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第四章 朝闇の深林
龍神の王都
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斉明天皇は年が改まるのを待ってから飛鳥板蓋宮で即位の儀礼を行った。
一時手放していた王位を取り戻した斉明天皇は、今度は積極的に政に参加するようになった。これには前に皇極天皇として在位していた当時、王宮を支配していた蘇我氏の勢力が今はほとんど失われたことが大きく影響していた。つまり、有力豪族から王族へ権力を取り戻す大化の改新が効果を現し始めたことを示していた。
「龍神が空を駆けて行ったのだ」
飛鳥の宮から初夏の青い空を見上げながら、斉明天皇は女官たちに話しかけた。
「南の葛城山の方から青い衣の唐人が龍に乗って、こう、北の方へ、生駒山の方へと空を駆けて行った。彼の者の青い衣の上を陽の光が雲母の欠片のようにきらきらと滑り落ちていた」
斉明天皇が語る不思議な話に慣れている女官たちは、感心しながら話を聞いている。
「大王、その龍神はもしかしたら雨の日に纏う油衣のような衣を着ていたのでしょうか」
年若い女官が素直な感想を口にすると、間人皇女が顔を輝かせてその言葉に賛成した。
「あらそうね、油衣なら水をはじいてきらきらと光らせるわ。きっと油衣だったのでしょう」
女官たちの間に混じって斉明天皇の話を聞いている間人皇女の膝の上には、澄んだ目を虚空に向けたままの健皇子が無表情のまま、けれどおとなしく座っていた。
斉明天皇は満足げに皆を見回し、
「わたしの目には青い衣としか見えなかった。一度は西の空に消えた龍神だが、昼頃に今度は住吉の空高くに上がってそれから西の方へ飛び去ってしまった」
間人皇女や女官たちは憧憬の眼差しを西へ向け、溜息を吐いた。
「お母さまはとても素敵なものをご覧になりましたこと。わたしもお母さまがご覧になった龍神を見てみたい」
間人皇女は斉明天皇の手に自分の手を重ねてその顔を仰ぎ見た。まるで幼い少女のようなその仕草に、斉明天皇は深い慈しみの目を向けた。
「間人もその気になれば龍神を見ることができるだろう。この飛鳥の都に龍神を祀り、わたしは水を支配する。いずれ間人にも水を操る王族の祭祀を伝えよう」
斉明天皇の意向は具体的な命令となって葛城王の下に届けられた。
「母上は飛鳥宮の大規模な改修をお望みのようだ。だが龍神の祭祀に必要な施設とは、いったいなんだ」
葛城王は鎌子に斉明天皇から寄越された木簡を渡した。鎌子は拝礼してそれを受け取り、
「水の祭祀を含む王族の祭祀は古来、自然にあるものを儀式に用いております。一方で大王は仏教の儀礼にも深く感銘を受けておられます。おそらくは王族の祭祀にも仏教のような荘厳さをお望みなのでしょう」
「政の改新を進める妨げにならなければ新たな施設を造営しても良いが、鎌子、何か問題はあるか」
葛城王の問いかけに対し、鎌子はすぐに答えることができなかった。
「……水神を祀る各地方の農耕神との調整が必要です」
各地の国造に伝わる信仰と王族の神話の連携は凡その大枠がすでに出来上がっていた。末梢の神々ならともかく、王族の祭祀の中枢となる神ならば粗略な扱いはできない。
珍しく考え込む鎌子に葛城王は同情を示した。
「鎌子がまとめてくれた倭の王族の歴史は、この間送った遣唐使が唐の皇帝に伝えている。大きく変えることはしなくていい。祭祀施設の造営だけ考えればよい」
鎌子が拱手して葛城王に感謝すると、葛城王は座っている椅子からやや身を乗り出すようにして鎌子に告げた。
「それよりも鎌子に注力してほしい仕事はいくつもある。その中でも重要なものが外交だ」
この時、唐と半島三国は新たな局面を迎えていた。
新羅の金春秋が王位に就いて武列王となると、百済と高句麗はこれに大きく反発した。百済高句麗の連合軍は新羅の北の国境に兵を進め、近辺の城を三十以上奪い取った。
武列王はいち早く唐に援軍を求め、唐は高句麗との国境から陸路を主要とした攻撃を何度も試みたが、どれも戦争の勝敗を決める決定打とはならなかった。
高句麗と百済、唐と新羅の攻防は危うい均衡状態に陥り、状況打開のための一手として倭の参入が待ち望まれていた。高句麗、百済、新羅から定期的に倭へ派遣される使いは、献上される調や人数が次第に大掛かりなものになっていった。
「葛城王、高句麗と百済にこちらからも使いを送りましょう。倭国内にいる百済王族にも協力を頼めば高句麗への融通も効くでしょう。彼らが倭に持ってくる情報だけでなく、こちらからも情報を得に彼の国へ行くべきです。できるだけ我々の方からも働き掛けるのが良いかと思います」
「分かった。だが新羅はどうする」
「金春秋のことですから、別の方法で接触を試みてくると思います」
葛城王は鎌子の献策を受け、高句麗と百済へ使いを派遣することを決めた。
斉明天皇元年八月、高向玄理とともに遣唐使として唐に派遣されていた河邊臣麻呂が帰国した。現地で死亡した高向玄理の遺体は唐で埋葬され、倭に戻ってきたのはその遺品のみだった。
「鎌子様、こちらを」
葛城王の執務部屋に向かう鎌子に河邊臣麻呂が一通の書簡を手渡した。遣唐使の通信は本来すべて公文書であり、鎌子に直接手渡される性質のものではない。注意しようとして河邊臣麻呂に押しとどめられた。
「……筑紫の湊で頼まれました。新羅からのものです」
黙って受け取り人目を避けて確認すると、それは新羅の高官である金庾信からの密書だった。金庾信は新羅の武烈王(金春秋)の腹心であり、もっとも近しい臣下である。
葛城王とともに内容を吟味すると、死亡した玄理に代わって新羅との窓口となるものは誰かと率直に聞くものだった。
「どうする」
葛城王に短く聞かれた鎌子は、
「私が金庾信と連絡を取ります」
「危険ではないか」
葛城王の懸念は唐での高向玄理の死因についてだった。実のところ玄理が死亡したという知らせは届いたが、死因については何も分かっていない。唐と倭の接触を妨害したい何ものかの意志が働いた可能性は否定できなかった。
「少々細工をしてみようかと思います」
葛城王は不思議そうに鎌子の顔を見て、やがてどこか面白がるような目で鎌子を見た。
「鎌子が細工をするのか。いったいどんな細工をするつもりだ」
「金庾信との通信に偽名を用います」
そう言いながら鎌子は筆に墨を含ませて木簡に二つの文字を記した。
――仲郎
その名はこれから後々まで外交の場面で使われる鎌子の別名となった。
一時手放していた王位を取り戻した斉明天皇は、今度は積極的に政に参加するようになった。これには前に皇極天皇として在位していた当時、王宮を支配していた蘇我氏の勢力が今はほとんど失われたことが大きく影響していた。つまり、有力豪族から王族へ権力を取り戻す大化の改新が効果を現し始めたことを示していた。
「龍神が空を駆けて行ったのだ」
飛鳥の宮から初夏の青い空を見上げながら、斉明天皇は女官たちに話しかけた。
「南の葛城山の方から青い衣の唐人が龍に乗って、こう、北の方へ、生駒山の方へと空を駆けて行った。彼の者の青い衣の上を陽の光が雲母の欠片のようにきらきらと滑り落ちていた」
斉明天皇が語る不思議な話に慣れている女官たちは、感心しながら話を聞いている。
「大王、その龍神はもしかしたら雨の日に纏う油衣のような衣を着ていたのでしょうか」
年若い女官が素直な感想を口にすると、間人皇女が顔を輝かせてその言葉に賛成した。
「あらそうね、油衣なら水をはじいてきらきらと光らせるわ。きっと油衣だったのでしょう」
女官たちの間に混じって斉明天皇の話を聞いている間人皇女の膝の上には、澄んだ目を虚空に向けたままの健皇子が無表情のまま、けれどおとなしく座っていた。
斉明天皇は満足げに皆を見回し、
「わたしの目には青い衣としか見えなかった。一度は西の空に消えた龍神だが、昼頃に今度は住吉の空高くに上がってそれから西の方へ飛び去ってしまった」
間人皇女や女官たちは憧憬の眼差しを西へ向け、溜息を吐いた。
「お母さまはとても素敵なものをご覧になりましたこと。わたしもお母さまがご覧になった龍神を見てみたい」
間人皇女は斉明天皇の手に自分の手を重ねてその顔を仰ぎ見た。まるで幼い少女のようなその仕草に、斉明天皇は深い慈しみの目を向けた。
「間人もその気になれば龍神を見ることができるだろう。この飛鳥の都に龍神を祀り、わたしは水を支配する。いずれ間人にも水を操る王族の祭祀を伝えよう」
斉明天皇の意向は具体的な命令となって葛城王の下に届けられた。
「母上は飛鳥宮の大規模な改修をお望みのようだ。だが龍神の祭祀に必要な施設とは、いったいなんだ」
葛城王は鎌子に斉明天皇から寄越された木簡を渡した。鎌子は拝礼してそれを受け取り、
「水の祭祀を含む王族の祭祀は古来、自然にあるものを儀式に用いております。一方で大王は仏教の儀礼にも深く感銘を受けておられます。おそらくは王族の祭祀にも仏教のような荘厳さをお望みなのでしょう」
「政の改新を進める妨げにならなければ新たな施設を造営しても良いが、鎌子、何か問題はあるか」
葛城王の問いかけに対し、鎌子はすぐに答えることができなかった。
「……水神を祀る各地方の農耕神との調整が必要です」
各地の国造に伝わる信仰と王族の神話の連携は凡その大枠がすでに出来上がっていた。末梢の神々ならともかく、王族の祭祀の中枢となる神ならば粗略な扱いはできない。
珍しく考え込む鎌子に葛城王は同情を示した。
「鎌子がまとめてくれた倭の王族の歴史は、この間送った遣唐使が唐の皇帝に伝えている。大きく変えることはしなくていい。祭祀施設の造営だけ考えればよい」
鎌子が拱手して葛城王に感謝すると、葛城王は座っている椅子からやや身を乗り出すようにして鎌子に告げた。
「それよりも鎌子に注力してほしい仕事はいくつもある。その中でも重要なものが外交だ」
この時、唐と半島三国は新たな局面を迎えていた。
新羅の金春秋が王位に就いて武列王となると、百済と高句麗はこれに大きく反発した。百済高句麗の連合軍は新羅の北の国境に兵を進め、近辺の城を三十以上奪い取った。
武列王はいち早く唐に援軍を求め、唐は高句麗との国境から陸路を主要とした攻撃を何度も試みたが、どれも戦争の勝敗を決める決定打とはならなかった。
高句麗と百済、唐と新羅の攻防は危うい均衡状態に陥り、状況打開のための一手として倭の参入が待ち望まれていた。高句麗、百済、新羅から定期的に倭へ派遣される使いは、献上される調や人数が次第に大掛かりなものになっていった。
「葛城王、高句麗と百済にこちらからも使いを送りましょう。倭国内にいる百済王族にも協力を頼めば高句麗への融通も効くでしょう。彼らが倭に持ってくる情報だけでなく、こちらからも情報を得に彼の国へ行くべきです。できるだけ我々の方からも働き掛けるのが良いかと思います」
「分かった。だが新羅はどうする」
「金春秋のことですから、別の方法で接触を試みてくると思います」
葛城王は鎌子の献策を受け、高句麗と百済へ使いを派遣することを決めた。
斉明天皇元年八月、高向玄理とともに遣唐使として唐に派遣されていた河邊臣麻呂が帰国した。現地で死亡した高向玄理の遺体は唐で埋葬され、倭に戻ってきたのはその遺品のみだった。
「鎌子様、こちらを」
葛城王の執務部屋に向かう鎌子に河邊臣麻呂が一通の書簡を手渡した。遣唐使の通信は本来すべて公文書であり、鎌子に直接手渡される性質のものではない。注意しようとして河邊臣麻呂に押しとどめられた。
「……筑紫の湊で頼まれました。新羅からのものです」
黙って受け取り人目を避けて確認すると、それは新羅の高官である金庾信からの密書だった。金庾信は新羅の武烈王(金春秋)の腹心であり、もっとも近しい臣下である。
葛城王とともに内容を吟味すると、死亡した玄理に代わって新羅との窓口となるものは誰かと率直に聞くものだった。
「どうする」
葛城王に短く聞かれた鎌子は、
「私が金庾信と連絡を取ります」
「危険ではないか」
葛城王の懸念は唐での高向玄理の死因についてだった。実のところ玄理が死亡したという知らせは届いたが、死因については何も分かっていない。唐と倭の接触を妨害したい何ものかの意志が働いた可能性は否定できなかった。
「少々細工をしてみようかと思います」
葛城王は不思議そうに鎌子の顔を見て、やがてどこか面白がるような目で鎌子を見た。
「鎌子が細工をするのか。いったいどんな細工をするつもりだ」
「金庾信との通信に偽名を用います」
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――仲郎
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