白雉の微睡

葛西秋

文字の大きさ
30 / 65
第三章  浮生の都

鴛鴦の悲嘆(1)

しおりを挟む
 蘇我石川麻呂による葛城王の暗殺計画を孝徳天皇に讒言ざんげんした蘇我日向そが ひむかは、蘇我石川麻呂の異母弟だった。日向は孝徳天皇に讒言ざんげんする前に、葛城王にも近辺にも石川麻呂の叛意を訴え出ていたが、葛城王と鎌子はそれを一蹴し、取り合っていなかった。

「石川麻呂の手の者によって葛城王に矢が射掛けられた、というのが蘇我日向の言い分です。やはりこれが罠でした」
 鎌子は保管しておいた矢を葛城王の前に差し出した。砂浜で拾ったその日に鎌子が調べたところ、やじりは先が欠けていて矢としては使い物にならないことが分かっていた。
「その矢に何かほかの特徴は」
 葛城王は鎌子が差し出した矢に手を触れないままそう尋ねた。
「矢羽が鷹ではなく鷲の尾羽です。白い鷲の尾羽は越の国が献上してくるもの、手に入れられる者は限られます」
 王族もしくは蘇我宗家の長である石川麻呂なら手に入れることが可能だろう。葛城王は矢羽から目を離して鎌子を見た。
「阿倍の時と同じだ。吾を巻き込もうとする何らかの奸計だろう。できれば無視をしたいが日向は大王《おおきみ》にも伝えるという。そうもいかないだろう」
 葛城王の危惧は的中し、蘇我日向の讒言を受けた孝徳天皇は葛城王に事の真偽を質す使者を寄こした。
「右大臣が暗殺を謀っていたということだが、皇太子の御身は無事か」
 孝徳天皇の使者が述べた言葉は表向き葛城王の安否を気遣うものだった。だが自分が暗殺対象だったと名指しで言われれば葛城王は何らかの反応をせざるを得ない。
 孝徳天皇は葛城王に石川麻呂を討てと暗に要請していると捉えるのが妥当だった。

「石川麻呂殿による暗殺の事実は否定し、矢への疑いだけを述べれば大王の意図を汲んだことになりませんか」
 鎌子の提案は苦し紛れが明らかな言い分だった。だが葛城王は、
「それがよさそうだ」
 といって自ら大王の使者に伝えた。
「浜辺を歩いていた吾の近くに矢があったことは確かだが、吾の暗殺のために放たれたものとは到底思えない。敢えて言うならば確かに石川麻呂ならばこのような仕様の矢を手に入れることはできるだろう。疑いがあるとすればその程度だ。大王の御心配は無用のものだ」

 明らかな言い逃れで石川麻呂討伐の軍を動かそうとしない葛城王を尻目に、孝徳天皇はこれまでとは異なる思い切った行動に出た。孝徳天皇自らが蘇我石川麻呂を討つ兵を起こしたのである。
「葛城王からは右大臣である蘇我石川麻呂には確かに疑いがあるという報告があった。よってわたしが自ら右大臣を討伐する」

 蘇我石川麻呂は孝徳天皇の軍に邸を囲まれる前に二人の息子とともに大和へ逃げた。逃げた先は石川麻呂の長男である蘇我興志そがこごしが建てた山田寺という寺である。
「父上、ここで大王の軍勢を迎え撃ちましょう」
 飛鳥宮にほど近い山田寺で石川麻呂を迎えた興志は、兵を集め、大王への宣戦布告のために飛鳥小墾田宮に火をつけることを計画していた。だが石川麻呂は興志の行動を制止した。
「この寺は大王のために建てたもの。私がここに来たのは大王に逆らうためではない。逆賊として大王の兵に殺されるのではなく、忠臣としての最後を迎えるためにこの寺に来たのだ。お前たちも覚悟を決めろ」

 天皇が自ら兵を起こしたならば、もう罪を覆すことはできない。
 石川麻呂は興志ら息子三人を含む家族八人ともども首を括って自死した。

 孝徳天皇は蘇我日向の他に大伴狛を蘇我石川麻呂の追討の将軍に任じていた。
 追討軍が難波から飛鳥に向かう前に石川麻呂一族の自死の報せがもたらされ、将軍の一人である大伴狛は軍を難波に返した。

 だが蘇我日向は兵を退こうとしなかった。

 蘇我日向が率いる軍は難波と飛鳥の境の峠を越え、既に石川麻呂一族の遺体が並ぶ山田寺を囲んだ。生き残って降伏を表明する者達を次々に捕らえ、ある者はそこで殺し、ある者は罪人として後ろ手に縛り首枷を掛けた。そして蘇我石川麻呂の遺体を見つけるとその首を切り落とした。

 蘇我日向に従う者の中に穂積臣咋ほづみ おみくいという者がいた。
 穂積臣咋は東国のある国司の長官で、以前、行動に問題があるとして処罰され任を解かれていた。臣咋を処罰したのは改新を主導している葛城王と二人の大臣、阿倍内麻呂と蘇我石川麻呂だった。
 左大臣である阿倍内麻呂が亡くなり臣咋の恨みの矛先は蘇我石川麻呂に向かっていた。
 石川麻呂の遺体から首が切られるのを見届けると、穂積臣咋は部下の二田鹽ふつた しおに命じてその遺体を損壊させた。二田鹽は雄叫びを上げながら太刀で遺体の胴を突き、手足を断ち切り、背を、腹を切り刻んだ。山田寺の石畳には石川麻呂の血肉が一面に散らばった。

 難波に残された石川麻呂の邸からは多くの書物や宝物などが押収された。それらの中には皇太子である葛城王への献上品と記されたものがあった。
「……前に吾の邸に火を放ったのは石川麻呂の指図だったのかもしれない」
 子代離宮の一画で石川麻呂の遺品を鎌子とともに検分しながら葛城王が云った。
「なぜそう思うのですか」
 鎌子が聞くと葛城王は美しい紙に写された経文を眺めながら、
「犬に吠えられて逃げる程度の者達だ。本当に吾の邸を焼こうと思っていたのなら気構えが足りない。本気ではなく吾の邸に火が付けられたことが周りに分かればいい、それで大王の命令をごまかそうとしたのではないか」
 葛城王が手にする経文には皇太子への献上品と記された短い木簡が付けられていた。
「そうならば、あの鏃が欠けた矢もやはり石川麻呂殿のものだったのかもしれません」

 石川麻呂は孝徳天皇から何回も葛城王を陥れる謀や暗殺を命じられていたが、適当に受け流して完遂には至っていなかった。その一方で葛城王には献上品を欠かさなかった。
 対立する葛城王と孝徳天皇の両方に良い顔をしようとして阿倍内麻呂からは猜疑の目を向けられ、孝徳天皇の逆鱗に触れた。

 それは見方を変えれば孝徳天皇による容赦のない葛城王派の粛清だった。
 蘇我石川麻呂の事件により、兵を動かさなかった葛城王と孝徳天皇の敵対関係が衆目にも明らかになった。

「……鎌子、大王には最早吾の言葉が通じないのかもしれない」
「私もそのように思います」
「何かを言えば勝手に解釈され、黙っていれば勝手に何かを言ったことにされる」
 葛城王の口調には苛立ちよりも虚しさが強く滲んでいた。
 二人の対立が明らかになった今の状況を思えば、葛城王の邸を王宮の外に建てたことは適切な判断だった。だがかつての山背大兄王のように邸ごと一族を滅ぼされることもこの先は警戒しなければならない。佐伯子麻呂の他にも葛城王の邸の警備にあたらせる兵を増やさなければならないだろう。
 鎌子は喫緊の対応に思考を巡らせながら葛城王に尋ねた。
「葛城王、遠智娘おちのいらつめ妃のご様子は。大丈夫でしょうか」
 葛城王の妃である遠智娘は蘇我石川麻呂の娘である。気遣う鎌子の言葉だったが、葛城王の表情は目に見えて暗くなった。
「妃はひどく心を痛めている。日夜泣き叫び、疲れ果てて一日床に伏していたかと思えば起きて直ぐにまた泣き始める」

 石川麻呂の娘である遠智娘は父母も兄弟も、近しい家族を一時に失って強く嘆き悲しんだ。なかでも石川麻呂は彼女にとって頼もしく娘想いの優しい父親だった。
 遠智娘は深い悲しみに沈んだまま、喪屋で家族の遺体とともに石川麻呂の惨殺された屍を間近に見ることになった。
 二田鹽によって切り刻まれ、原形をとどめていない血みどろの肉塊を父だと云われ、遠智娘はその心に強い衝撃を負った。大きな悲鳴を上げながら正気を手放す寸前の彼女の眼に映ったのは、肉塊のところどころに赤黒くこびり付いた見覚えのある父の衣装の断片だった。

 心の均衡を失った遠智娘は、その後、うつつうつろを行きつ戻りつする生活を送ることになった。
 かろうじて葛城王の第三子を妊娠してからはとりわけ気鬱の病が重くなり、遠智娘は腹の中の子をほとんど流産に近いかたちで出産し、産褥の床を上げることなくそのまま帰らぬ人となってしまった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

改造空母機動艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。  そして、昭和一六年一二月。  日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。  「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...