白雉の微睡

葛西秋

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第四章 朝闇の深林

藤白坂の松枝

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  「内臣、わたしは何をすべきか」
 火急の報せだからと自ら大海人皇子の部屋へ出向いた鎌子に、大海人皇子は助言を求めてきた。

 葛城王ならば子麻呂に命じて直ちに兵を出すことができるが大海人皇子にその権限はない。

「軽率に動いてはなりません。蘇我赤兄の讒言が正しいのか確かめる必要があります。一つ間違えれば貴方が有間皇子様との共謀を疑われることにもなりかねません」
 大海人皇子の表情が明らかに強張るのを見て取り、鎌子は説明を加えた。
「貴方がこの謀には無関係であることは私が大王と葛城王に証言します。それよりも蘇我赤兄に有間皇子様を討つ兵を起こさせてはなりません。直ちに有間皇子様の身柄を王宮に移すよう、赤兄に御命じ下さい」
 大王に留守官を任じられている赤兄に鎌子の命令は通じない。王族による厳命が必要だった。
「分かった」
 頷く大海人皇子に鎌子は拱手して感謝した。駆けつけた官人にその後を頼むと鎌子は大海人皇子の部屋を出て急いで自分の執務室に向かった。

――駅馬を出して大王に報せを出さなくては。

 廻廊を小走りに進む鎌子の目にふと夜空にかかる月影が映り、鎌子は足を止めた。どうしても胸の内にわだかまっている疑念があった。

――まるで大王はこうなることを知っていたかのような。

 かたく目を閉じて月光の惑乱を断ち切った鎌子は、大王への使者に先駆けて葛城王に密使を送るべきだと判断した。ほんの少しの時間であっても明晰な葛城王ならば必要な判断ができるはずだ。
 駅馬ならば赤兄を抑えて鎌子が出すことができる。駅馬の指示は有間皇子の身柄を確保してから出せばいい。葛城王への密使を送り出すことができるのは有間皇子が王宮に来るまでの、その間隙の時間だった。

――密使が子麻呂の配下の武人では疑いを招く。文官であって王族に近く、かつ駅馬に追いつかれることなく馬を走らせることができる者は。

 鎌子は何人かの顔を次々に思い浮かべながら再び廻廊を早足で歩き始めた。その行く先の柱の後ろからふいに人影が現れた。警戒する鎌子の前、廻廊の明かりの中に姿を顕した女官は額田王だった。

――王族に覚え良く、馬術に秀でた文官。

 額田王は鎌子が知る限り密使に最も適した人物だった。
 鎌子は額田王に、
「付いてくるように」
と言葉少なに指示し、彼女を背後に連れて執務室に入った。

「額田王、至急葛城王への使いを頼みたい」
 鎌子の顔色から緊迫した事態を機敏に汲み取った額田王は、なにも聞かずに承諾した。
「直ぐに参りましょう。内臣様からの使いであると葛城王様にも暗に分かる証を何かを下さいませんか」
 鎌子は短い木簡に文字を記して額田王に手渡した。

――莫囂円隣之大相土兄爪謁

「神器を隣に置く宰相が御前に申し上げる、と」
 土兄爪は赤兄の字を解体したものだったが、鎌子はその意味を額田王に伝えなかった。
「七字と四字、でございましょうか」
 額田王は少しの間木簡をじっと見ていたが、おもむろに筆を取ると鎌子の書いた文字の後に書き加えた。

――莫囂円隣之大相土兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
(莫囂円隣之大相土兄爪謁氣 吾が背子がい立たせりけむ 巌樫が下)

「こうすれば歌を書き記したものに見せかけられます。誰かに訝しまれても、紀湯で明日、大王が催す宴に献上する歌を急いで届けに行くということにいたしましょう」
 鎌子は額田王の機転に感謝した。
「ではこれを必ず葛城王に届けるように。馬は佐伯子麻呂に手配させる」
 額田王は一礼し、衣の裾を軽やかに翻して部屋を出て行った。

 額田王と入れ違うように鎌子の執務室に入ってきたのは大海人皇子だった。
「有間皇子の身柄を王宮に移すよう赤兄に命じた」
「早速のお取り計らい、ありがとうございます」
 鎌子は大海人皇子に拱手したが、大海人皇子はその場を立ち去らずに留まり続けた。何か用事があるのかと思ったが、無言のままである。
「大海人皇子様、どうぞお休みください。後は夜が明けてから……」
 そこまで言いかけて、先ほど額田王がなぜああも都合よく現われたのか、鎌子はようやく察した。

 大海人皇子が額田王を自分の部屋に呼んでいたのだ。

「……大海人皇子様、宜しければ紀国境まで額田王を送って頂けないでしょうか。国境で必ずお戻りください」
 拱手したまま鎌子がそう大海人皇子に頼むと、鎌子が顔を上げる前に大海人皇子は額田王を追って部屋を出ていった。

 額田王が王宮を発ってからしばらくして、捕縛された有間皇子が王宮に連れて来られた。鎌子はその姿を確認してから斉明天皇へ事態を報告する駅馬を出した。
「有間皇子様の処置については報告を受けた大王の判断を待つ。大海人皇子様からの御命令だ。誰も、命じられていないことはしないように」
 鎌子は蘇我赤兄を含め、王宮に残っている者たちに厳命した。

 馬術に秀でる額田王は上手く馬を駆り、夜明け前に紀国の牟婁湯に到着した。葛城王は額田王から受け取った鎌子の暗号を読み解き、事態への対応をいち早く始めていた。

 だが。

「大王への反逆は最も重い罪。死罪だ」
 斉明天皇は昼前に着いた駅馬の知らせを受け取るとそう葛城王に命じた。
「大王、この件について吾に調べさせてください。場合によっては……」
「葛城王が取り調べを行うのは構わないが、有間皇子を死罪に処することに変わりはない。わたしはもうしばらく紀湯に留まるつもりだ。この牟婁湯の地も、飛鳥の地も、裏切り者の血で穢さぬよう十分に気をつけよ」
 斉明天皇はそれだけ言うと葛城王を下がらせた。

 十一月九日、飛鳥の王宮から牟婁湯へと連行された有間皇子は葛城王の尋問を受けた。

「何が、あった」
 そう尋ねる葛城王の前には憔悴している有間皇子の姿があった。大人しく従っているのは、既に逃れられない自分の運命を知っているからだ。
「六日前、蘇我赤兄がわたしの住む山崎離宮にやってきました」

 以前よりたびたび赤兄は山崎離宮に有間皇子を訪ねていたのだという。
 赤兄は有間皇子こそいずれ必ず王位に就かれる方だと大げさに褒め称えた。
 最初のうちは有間皇子も半信半疑だったが、度重なるうちにだんだんその気になってきた。

 そして事件が発覚した六日前のこと。
 赤兄は有間皇子の父である孝徳天皇が目をかけていた鹽屋鯯魚しおや このしろという者を山崎離宮に連れてきた。かつて盗みの罪で獄中に繋がれていた鹽屋鯯魚は、孝徳天皇が在位中に繰り返し出した恩赦の恩恵を受けて罪を許された経緯がある。
 鯯魚は孝徳天皇への忠誠を心に決めたらしいが、ねじ曲がった忠義心は赤兄に唆され、いとも簡単に葛城王への反感へと変化していた。

「鯯魚は大王が飛鳥を離れた今こそ兵の力を以て王宮を制圧し、本来は私が在るべき皇太子の座を大王に要求すべきだと」

 有間皇子の声は次第にか細く最後は立ち消えるような弱々しさだった。改めて自分の口から説明することで無謀な企みであったことを思い知ったのだろう。

 葛城王は有間皇子の証言を聞きながら、心の奥で痛ましさを覚えていた。
 有間皇子は十九歳、葛城王がその年齢の時は鎌子とともに新たな国造りを模索し始めた頃だった。鎌子とともに大陸の律令を学び、経典を読み、様々な文書を読んだ。

――吾には鎌子がいたが、有間には誰もいなかった。

 蘇我赤兄は無防備な有間皇子に近づき、唆して大海人皇子を襲わせ王宮を乗っ取ろうとした。赤兄の目論見はあまりにも杜撰だったが、有間皇子の周辺にその軽率を窘める者は皆無だった。

 大王と葛城王が飛鳥を発った後も王宮には佐伯子麻呂が兵士とともに残り、大海人皇子の側には鎌子が付いていた。破綻した計画が漏れることを危ぶみ、赤兄は有間皇子を裏切った。

「大王への謀叛を企んだものは、死罪だ」
 葛城王は地面に膝を付く有間皇子を見下ろし、そう告げた。有間皇子は額を地につけしばらく肩を震わせていたが、やがて顔を上げた。
「葛城王、私の衣の内に歌を記した木簡があります。貴方に預けますのでどうか山崎離宮に残る私の母に渡してください」
 有間皇子はそう言うと吹っ切れたようにその場に立ち上がった。有間皇子は手に縄を掛けられたまま大和と紀伊国の国境近くにある藤白坂まで連れて行かれ、その場で絞首刑となった。
 鹽屋鯯魚は飛鳥宮での反乱の手引きに加担した舎人とともに同じ場所で斬首された。
 
 有間皇子を処刑した後、葛城王は牟婁湯には戻らずその足で飛鳥に帰還した。
「蘇我がこれまで何度も繰り返してきた謀と変わるところがない」
 王宮で出迎えた鎌子に、葛城王は開口一番、吐き出すようにそう言った。

――磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む
(幸いがあれば 枝を結んだこの海岸の松の木を再び見ることができるだろう)

――家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
(自分の家であれば食器に盛り付ける飯を 旅路なので椎の葉に盛って食べている)

 鎌子が有間皇子が残した歌を詠みあげると、葛城王は片手で顔を覆った。

「古人大兄王の時と、同じだ」
 鎌子は木簡を卓に置き、葛城王の側に寄った。
「葛城王、貴方が心を痛める必要はありません。この度の事件を引き起こした赤兄には相応の対応をしましょう」
「だが大王は蘇我赤兄への処罰は認めなかった」
「処罰ではありません。任用を見送るのです」
「……左大臣の、あの件か」
 葛城王は顔を覆っていた手を下し、鎌子を見た。
「はい」

 翌年の一月、空いていた席を埋めるべく新たな左大臣が蘇我の一族から任命された。新たに左大臣となったのは蘇我の長者である赤兄ではなく、その弟である蘇我連子だった。
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