白雉の微睡

葛西秋

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最終章 白雉の微睡

百済の王城

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 豊璋の百済王就任を認める葛城王の詔を百済に届けたのは、倭国の武官である朴市秦田久津えち の はた の たくつ狭井檳榔さい あじまさだった。朴市秦田久津はかつて古人大兄王の近習だった。謀叛の疑いをかけられた古人大兄王が、死に臨んで葛城王に身上を託した数名の一人である。

 田久津と檳榔の倭の二人の武官は葛城王の詔を届けた後も百済の周留城スルじょうに留まり続けた。百済王が出席する軍議にも参加して積極的に意見を述べる一方で、彼らは百済の内情を倭国へと逐一報告することを任務としていた。

 周留城は百済復興の最大の功労者である鬼室副信の居城である。勇猛な将軍らしく、周留城は頑健な守りを特徴とする石造りの山城だった。

 豊璋が百済王の座に就いてから半年が過ぎた十二月、豊璋はこの周留城を出ると決意した。
「思うにこの城の近くには田畑が無く、このままでは民が飢えてしまう。より肥えた土壌が広がる避城ヒじょうに王宮を移そうと思う」
 豊璋の言葉を聞いても鬼室副信は黙り込んだままだった。その場には朴市秦田久津と狭井檳榔豊がいた。田久津は、
「お待ちください、百済王」
 そう豊璋を制した。
「避城は新羅の軍からの距離が近すぎます。民の飢えを心配なさる前に、再び新羅に滅ぼされてしまうでしょう。平地にある避城に比べ、この周留城の周りは深い渓谷になっていて敵の侵攻を防ぎます。道の狭い山林は少数で敵を撃つことができます。この地で守りを固くして勢力の回復を待つことが大事かと」
 軍事的に妥当な策であり、かつ真摯に百済のことを思っての田久津の諫言だったが、豊璋はこれを聞き入れようとせず、避城を新たな王都とした。

 田久津が百済王宮から急いで出した使者が筑紫湊の長津宮に着いたのは一昼夜後のことだった。
 百済王の言動や百済朝廷の内情がつぶさに記された田久津の報告は、葛城王の下に直ちに届けられた。鎌子は葛城王とともにその内容を吟味した。

「百済王は復興を急ぎ過ぎているのでしょう。倭国では近年戦らしい戦がほとんどありませんでした。百済が倭国と同じような状況だとおもっているのなら、この判断も頷けます」
 十代の少年だった頃に倭国に亡命した豊璋は、蘇我氏の庇護を受けて何不自由ない暮らしをしていた。蘇我蝦夷と入鹿の親子が葛城王に滅ぼされた後もその扱いは変わっていなかった。
「大きな戦を知らないのは吾も同じだ。唐の猛攻を受けた高句麗の王城の様子を聞くことが無かったら、吾もここまで危機感を持っていなかっただろう」
 葛城王は思慮深く木簡の文字を何度も読み返している。
「鎌子、田久津の意見を百済王は聞かなかったとのことだが、その場にいた百済の将軍、鬼室副信はなぜ何も言わなかったのだろう。周留城は彼の者の城だろう」
「百済の朝廷内でこのところ鬼室副信の立場が危うくなっているとのことです」
「彼の者こそが百済王室復興に最も力を尽くしているのに、か」
「はい。倭国の傀儡ではないか、高句麗の淵蓋蘇文のように王を弑して自分が権力を握ろうとしているのではないかとの噂が百済の朝廷内でささやかれているそうです。噂の根拠の一つは葛城王が鬼室副信に多くの品々を賜れたことだとのことです」

 百済の復興を強く鬼室副信は、斉明天皇の時代から何度も倭の王族に使者を送ってきていた。その度に矢や真綿、布、稲籾など復興のために必要とされるものを持たせて使者を帰したのだが、それがかえって他の百済の臣の反発を生んだのだという。

「百済王は鬼室副信の言葉に耳を貸さなくなっています。避城のことも元は副信の提案だったのですが百済王は聞かないだろうというので、田久津が代わって諫言したとのことです」
「王となったばかりでそのような有様とは。……鎌子、まさか百済が倭国を裏切ることはないだろうか」
「倭国を裏切れば百済は文字通りの孤立無援です。本来あり得ないことですが、今の百済王が今後どのような判断をするのか、注視する必要があります」
 鎌子の提言を聞き、葛城王は頷き木簡から目を離した。
「王になる器ではなかったか……」
 それは思わず葛城王が零した言葉だったが、鎌子は拱手してそれに応えた。

 冬の夜は更けて、二人がいる小さな部屋にともされた灯明がゆらゆらと床に壁に影を落としている。しばらく沈黙していた葛城王だが、やがてまた鎌子を見た。

「鎌子、新羅はどうなっている」
「新羅の朝廷は金庾信がほぼ全権を把握しているそうです」
 鎌子は新羅の金庾信と連絡を取り続けていた。先ほどの田久津の報告に付け加えた情報は新羅から漏らされたものである。
「そうか」
 葛城王は言外に鎌子と新羅との繋がりを認めた。

 新羅は先代の武烈王の時から唐と同盟を組んでいるとはいえ、時にその同盟は危うくなることもあった。新羅が半島を支配すれば必ず唐は新羅を攻める。明らかな行く末を見据えたまま、新羅はただ唯々諾々と唐に従っているわけにはいかなかったのだ。

 いつまでも抵抗する百済をどのように処するか、唐にどのように対峙するかのか。

 倭国と新羅の思惑は、まるで鏡面のように、あるいは背中合わせのように同調していた。

 ふう、と葛城王が息を吐いて肩から力を抜いた。昼日中よりもくだけた様子は鎌子の前でだけ見せるものだった。
「それにしてもこのような状態がいったい何年続くのか。何か状況を大きく動かす契機がないだろうか」
 鎌子は敷物から立ち上がり、いったん下げて置いた酒器を部屋の隅から持ってきた。葛城王に渡した盃に酒を満たして、自分の盃にも酒を注ぐ。
「長引けば長引くほど、唐は力を蓄えるでしょう」
「吾はまだ倭国の改新を行っている最中だ。いつまでも筑紫にいるわけにはいかない。……母上の御陵も作らなければらないのに」

 葛城王の表情に憂いの影を見た鎌子は、空いた葛城王の盃にまた酒を満たした。

「葛城王、百済と唐が直接対峙し、その裏で倭国は新羅と手を結び来るべき唐の攻撃に備えるのが双方に利があるかと思います」
 葛城王は口元に盃を運ぶ手を止めた。
「それは鎌子の考えか」
「私と金庾信が共有している認識です」
 葛城王は盃を下ろした。静かな冬の夜に筑紫の海の波濤が聞こえてくる。合間に灯明の油が燃える音を聞いた鎌子は立ち上がって灯明に油を注した。
「百済の支援は続けるが、鎌子、新羅との繋ぎも引き続き頼んだ」
 葛城王は先の鎌子の言葉には何も言わなかったが、否定で無ければそれは肯定だった。鎌子は葛城王の側に戻ってもとの敷物の上に座ると拱手して葛城王の命令を拝命した。  
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