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最終章 白雉の微睡
粛清の岩城
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斉明天皇が崩御し葛城王が称制を布いて一年目の十二月、倭の王族が飛鳥から筑紫の土地にやって来てから一年と半年が過ぎていた。
この年が終わる前に鵜野皇女は筑紫那津宮で大海人皇子の子を産んだ。姉である太田皇女は前年に太白媛を産んでいる。鵜野皇女が産んだのは大海人皇子にとって初めてとなる男子で、後に草壁皇子と呼ばれる王族になった。
王位を継承しうる有力な男児が王族に誕生したことによって、その年の正月はより喜ばしいものになった。
賀正礼は飛鳥の都や難波の王宮で執り行ったものに比べれば規模の小さいものだったが、これを機に鎌子は長津宮の近くに中臣の祖霊神である天児屋根命を祀る神社を建て、周辺の豪族に大和の祭祀の作法を伝えた。
一月が過ぎると上毛野稚子と阿倍比羅夫から鎌子に要請があった。
「雪が融ければ蝦夷が動き始める。それまでには我らは自分の領地に戻らなければならない」
任務に忠実な彼らの要請は鎌子を通じて葛城王に伝えられ、筑紫を離れる許可が与えられた。だが彼らが帰国の準備を始めた頃に半島で大きな動きがあった。
百済王が新たに定めた王都、避城近くにまで新羅が侵攻したのである。新羅軍は粛々と東進し、百済が取り戻していた城を改めて落とし、百済兵の数を確実に削ぎながら王都に近づいた。新羅軍の進軍を前にして百済王は避城を捨て再び周留城へと戻った。
突然の新羅の攻撃を受けた百済は倭国に援軍を求めた。
「葛城王、百済王の近くにいる田久津は倭国の主戦力となる援軍を求めています」
鎌子の報告を葛城王は慎重に聞いた。
「そう簡単に総力戦を行うわけにはいかない。鎌子、唐は今、何をしている」
「蘇定方の水軍は唐へ戻っていますが、避城と周留城の南にある熊津城に劉仁願と劉仁軌の二人の将軍を残しています。高句麗の出方を窺っているものかと」
「水軍はいないのか」
「はい、安曇野比羅夫からも海上に唐の船はなし、との報告が入っています」
葛城王はしばらく黙考した。提示すべき情報を葛城王に全て伝えた鎌子もそれ以上口を開かず、葛城王の判断を待った。
「……このまま倭国が百済とともに戦えば、唐の攻撃の矛先はいずれ倭国に向かう。鎌子、筑紫の防衛はどうなっている」
「大野城の山頂まで搬送路が開通しました。頂上の木々を払い、地面を均しています。終われば土塁を盛り石垣を作り始めます」
「まだ城としては形を成していないのか」
「はい。昼夜を徹して作業させていますが、兵を確保しなければならないため工事に割く人夫が足りていないのが現状です」
「そうか。ならばまだ百済には生き残ってもらわなければならないな。鎌子、百済に派兵する将は誰が良いと思う」
「上毛野稚子殿と阿倍比羅夫殿が良いかと思います」
「なぜそう思う」
葛城王の諮問に鎌子は拱手して答えた。
「遠い東国から兵を率いてやって来た彼らを戦の場で働かせること無く帰すことは、意味のない遠征を強いたことになります。今後の東国の統治に良くない影響を与えるでしょう。東国よりはるばるやって来た彼らに褒賞の機会を与えて下さい」
「褒賞」
それまで厳しかった葛城王の表情が緩む。
「鎌子、それでは上毛野稚子と阿倍比羅夫は必ず戦に勝つと、そう思っているんだな」
「唐の援軍無く新羅は総力戦を行いません。今回戦うのは周留城と避城の連絡路ならびに海への水路となる錦江周辺地域から新羅軍を掃討する局地戦です。蝦夷との戦いに慣れた二人ならば目的を達することができるでしょう」
葛城王は鎌子の説明を聞いて深く頷いた。
百済からの援軍の要請に対し、倭国は上毛野稚子と阿倍比羅夫、そして間人大蓋の三人の将軍が率いる二万七千人の兵を派遣した。
筑紫湊を発った倭国軍の船団は、次の日には錦江河口付近に着いた。
先陣の阿倍比羅夫が自身の水軍を巧みに操り海岸を攻略すると、次いで間人大蓋が率いる歩兵が上陸して錦江河口に陣地を確保した。
後陣の上毛野稚子は船に乗せた騎馬兵と百済から供給された馬を用いて一気に陸地内部に攻め込み、その後ろから比羅夫と間人大蓋の軍が波状的に攻撃を行うという組織的な進軍で、倭国軍は数日のうちに周留城と避城の周辺から新羅軍を撤退させた。
大した痛手もなく帰還した倭国の将軍たちは、葛城王によって大いに褒賞を受けた。
東国の将軍、上毛野稚子と阿倍比羅夫は互いを称え合った。
「稚子殿、敦賀に戻る前にともに戦えたことを嬉しく思う」
「こちらこそ。噂に聞いていた比羅夫殿の水軍の戦いぶりを間近で見ることができた」
「私は一足先に戻るが、今度は陸奥国のどこか、蝦夷との戦場で会おう」
阿倍比羅夫は上毛野稚子らと再会を期して敦賀へと戻っていったが、上毛野稚子は葛城王の強い要請を受けてもうしばらく筑紫に留まることになり、六月には再び半島に派遣されて新羅の城を二つ落城させた。
倭国の救援によって壊滅を免れた百済だが、内部では崩壊が始まっていた。
百済の将軍である鬼室副信が謀叛の疑いをかけられて捕縛されたのである。両掌に穿たれた穴に革ひもを通されて百済王の前に引き出された鬼室副信は、その場で首を斬られた。鬼室副信の首は塩と酢に漬けられ、罪人として衆目に晒された。
「百済は自壊を始めた。もはや百済の地にこだわっている場合ではない」
倭国と結びつきが強く百済王家の再興のために献身的にはたらいていた副信の死は、百済に対する不信感を募らせるものだった。
「鎌子、秦田久津と狭井檳榔を百済から引き揚げさせよ。このままでは彼ら倭国の臣もいつ殺されるか分からない」
「分かりました。次の使者で帰還の命を伝えます」
だが秦田久津と狭井檳榔はその命令に従わず、百済に留まり続けた。
副信が死んだ後の百済朝廷は乱れに乱れ、困った百済王は田久津と檳榔に留任を求めたのである。百済は王が自国の臣を使役できず、他国の武官に支配を依存するという末期の状態に陥ってた。
一方で筑紫湊の那珂津宮にいる葛城王と朝倉宮の大海人皇子の間にも顕著ではないが微細なわだかまりが生じつつあった。
久しぶりに朝倉宮へ使いとして出向いた鎌子は、那珂津宮に戻る途中、大野城の工事を見に来ていた葛城王と合流した。筑紫湾へと流れる御笠川のほとりからは大野山の山頂に巡らされている土塁が遠目に見える。土塁は山頂から麓へと延び、また麓から山頂へと延びる土塁ともう少しで繋がるところだった。
土を削り、搗き、固める作業を繰り返す人夫は以前より増えていたが、聞こえてくる言葉は倭の言葉ではない。人夫だけでなく工事の現場を指揮する者の多くが百済語を話していた。
先の副信の死は百済の人々を大きく動揺させ、副信の部下だった者や近しかった者達が次々と倭国へと亡命してきていた。その中には副信が誇った堅牢な城塞、周留城の工人も多く含まれていた。彼らを大野城の工事に使うことで工期が大幅に短縮され、またより新しい築城の技術を得ることが可能となっていた。
「朝倉宮はどうだった」
「鵜野皇女の御子は健やかにお育ちです。……大海人皇子様からは少々葛城王に苦言がありました」
葛城王は苦笑した。
「大海人は何を言っていた」
「臣に対してわざわざ同意を求めるのは止めた方が良いのではないか、と。倭の大王《おおきみ》の命に従うよう、もっと強硬に臣とは対するべきだと」
時に葛城王はまるで臣にへつらっているように見える、という大海人皇子の言葉は、鎌子は口にしなかった。
「そう葛城王に伝えるよう申し付けられました。自ら言えば角が立つからと」
「……これでも以前よりも西国の者達に命令が通りやすくなっているのだが。それに吾はまだ大王ではない」
葛城王の口調には自嘲が滲んでいた。
「大海人皇子様も葛城王に自分の見解が伝われば気が済む、ということでしたので、葛城王が気になさることはありません」
いつも通りに淡々と報告する鎌子に葛城王は心安い笑みを向けた。
「鎌子には苦労を掛ける。大海人と鵜野の子が大王を継ぐまで、鎌子にはぜひ見届けてほしいものだ」
葛城王はそう言って、傍らに立つ鎌子の手の甲に指を軽く触れた。
――貴方は大王になるつもりは、ないのですか
鎌子の胸の内に沸き上がった疑念は、葛城王の指に抑え込まれた。
この年が終わる前に鵜野皇女は筑紫那津宮で大海人皇子の子を産んだ。姉である太田皇女は前年に太白媛を産んでいる。鵜野皇女が産んだのは大海人皇子にとって初めてとなる男子で、後に草壁皇子と呼ばれる王族になった。
王位を継承しうる有力な男児が王族に誕生したことによって、その年の正月はより喜ばしいものになった。
賀正礼は飛鳥の都や難波の王宮で執り行ったものに比べれば規模の小さいものだったが、これを機に鎌子は長津宮の近くに中臣の祖霊神である天児屋根命を祀る神社を建て、周辺の豪族に大和の祭祀の作法を伝えた。
一月が過ぎると上毛野稚子と阿倍比羅夫から鎌子に要請があった。
「雪が融ければ蝦夷が動き始める。それまでには我らは自分の領地に戻らなければならない」
任務に忠実な彼らの要請は鎌子を通じて葛城王に伝えられ、筑紫を離れる許可が与えられた。だが彼らが帰国の準備を始めた頃に半島で大きな動きがあった。
百済王が新たに定めた王都、避城近くにまで新羅が侵攻したのである。新羅軍は粛々と東進し、百済が取り戻していた城を改めて落とし、百済兵の数を確実に削ぎながら王都に近づいた。新羅軍の進軍を前にして百済王は避城を捨て再び周留城へと戻った。
突然の新羅の攻撃を受けた百済は倭国に援軍を求めた。
「葛城王、百済王の近くにいる田久津は倭国の主戦力となる援軍を求めています」
鎌子の報告を葛城王は慎重に聞いた。
「そう簡単に総力戦を行うわけにはいかない。鎌子、唐は今、何をしている」
「蘇定方の水軍は唐へ戻っていますが、避城と周留城の南にある熊津城に劉仁願と劉仁軌の二人の将軍を残しています。高句麗の出方を窺っているものかと」
「水軍はいないのか」
「はい、安曇野比羅夫からも海上に唐の船はなし、との報告が入っています」
葛城王はしばらく黙考した。提示すべき情報を葛城王に全て伝えた鎌子もそれ以上口を開かず、葛城王の判断を待った。
「……このまま倭国が百済とともに戦えば、唐の攻撃の矛先はいずれ倭国に向かう。鎌子、筑紫の防衛はどうなっている」
「大野城の山頂まで搬送路が開通しました。頂上の木々を払い、地面を均しています。終われば土塁を盛り石垣を作り始めます」
「まだ城としては形を成していないのか」
「はい。昼夜を徹して作業させていますが、兵を確保しなければならないため工事に割く人夫が足りていないのが現状です」
「そうか。ならばまだ百済には生き残ってもらわなければならないな。鎌子、百済に派兵する将は誰が良いと思う」
「上毛野稚子殿と阿倍比羅夫殿が良いかと思います」
「なぜそう思う」
葛城王の諮問に鎌子は拱手して答えた。
「遠い東国から兵を率いてやって来た彼らを戦の場で働かせること無く帰すことは、意味のない遠征を強いたことになります。今後の東国の統治に良くない影響を与えるでしょう。東国よりはるばるやって来た彼らに褒賞の機会を与えて下さい」
「褒賞」
それまで厳しかった葛城王の表情が緩む。
「鎌子、それでは上毛野稚子と阿倍比羅夫は必ず戦に勝つと、そう思っているんだな」
「唐の援軍無く新羅は総力戦を行いません。今回戦うのは周留城と避城の連絡路ならびに海への水路となる錦江周辺地域から新羅軍を掃討する局地戦です。蝦夷との戦いに慣れた二人ならば目的を達することができるでしょう」
葛城王は鎌子の説明を聞いて深く頷いた。
百済からの援軍の要請に対し、倭国は上毛野稚子と阿倍比羅夫、そして間人大蓋の三人の将軍が率いる二万七千人の兵を派遣した。
筑紫湊を発った倭国軍の船団は、次の日には錦江河口付近に着いた。
先陣の阿倍比羅夫が自身の水軍を巧みに操り海岸を攻略すると、次いで間人大蓋が率いる歩兵が上陸して錦江河口に陣地を確保した。
後陣の上毛野稚子は船に乗せた騎馬兵と百済から供給された馬を用いて一気に陸地内部に攻め込み、その後ろから比羅夫と間人大蓋の軍が波状的に攻撃を行うという組織的な進軍で、倭国軍は数日のうちに周留城と避城の周辺から新羅軍を撤退させた。
大した痛手もなく帰還した倭国の将軍たちは、葛城王によって大いに褒賞を受けた。
東国の将軍、上毛野稚子と阿倍比羅夫は互いを称え合った。
「稚子殿、敦賀に戻る前にともに戦えたことを嬉しく思う」
「こちらこそ。噂に聞いていた比羅夫殿の水軍の戦いぶりを間近で見ることができた」
「私は一足先に戻るが、今度は陸奥国のどこか、蝦夷との戦場で会おう」
阿倍比羅夫は上毛野稚子らと再会を期して敦賀へと戻っていったが、上毛野稚子は葛城王の強い要請を受けてもうしばらく筑紫に留まることになり、六月には再び半島に派遣されて新羅の城を二つ落城させた。
倭国の救援によって壊滅を免れた百済だが、内部では崩壊が始まっていた。
百済の将軍である鬼室副信が謀叛の疑いをかけられて捕縛されたのである。両掌に穿たれた穴に革ひもを通されて百済王の前に引き出された鬼室副信は、その場で首を斬られた。鬼室副信の首は塩と酢に漬けられ、罪人として衆目に晒された。
「百済は自壊を始めた。もはや百済の地にこだわっている場合ではない」
倭国と結びつきが強く百済王家の再興のために献身的にはたらいていた副信の死は、百済に対する不信感を募らせるものだった。
「鎌子、秦田久津と狭井檳榔を百済から引き揚げさせよ。このままでは彼ら倭国の臣もいつ殺されるか分からない」
「分かりました。次の使者で帰還の命を伝えます」
だが秦田久津と狭井檳榔はその命令に従わず、百済に留まり続けた。
副信が死んだ後の百済朝廷は乱れに乱れ、困った百済王は田久津と檳榔に留任を求めたのである。百済は王が自国の臣を使役できず、他国の武官に支配を依存するという末期の状態に陥ってた。
一方で筑紫湊の那珂津宮にいる葛城王と朝倉宮の大海人皇子の間にも顕著ではないが微細なわだかまりが生じつつあった。
久しぶりに朝倉宮へ使いとして出向いた鎌子は、那珂津宮に戻る途中、大野城の工事を見に来ていた葛城王と合流した。筑紫湾へと流れる御笠川のほとりからは大野山の山頂に巡らされている土塁が遠目に見える。土塁は山頂から麓へと延び、また麓から山頂へと延びる土塁ともう少しで繋がるところだった。
土を削り、搗き、固める作業を繰り返す人夫は以前より増えていたが、聞こえてくる言葉は倭の言葉ではない。人夫だけでなく工事の現場を指揮する者の多くが百済語を話していた。
先の副信の死は百済の人々を大きく動揺させ、副信の部下だった者や近しかった者達が次々と倭国へと亡命してきていた。その中には副信が誇った堅牢な城塞、周留城の工人も多く含まれていた。彼らを大野城の工事に使うことで工期が大幅に短縮され、またより新しい築城の技術を得ることが可能となっていた。
「朝倉宮はどうだった」
「鵜野皇女の御子は健やかにお育ちです。……大海人皇子様からは少々葛城王に苦言がありました」
葛城王は苦笑した。
「大海人は何を言っていた」
「臣に対してわざわざ同意を求めるのは止めた方が良いのではないか、と。倭の大王《おおきみ》の命に従うよう、もっと強硬に臣とは対するべきだと」
時に葛城王はまるで臣にへつらっているように見える、という大海人皇子の言葉は、鎌子は口にしなかった。
「そう葛城王に伝えるよう申し付けられました。自ら言えば角が立つからと」
「……これでも以前よりも西国の者達に命令が通りやすくなっているのだが。それに吾はまだ大王ではない」
葛城王の口調には自嘲が滲んでいた。
「大海人皇子様も葛城王に自分の見解が伝われば気が済む、ということでしたので、葛城王が気になさることはありません」
いつも通りに淡々と報告する鎌子に葛城王は心安い笑みを向けた。
「鎌子には苦労を掛ける。大海人と鵜野の子が大王を継ぐまで、鎌子にはぜひ見届けてほしいものだ」
葛城王はそう言って、傍らに立つ鎌子の手の甲に指を軽く触れた。
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