白雉の微睡

葛西秋

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最終章 白雉の微睡

春山万花の宴

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  天智天皇が即位した年の十月、唐は高句麗を滅ぼし、ここに半島に残ったのは新羅のみとなった。

 高句麗滅亡の報せを遠く聞きながら、近江大津宮では歌詠みの宴が連日のように催されていた。宴席に連なるのは天皇や王族、倭国の臣だけではない。唐や百済の文化人が数多く招かれていた。
 宴が開かれているのは淡海の水面に張り出すように造られた優雅な建屋である。敷物に座る面々は華やかな衣をまとい冠に秋の花を挿している者もいる。
 管楽の音色と人々の笑いさざめく声が途切れたころを見計らい、鎌足は今日の宴の始まりを告げた。
「大王が春山に咲く花の艶と秋山に色づく紅葉の彩を競わせよ、と仰せです」
 鎌足が天智天皇から出された歌の題を皆に知らせると、額田王が前に進み出た。
 額田王は前の身分は女官だったが、今は鵜野皇女の強い薦めで大海人皇子の妃となっている。
「では一首、献上いたします」
 歌人としての額田王の実力を知る者たちは皆、歌が詠み上げられるのを待った。

 冬ごもり春さり来れば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉をば取りてそしのふ 青きをば置きてそ歎く そこし恨めし秋山われは

 額田王が朗々と詠み上げた歌は、対句を用いた漢詩の構造をしている。題意に沿った和歌でありながら漢詩でもある。皆、歌の風情だけでなく額田王の歌作りの巧みさに感心した。
「額田王のほかに誰かあるだろうか」
 鎌足の問い掛けに宴席の後方では忙しなく会話を交わす人影があった。

「柿本人麻呂はどこに行った。今日は歌を献ずるように申し付けていただろう」
 風体からすると大学寮の教官に就く人物のようだ。年若い学生が小声で応えている。
「人麻呂は先ほど女官とどこかに雲隠れしてしまいました」
「大王に歌の才を認めてもらう絶好の機会だと分かっているのか」

 そのちょっとした騒ぎは気づかれることなく、額田王の次に歌を披露する者が数人続いた。

 白村江の戦いの後、大陸の政治の仕組みや文化を伝えるために倭国に遣わされた唐の官人や、倭国に移住してきた百済の民が急激に増加した。
 頻繁に開かれる宴は彼らを倭国の宮廷になじませようという天智天皇の考えによるものだったが、堅苦しい儀礼を要するものではなく、漢詩や和歌を競い合う歌会が多かった。これには倭国の官人の識字率を向上させる目的もあった。

 宮廷の半分を渡来人が行き交う状況を反映し、天智天皇の皇子である大友皇子には百済の官人である沙宅紹明、塔本春初、吉太尚、許率母、木素貴子の五人が付き王族に必要な教育を行っている。

「内臣、父上を詠んだ詩を書いた」
 額田王の歌を天智天皇が直々に褒めたあと、鎌足に話し掛けてきたのはその大友皇子だった。
 今年、二十二歳となった大友皇子は昨年鎌足の娘を妃にしている。若い二人は互いに相性が良く、子が生まれるのも直ぐではないか、と天智天皇は嬉しそうに鎌足に語っていた。

皇明光日月 帝徳載天地 三才並泰昌 万國表臣義
――天の神である大王の光明は太陽や月と同じように光り輝き、天の帝である大王の徳はすべてを覆う天やすべてを載せる地と等しい。天地人は安泰で万國は臣下の礼を尽くす 

 大友皇子の歌は宴の最後に披露され、宴に並ぶ人々が唱和して天智天皇の治世を喜び言祝いだ。

 皆が華やかな宴を楽しんでいたが、歌詠みに加わらず数人の取り巻きと酒を飲む人物があった。皇太子という身分のため、気が進まない宴にも顔を出さねばならなかった大海人皇子である。大海人皇子は朝廷が急激に大陸の文化を取り入れていくことに反発を隠していなかった。
 天智天皇が宴から退席しようとしたその時、大海人皇子はやおら立ち上がると警備の兵が持っていた槍を取り上げ天智天皇の足元に音高く槍を突き立てた。

 宴席は静まり返り、天智天皇はさすがに怒りの表情をあらわにした。
 この国の頂点に立つ王族の兄弟同士がにらみ合い、周囲が固唾をのんでその様子を注視する中、鎌足は静かに天智天皇の前に進み出て床を貫いている槍を抜いた。
「大海人皇子様、余興をありがとうございます。けれど少々酒が過ぎてお足元が定まらないご様子、どうぞ大王の前にご退席くださいませ」
 鎌足が平静に告げると、近習が大海人皇子を宴席から速やかに退かせた。

「鎌足、あの大海人の振る舞いは罰さなくてはならない」
 歌会の余韻は掻き消され、宴席を下がった天智天皇はすぐに大海人皇子への処罰について鎌足に意見を求めた。
「はい、私もそのように思います」
「大王への反逆は死罪だが、大海人を罰したら王位継承者がいなくなってしまう」
 大友皇子は天智天皇の男子の長子だが、母は臣下の伊賀の采女である。王位継承権はない。
「大王、大海人皇子への対応を鵜野皇女に頼まれてはいかがでしょうか。賢明な鵜野皇女様ならば策を提示されるでしょう」
 鵜野皇女は天智天皇の娘であり、大海人皇子の妃である。それだけでなく大海人皇子が王位につけば皇后となることが決まっている。大海人皇子の処遇は鵜野皇女にとっても一大事であった。
「そうだな、それが良い」
 天智天皇は鎌足の言葉に深く頷いた。

 翌朝早く、大海人皇子への処罰が話し合われる前に鵜野皇女からの請願が届いた。
「夫には人との和を尊ぶ仏の教えを深く学ぶ時間が必要です。わたしが付き添い吉野に下がることをお許しください」
 天智天皇は鵜野皇女の願いを受け入れ、大海人皇子をしばらく近江から遠ざけることを許可した。だが大海人皇子は吉野に行く手前、飛鳥のかつての王宮に居場所を定めた。

 晴れた日に天智天皇は鎌足とともに淡海に船をだした。今が盛りの比叡山の紅葉を湖から楽しむため、という名目で密談をするためである。
「大王、大海人皇子様が近々反乱を起こすのではないかという噂が囁かれております」
 天智天皇には特に悩む様子も驚く様子もなかった。ただ鎌足にしか見せない倦怠の表情が微かに滲んでいる。
「別に構わない。大海人が王位に就きたいのなら譲ろう。母上が叔父上に譲位した前例があるから、どうにかなるのではないか。……だけど、鎌足はそれを良しとしないのだろう」
 天智天皇の口許に浮かぶやや寂しげな笑みを見て取り、鎌足は自分が何かひどい間違いをしているように感じた。

 天智天皇と二人きりで過ごす時間。話す内容は極秘とはいえ、新羅や唐を相手にしていた頃と比べれば平穏といっても良い。天智天皇がこの国を統べることで実現する平穏な日々は、かつての自分が強く望んでいたもののはずだ。

 ――彼方まで続く白い雪原を……

 視界の端を掠める白い幻想は、目の前に広がる淡海の水面に溶けていく。

「……王位の継承については、吾の皇后である倭姫にも権利がある。皇后は血の道を見ないまま成人の年齢となってしまった。母上は倭姫から事情を聴き取り、血の穢れが無いのならかえって好都合だ、神に仕える巫女の務めを果たせと吉野の竜神祭祀を命じた」
「先の大王が倭姫に後宮入りを強いなかったのは、それが理由でしたか」
 天智天皇と倭姫の間に子が生まれていれば紛れもなく王位継承権のある皇子である。だが倭姫は子を成すことができず、側室の子である大友皇子には正統な王位継承の資格はない。
 大海人皇子を苛立たせているのは、最近になって大友皇子が自分の身の上をわきまえずに王位継承権を要求し始めたことも大きい。
「大海人皇子と大友皇子の反目が強くなるようなら、倭姫を政務に就かせ吾の死のあとには王位を任せようかとも思う。……親の目から見ても大友皇子は王の器ではない」
「大王はまだ四十になったばかりです。どうか御自身の死後などとおっしゃらないでください。五十を過ぎた私はどうすればいいでしょう」
 天智天皇は鎌足に軽く笑みを向けて話題を変えた。
「近頃、大友皇子に蘇我赤兄が近づいていると聞いた。大丈夫だろうか。大友皇子が王位継承権を求めるようになったのは蘇我赤兄の入れ知恵ではないのか」
 天智天皇の危惧は鎌足も同様に感じていたものだった。
「今、築紫の太宰総領が欠員となっております。蘇我赤兄殿をその役に任じ、大友皇子様から遠ざけてはいかがでしょうか」
「そうしよう」

 揺蕩う船は湖面に白く雲を映している。天智天皇はしばらく波に千切れる雲の影を目で追った。

「蘇我、か。……鎌足は、いつも蘇我の誰かしらに入鹿の影を見ていたように思うが、違うか」
 思いがけない言葉に鎌足は思わず天智天皇の横顔を見た。
 鎌足が今も記憶の底に覚えている入鹿への親近感を天智天皇に見透かされているとは思っても見なかったのだ。
「入鹿は鎌足の友人だったのではないのか。かつて吾は入鹿を弑したが、誰よりも鎌足に申し訳ないと、これまでずっとそう思ってきた」
「……友人ではなく顔見知り程度でした」
 天智天皇は水面から目を離し、返答に窮する鎌足を静かに眺めた。
「入鹿だけではない。古人や有間を殺した吾の手は血に塗れている。今後、もしかしたら弟である大海人皇子か息子である大友皇子のいずれかを吾が自ら弑さなければならない事態が生じたらと思うと、この身の罪深さにぞっとする」
 天智天皇は言葉を震わせた。鎌足は自分一人の心の内にあった隠し事ともいえない些細な私情が天智天皇を苦しめていたことに始めて気づかされた。

「……大王、少しでも貴方の苦しみを取り除くために、中臣の祓の詞を奉じましょう」

 文字にすることが禁忌とされてきた口伝の祓の言葉。鎌足はかつて父の下で暗誦した人の罪や穢れを清める祓の詞を唱えた。

――科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く
朝の御霧、夕の御霧を、朝風夕風の吹き掃う事の如く
大津辺に居る大船を舳解き放ち、艫解き放ちて大海原に押し放つ事の如く
彼方の繁木が本を焼鎌の敏鎌以て打ち掃う事の如く……

 天智天皇は瞑目して祓の詞を聞いている。
 その天智天皇の姿を目にして、歴代の中臣は代々このようにして大王の祓を行ってきたのだと鎌足はようやく理解した。それはかつて斉明天皇が鎌足の父である御食子に行わせていたことでもあっただろう。

 この国の頂点にある大王の罪や苦しみの、その上に成り立つ中臣の存在。

――中臣だけが、私だけが、大王の苦しみを癒すことができる。

 そこにはどこか昏い悦びがあった。
 もしかしたら古くから倭の王族に仕えてきた中臣の者達が密やかに覚えていた感覚だったのかもしれない。
 それはこの国を、大王を、陰から操る中臣の呪いでもあった。
 鎌足が中臣の長であったなら、大王の穢れを祓う祓詞を門外不出として大王の権力と隠微に繋がり続けようとしたかもしれない。

 けれど古《いにしえ》の呪いは、鎌足が天智天皇とともに作り上げてきた新たな国の仕組みには必要がないものだった。律令の下では大王は絶対的な権力を以てこの国に君臨する存在であり、その権力は不可侵のものである。 

――大王の罪を清める祓を、中臣のものだけにしてはならない。

 鎌足は中臣と天皇を縛る祓の詞の呪力を断つため、中臣の祓を文字に記し公の記録とする決意を固めた。 
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