白雉の微睡

葛西秋

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最終章 白雉の微睡

蒲生の薬猟

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  斉明天皇崩御のあと六年間の称制を続けた葛城王は、近江大津宮でようやく大王の位を継承し天智天皇となった。近江淡海(現・琵琶湖)の南端に築かれた王宮は難波宮の系統を受け継ぎ、唐の影響が色濃いものだった。

 建物の屋根こそ檜皮葺ひわだぶきであっても柱は鮮やかな朱色に塗られ、これだけは瓦葺かわらぶき築地塀ついじべいは表面も真白く外郭内郭を行き交う。王宮の入り口となる南大門は高い二層の建物で、門の前方に敷かれた石畳の坂道と階段は南大門をひと際大きく見せていた。

 王宮には淡海の水面に接している場所があり、そこには唐の庭園にあるような華やかな遊覧の船が数艘もやっている。淡海を渡る風が湖面を揺らすと、まるで船から溶け出たように鮮やかな色彩が辺りに広がっていく。白い雲に青い空を映して、近江大津宮はこれまでの倭国の王宮にはない華麗な水の王宮だった。

 王宮の中には飛鳥の木々を揺らす風の音に代わり、絶え間なく打ち寄せる小波の音が軽やかな音楽のように響く。鎌足は執務の部屋を天智天皇が政務を執る部屋の近くに与えられ、これまでと同じく天智天皇に政の提案をする内臣の役に就任した。

 鎌足の執務の部屋は王宮の内部にあるので外の様子は見えないが、中庭に面した窓からは内裏から正殿にやってくる天智天皇の姿を見ることができる。
 今日も卓の上に積み上がる木簡の山の向こうに天智天皇の姿を認めて、鎌足は部屋の戸を一足先に開けて天智天皇を迎え入れた。
「さて鎌足、倭国の律令の制定にようやく取り掛かることができるな」
「西国への国司派遣も済み、そろそろ各地の戸籍も出来上がるでしょう。国司には戸籍が出来上がり次第、すでに定められている口分田の大きさから調を算出するよう申し伝えてあります」
 鎌足は国司への命令を伝えた木簡の原本を天智天皇に差し出した。前もって天智天皇が目を通していた文書だが、改めて文字を拾い内容を確認するのは慎重な性質ゆえだった。文末に押された自分の印璽まで辿ると天智天皇は鎌足に木簡を返した。
「吾が筑紫に行っている間、政の改革はまったく進まなかった。これからは迅速に事を進めていかねばらない。存分に働いてもらうぞ、鎌足」
「戦において私は役に立ちませんでした。なのでこれからの大王の政には精一杯に力を尽くします」
 拱手する鎌足に天智天皇は以前と変わらない笑みを向けた。
「倭国への唐の侵攻なく戦を納めることができた。それで十分だ」
「唐との戦はこれからです。唐の政治の仕組みを取り入れながら、唐に利用されない倭国独自の決まり事を造り上げなければなりません。いくつかの政の改革に関しては大王が先日出された甲子こうしせんを拠り所に進むでしょう」
「その後の国を治めるための決まり事である令を定めようと思う。鎌足、吾の治世の間に出すりょうの編纂を頼みたい」
 鎌足は天智天皇と目を合わせ、頷いた。

 まだ二十歳の青年だった葛城王とともに始めた倭国の政治の改革は、二十二年過ぎた今、ようやく結実の時を迎えようとしていた。

 五月には、飛鳥でかつて行われていた薬猟を数年ぶりに再び催すことになった。とはいっても薬猟を行っていた飛鳥の藤原の地は近江大津宮からは遠い。新たな薬猟の場には王宮の対岸に広がる蒲生がもうが選ばれた。
 春の蒲生の原には大海人皇子をはじめとする王族が皆揃い、臣の他に百済の遺臣や倭国に残った唐の官人も参加した。大王の座に着いて気軽に歩き回ることのできなくなった天智天皇に代わり、鎌足は男性が鹿を狩っている場や女性たちが薬草を積む草原を行き来して様子を見て歩いた。

「鎌足、ちょうどいいわ、こっちに来て」
 辺りを憚ることなく鎌足を呼んだのは鵜野皇女うのおうじょだった。
「もう籠がいっぱいになってしまったわ。わたしはこれから額田王と一緒に薬草を摘むから、先にお父様にこちらを差し上げて」
 鵜野皇女は言葉通りに様々な薬草が積まれた手籠を鎌足に差し出した。
「お父様にはしばらく元気でいてもらわなくっちゃ。私の夫は皇太子だけれど、大王になるにはもう少し時間が必要そう」
 鵜野皇女は父である天智天皇にそっくりの仕草で鎌足を見上げた。
「鵜野皇女様、大王は時折自らの経験を貴方に伝えています。鵜野皇女様は大王から伝えられたことと自らの御経験をもって大海人皇子様をお支え下さい」
「鎌足、あなたもわたしたちを支えてくれるでしょう?」
「私は伝説の武内宿禰ではございません。とてもではありませんがそれまでに命が尽きます」
「それはそうね」
 悪びれることなく鵜野皇女は小首をかしげた。
「あなたの子はどうかしら」
「長子である常慶じょうけいは出家しており、次男の史人ふひとはいまだ十歳にもなりません」
「ならばその次男が成人するまで待ちましょう。ふひと、というのね。きっとわたしを助けてくれることでしょう。楽しみなこと」
 にっこりと笑んだ鵜野皇女には今は亡き斉明天皇の面影があった。斉明天皇の実の娘であった間人皇女よりも、孫娘である鵜野皇女に女帝の素質を鎌足は見て取り、確実に継承されている大王の血を思った。

 鎌足が女性の持ち物である手籠をもって戻ってくるのを見て、天智天皇は思わず笑い声をあげた。
「鎌足、なかなか似合うではないか」
「大王、こちらは鵜野皇女様からです」
「鵜野か。かなり集めたな」
 天智天皇は鎌子が差し出した籠の中を嬉しそうに見ながら、
「鹿狩りの方はどうだった」
「大海人皇子様が大鹿を仕留めています」
「そうか」
「それから乗馬に長けた者はいるのですが、馬の性質が良くないのか乗りこなせない者も目立ちました」
 天智天皇は笑みを消して鎌足を見た。
「馬の性質か。それは軍の強さにも関わってくる。なんらかの策をうたなければ」
 鎌足は天智天皇が心から楽しんでいる場に政に繋がる話を持ち出したことを後悔した。鎌足は蒲生の草原から目を離し考え事を始めようとする天智天皇に、
「大王、馬については私が考えておきます。どうぞ辺りをお歩きになって臣や百済の者にもお声をかけてください」
 そう云って手を差し伸べると、天智天皇は鎌足の気配りを察してその手を取り、座っていた椅子から立ちあがった。
「あとを頼む」
 天智天皇は鎌足に一言残し、従者や見物の臣たちを引き連れて足元の薬草を摘みながら草原の坂をゆっくりと下りていった。

 蒲生の薬猟の数日後に、鎌足は近江大津宮から飛鳥の藤原の地に向かった。
 馬をただ増やし育てるだけでなく、軍馬や伝馬として使える馬を選ばなければならない。そのためにはただやみくもに各地から馬を集めるのではなく、増やすべき馬の特徴、性質を国司に正しく伝え、それに適する馬を差し出させるほうが効率は良い。そのためにはまず基準となる馬を生産する必要があった。

 ――藤原の草原でこの国の紀範となる馬を作り全国の国司の元に送る。この国の馬はすべて大王のものであり、必ずその性質が優れていなければならない。

 それだけでは足りない。鎌足は中臣の一族から馬の飼育に携わるものを数名選び命じた。
「国司に馬を送った後も、この国をくまなく巡れ。大王に捧げる馬としてふさわしい馬が作られているか、また、中臣の祈祷で馬を祝い、その穢れを取り除け。大王を支える中臣の使命と心得て絶えず弛まずこの国を巡り馬を守り続けよ」

 七月になると高句麗が敦賀の海から使いを寄越した。半島の東の海を渡って来た高句麗の使いは、まず敦賀の湊に着き、峠を一つ越えて淡海に出ると船で大津宮にやってきた。この経路ならば高句麗は敵対する新羅を避けて倭国へ直接使者を送ることができる。
 また蒲生の広い平地での大規模な軍事訓練が可能となった。その訓練には百済の遺臣が多く参加していた。戦争のやり方を心得ている百済の武官は倭国の兵に組織的な戦い方を教えた。

 唐からは、鎌足の強い希望を受けて大弓の技術が伝えられた。
 当初、唐は大弓を倭国に伝えることに強い懸念を示していた。だが倭国が大弓を製造する技術を会得すれば、唐は武器を倭国から調達できることになる。倭国で新たに作られた大弓の高い品質を確認した唐は、大弓の操術に長けた技術者も倭国に派遣した。

 近江大津宮は、長らく都がおかれていた大和の地ではできなかったことをいくつも可能にするまったく新しい王都だった。

 新羅は変わらず筑紫を経由して倭国に使者を送ってくる。天智天皇の即位を祝う新羅王の貢物とともに、鎌足には新羅の高官である金庾信きん ゆしんからの私信も届けられた。

 ――これまでの親交を感謝する。かつて文武王が直接会われたことのある葛城王が倭国の新しい大王の座に就かれたことを心よりお祝いする。

 この時、新羅は唐の手が薄くなった熊津城ゆしんじょうを支配しようと企んでいた。倭国と友好関係を続けることが必須だったとはいえ、鎌足に宛てた手紙にはいつものように今は亡き文武王を慕う私情が滲んでいた。鎌足はこれも金庾信の手の内かと疑って見たが、結局これまでの書簡と同じように自分と天智天皇との関係を思い遣る相手の気持ちと受け取ることにした。

 天智天皇が新羅に船ごと返礼の品を送るのと同時に、鎌足もまた金庾信に新しい船を一艘、贈った。
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