白雉の微睡

葛西秋

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最終章 白雉の微睡

歴戦の将軍

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 唐と新羅の連合軍による猛攻を凌いだ高句麗に、葛城王は倭国から使者を派遣した。使者は文官ではなく軍人である。高句麗への海路を良く知る阿曇野比羅夫が、阿倍比羅夫や上毛野稚子など有力な将軍の部下二千人ほどを連れて筑紫湊を発った。

「わたしも行きたいが、阿曇野殿に任せよう」
 海の戦に慣れていない上毛野稚子は残念そうにそう言いながら、腹心の部下に兵を付けて送り出した。
「上毛野殿、彼らの帰りを待つ間、海の戦を教えましょう」
 海に灼けた顔で稚子に話しかけたのは阿倍比羅夫だった。敦賀から日本海側の海岸線沿いに蝦夷との交戦を続けている阿倍比羅夫は船での戦いを知っている。一方で上毛野は広い平野で足の強い馬を多数養っている。騎馬による陸の戦いは稚子が得意とする戦だった。
「なに、こういう機会が無ければ我ら、顔を合わせることもないままだった。我らは蝦夷と戦う仲間だ、これを機に今後も協力できればと思ってな。海の戦を教える代わりに、上毛野殿に我が兵に馬の扱いを教えていただきたい」
 阿倍比羅夫の申し出に、自分の軍の力を純粋に高めたいという軍将の気概を見て取った上毛野稚子は快くそれを受け入れた。

 筑紫湊から高句麗へと向かう船を見送る葛城王はすでに素服ではなく、甲を付けた軍装である。従者に持たせた兜には白雉の尾羽が飾られていた。
「鎌子、今、兵を高句麗へ送っても果たして良かったのだろうか」
 葛城王の問いかけに鎌子は拱手して答えた。
「兵とはいっても様子見の使者に過ぎません。戦いが既に終わった地への派遣です。唐や新羅はそこまで見咎めることはないかと」
「そうだといいのだが」

 葛城王の懸念を宥めるように、三月の春の陽は筑紫の海を青く照らしていた。

 海に慣れた阿曇野比羅夫の軍が率いる船団は、百済が奪還した半島の南西部を経由して北上した。唐の蘇定方の水軍が進軍したのと同じ大同江から内陸に入ると、河岸には兵士の死体や壊れた船など戦争の跡が生々しく残っていた。上流に向かうにつれて戦闘の爪痕は凄惨さを増していく。
 高句麗王城である平壌城が見えてくると辺りには人の頭ほどの岩がごろごろと転がり、破壊された木造の兵器などが積み重なって放置されていた。牛馬の死体は肉が削がれ、頭蓋が破壊されて脳髄が取り出されている。片づけるためというより寒さをしのぐためだろう、あちらこちらに残骸を燃やした形跡があった。

 戦闘に慣れている敦賀や上毛野の兵士は多少眉を顰める程度だったが、大きな戦から離れて久しい駿河や美濃の兵士の顔は見るからに蒼褪めていった。やがて目前に迫った平壌城の高い石垣の城壁は、確かにその高さや長さの威容はあってもところどころが大きく損傷し崩れていた。

「高句麗のこの城壁を破壊したのはあれだ」
 冷静な声音で阿曇野比羅夫が指し示すその先には、唐軍が撤退する時に放置していった雲車や衝車の残骸があった。雲車は高い城壁を乗り越えるための兵器であり、衝車は城門を突き破るための兵器である。どちらも倭国では使われていない兵器だった。大きな岩を投擲したり、破壊力の強い大弓も使われた形跡があった。

 唐の総力による攻撃の実態を目の前に倭国の兵の中に緊張が強くなっていった。
 そしてこの緊張が思いもかけない事態を引き起こした。

 事件は阿曇野比羅夫が高句麗の将軍である淵蓋蘇文との意見交換を終え、平壌城を出た直後に起きた。倭国の兵士を乗せた船は大同江に並び出航を待っていたのだが、そこを何者かが突如襲撃したのである。

「新羅がまだ残っていたのか!」
 見送りに出ていた高句麗の役人の言葉どおり、それは高句麗の動向を見張るために潜んでいた新羅の軍だった。突如始まった戦闘だが、倭国の兵士の半数は戦に慣れた敦賀や上毛野の兵士だった。阿曇野比羅夫も水軍の指揮に慣れた軍人である。
 弓矢や刀の他、平壌城の中からも兵士が加わり兵器が次々に補充されていく。
 高句麗の軍に疲労が隠せないのと同様に、潜伏していた新羅の軍勢も万全の状態ではない。戦闘は長引かず終結し、結果として倭国の軍が新羅の兵を鎮圧した形になった。

「ありがたい。倭国の兵に礼をいう。これで新羅による諜報活動を抑えることができた。唐と新羅はそう簡単に高句麗へ再び進攻しようとは思わないでしょう」
 淵蓋蘇文の感謝の言葉に、阿曇野比羅夫は硬い表情を崩そうとはしなかった。

 高句麗から戻った阿曇野比羅夫の報告は、倭国の立場をより難しいものにした。
「あまりにもできすぎだ。我らを戦に巻き込むための淵蓋蘇文の陰謀ではないのかと疑っている」
 阿曇野比羅夫が語ったその言葉を、鎌子は葛城王に伝えた。
「やはり様子見だけというわけにはいかなかったか」
「葛城王、申し訳ありません。私の読みが甘すぎました」
 簡易な玉座に座る葛城王は、特に咎めることもなく鎌子の方を見た。
「良い。吾がいつまでも百済への対応を曖昧にしていたことが原因だ」
 だがその葛城王の判断のための材料を揃えるのが内臣である鎌子の役目でもある。押し黙って自責する鎌子の様子を見ていた葛城王は、
「それよりも鎌子、高句麗の城を攻めた唐の兵器だが」
 高さと堅固さを誇る高句麗の城壁を破壊する力を持つ唐の兵器が倭国に持ち込まれた場合、木組みの柵しか持たない倭国の官衙や王宮はひとたまりもない。
「……唐や新羅との戦いを避ける努力は続けますが、唐の攻撃に耐える新たな城柵をこの地に造る必要はあります」
「倭国の城柵の改良は、蝦夷と戦っていた阿倍比羅夫や上毛野稚子からも要請されていたことだ。彼らがこの地にいることを良い機会ととらえ、百済の工人と倭国の兵に新たな城造りを行わせよう。鎌子、どこにその城を作るべきだろうか」
 大きな失策の後にもまだ自分を信じて意見を求めてくる葛城王に、鎌子はその場に膝を付き叩頭した。姿勢を改めて立った鎌子は、以前に検討した大野山を葛城王に勧めた。
「大野山は筑紫湊を一望することができます。また頂上は平らかに広く、城を置くことが可能です」
「良し。では鎌子、そこに新たな城を作る計画を進めよ。それから百済と高句麗に対するこれまでの方針を変える必要がある」
 葛城王の口調には揺るぎない意志が明らかだった。
「倭国は、百済と高句麗を積極的に支援することにする。派兵も行う。百済と高句麗の復興を以って倭国の砦とする」

 高句麗に使者を派遣してから二か月後の五月。
 前年、百済の将軍鬼室副信が新羅から奪還し居城としていた周留城で、豊璋の百済王位就任の儀が行われた。豊璋の王位は葛城王の詔によって命じられ、ここに百済が倭国の支配下にあることが周辺の国々に明らかにされた。 
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