っていこうと考えています」
「龍は唐の皇帝の象徴だが、倭ではその龍を王族が従えることになるのか」

 おもしろい、と葛城王は呟いて鏡の裏に刻まれた龍の刻印を指でなぞった。

「葛城王、新羅においては古来からの神祇は仏教に取り込まれ半ば消失しているとのことです。倭国は彼等とは異なる道を選びましょう」

――神と王族を分かちがたい存在にして、絶対的な支配の根拠とする

 それは政とは別に鎌子が大化の改新で取り組んでいる大きな仕事だった。
 今、鎌子と葛城王がいる建物は、王族の新たな祭祀を執り行うための神の社として鎌子が考案したものである。火事という災厄の思いがけない結果としてだったが、葛城王を社に迎え入れることができたことで、鎌子は自分の仕事への深い充足を覚えていた。

 葛城王邸の火事の始末は年が明ける前に片付き、何事もなかったかのように新年を迎えた。右大臣である蘇我石川麻呂の邸に避難していた葛城王の妃や子も葛城王の邸に戻ってきていた。

 その蘇我石川麻呂が子代離宮の片隅でこっそりと鎌子に声を掛けてきた。
「鎌子殿、ちょっと話が」
「なんでしょうか」
 見るからに隠し事を抱えている様子の石川麻呂の手招きに応じて近寄った鎌子に、石川麻呂は妙なことを囁いた。
「左大臣の阿倍殿に謀叛の兆しあり、という噂を聞いたのだ。この噂の真偽は分からないが念のために葛城王に伝えてもらえないか」
 鎌子は石川麻呂の申し出を強く断った。
「根拠がない噂話を葛城王にお伝えするわけにはいきません。確実な証拠をお示し頂ければ葛城王に伝えることもありますが、そうでないのならお断りいたします」
「……そうか」
 鎌子に与えられた内臣の職位は右大臣の命を拒否することができる。石川麻呂は何か言いたげな顔をしたが大人しく引き下がった。

 鎌子が葛城王にこのことを伝えると、葛城王の顔が険しくなった。
「鎌子、これは何か大王の意図があってのことだと思うのだが」
 石川麻呂は前年の孝徳天皇の有間行幸に付き従っている。孝徳天皇から何らかの指示があったと考えてもおかしくなかった。
「私もそう思います。おそらくは葛城王を巻き込む争いを起こしたいのでしょう」
「対応によっては吾が謀叛の張本人と名指しされる。安倍内麻呂はもうかなりの年寄りだ。謀などできようはずがない。鎌子、石川麻呂のことは無かったことにしろ。吾は何も聞いてない。今はそれどころではないのだ」
「わかりました」
 それ以上その話は進展することなく、大化五年三月十七日、左大臣阿倍内麻呂は老衰のため死亡した。舒明天皇の代から朝廷を支えてきた老臣の葬礼では、王族がその忠義を称え棺の前で死を悼んだ。

 事件はその数日後に起きた。
 その日、葛城王と鎌子は難波宮の工事の進捗を見に行った帰りに難波の浜辺に寄った。浜辺には初夏を思わせる晴れた日差しが降り注ぎ、海辺の風が心地よく吹いていた。
 乗っていた馬を降りて砂浜を歩けば、他に漏らすことのできない二人の会話が海風に紛れるのも都合が良かった。
「葛城王、高向玄理殿は時折、新羅の館に行き歓待を受けているようです。やはり一言注意をした方が良いでしょうか」
「今すぐに対応する必要はない。ただ見張っていればいいだろう」
「玄理殿は我が国に不利となる行いはしないでしょう。新羅と交流できる人間は必要です。玄理殿にはむしろ窓口になってもらいたいのです」
 鎌子の話を聞いていた葛城王が、何かに気づいて足を止めた。
「なんだこれは」
 葛城王が近寄ったのは波打ちぎわに置かれた一本の白木の矢だった。真白な白木の軸に、これも見事に真白な矢羽が付けられている。
「見覚えのないものには注意してください」
 鎌子にそう警告され、葛城王は拾い上げた矢を鎌子に手渡した。
「新しい矢だ。砂にも塗れていない。なんでこんなところにあるのだろう」
「……葛城王に見つけてもらうために置かれていたのではないでしょうか」
「何のために」
「わかりませんが、あまり好意的な意味ではないと思います。この矢は私が預かります」

 その光景を見ていたという蘇我日向そが ひむかが孝徳天皇に讒言した。
「葛城王の暗殺未遂がありました。右大臣、蘇我石川麻呂様が首謀者です」
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