白雉の微睡

葛西秋

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最終章 白雉の微睡

藤原の大冠

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 天智天皇在位二年目の十月、鎌足は馬で自分の領地である山科に向かっていた。
 一ヶ月ほど前の季節の変わり目に、鎌足は風邪を引いて寝込んだ。長引いて回復までに半月程を要し、鎌足は自分がもう若くはないことを身に染みてわかった。

 鎌足は五十六歳となっていた。今取り組んでいる近江令を完成させて天智天皇に献上し政治の舞台からは引退する、という道筋が見えている。

――その後はゆっくりと仏典の研究をしたいものだ。

 その思いもあって領地の山科に寺院を建てた。山科寺と名付けられたその寺院の落成の時は天智天皇の行幸があった。

 大化改新で薄葬令が出されて以降、貴族や力のある豪族は領地内に大きな寺院を建てることが自らの地位を顕示する手段となっている。だが中臣の宗家は頑なに寺院の建立を拒んでいたので、鎌足が自らの領地に建てることになった。そのようなところからも中臣の宗家と鎌足との決裂は傍から見ても誤魔化せない状況にまでなっている。

――このところ金が蘇我赤兄と親密になり、大友皇子に近づいているのは懸念される

 今の中臣宗家の長は中臣金である。
 王権に忠実であるならば、皇太子である大海人皇子やその正妃である鵜野皇女にこそ忠誠を示すべきなのに、金は年若く経験も浅い大友皇子に取り入ろうとしている。
 王族の権力を利用しようとする金を苦々しく思う一方で、鎌足は金の行動が天智天皇の側に在り続ける自分への反発であることも分かっていた。

――それも私が引退すれば自然と解消されるだろう。あと二、三年のことだ

 近江令の完成は大王の権力を絶対的なものにする。
 王位の継承が貴族や有力豪族に左右されないために、天智天皇の憂慮を解くために。

――近江令の完成を急がなければならない

 鎌足は山科寺の金堂に安置された釈迦如来像を参詣した後さらに馬を西へと進め、摂津国の安威を目指した。

 先日、天智天皇の命によって各地に馬を養う牧を造ることが定められた。
 どのような馬を養うべきか、かねてから鎌足は安威に牧を作り、規範となる性質を持った馬を増やしてきた。急峻な斜面と豊かな水場がある安威の牧では期待通りの馬が作られ、各国に送り出す準備も整いつつあった。
 
 牧に置いた用人との話を終え、一通り周囲の見回りを終えた頃には日が西に傾き始めていた。
「鎌足様、今夜はこちらにお泊りになってはいかがでしょうか」
 鎌足は首を横に振り、安威の用人からの申し出を断った。
「都に戻る。日のあるうちに山科に着けば、近江の都までは明かりがなくても馬が憶えているだろう」
「それではそこまで何人か人を付けましょう。鎌足様は内臣なのに従者がこれだけとは、少々不用心です」
 用人が云う通り、鎌足は数名の従者を伴うのみだった。だが今日は私用でもあったので、王宮から衛士を連れ出すのには抵抗があった。
「馬を駆けさせれば大丈夫だろう」
 鎌足はこの申し出も断り、来た時と同じ人数のままで帰途についた。

 秋の陽が落ちる速度は思っていた以上で、再び山科に着いた頃には夕焼けの名残が西の空に微かに残る程度だった。鎌足は山科には留まらず、一息に近江淡海に続く坂道を登り始めた。
 坂の上からは眼下に淡海が広がるはずだった。
 月が出ていればその月の姿が、星が輝けばその光が淡海の水面に映るだろう。坂道を駆け下りれば近江大津宮の王宮はすぐそこだった。

――邸に戻る前に一度王宮に出向き、大王からの言伝がないか官人に尋ねてみよう。もしまだ大王が大殿にいるならば直接会いに……

 その時、木陰から突然人影が現われた。ばらばらと散る数人のうち丸木を抱えたものが鎌足たちの馬の足を強引に止める。

「仲郎、いや中臣鎌足。よくも百済を新羅に売ったな!」
 反撃も防御も間に合わず、馬を抑えるのに精いっぱいだった鎌足に襲いかかってきた者は手にした短刀で激しく切りつけてきた。身に着けた衣服には半島の特徴が見える。
「百済の、密偵か……!」
 それはかつて天智天皇が警戒していた暗殺能力に長けた百済の暗殺者の生き残りだった。
 自分の剣を抜く間もなく、ついに鎌足は後足立になる馬から地面に落ちた。体勢を立て直す前に背中に激痛が走り、からだ中から力が抜けていく。かろうじて肩越しに見えたのは自分の背の骨に深々と刺さっている短刀の柄だった。
 
 短刀の柄を赤く染めているのは地に落ちた松明の火か、自分の血か。
 見極めることすらできないまま鎌足の意識は急速に薄らいでいった。
 
 暗殺者は仕事を終えると暗闇に姿を消し、鎌足の従者たちは意識を失った鎌足を馬の背に乗せ、近江大津京の鎌足の邸に急いで運び込んだ。

 鎌足の意識が戻ったのは翌日の夕方だった。意識は戻っても回復ではなく、逃れられぬ死を迎える直前の仮初めの蘇生であることを、霞がかって一向に明瞭にならない思考や力の入らない体、そして鈍く体中を浸し続ける苦痛の感覚が伝えてきた。

 その苦痛の感覚さえ刻々と失われていく。
 死を覚悟した鎌足は、ただ近江令を完成できなかったことが心残りで悔しかった。
「百済人が、関わったことは絶対に……、このことは伏して……」
 鎌足が邸の家人に掠れた声で伝え終えると、ふいに人の気配が枕元に近づき、間近に声が聞こえた。
「鎌足、吾を置いて一人で逝くな!」
 鎌足の顔を覗きんだのは王宮にいる筈の天智天皇だった。
 天智天皇が何を言っているのか、鎌足にはすぐには聞き取れなかった。どんな表情をしているのかも霞んだ視界では見ることができない。けれど鎌足の一生を通じて仕え続けた、誰にも代えがたい、何よりも強く信奉してきた天智天皇がここにいることに鎌足の身の内は恍惚とした幸福に満たされた。

 一目会いたいと思っても叶えられない相手が、自ら自分の下に赴いてくれた。

――多少の心残りはあっても、最後の望みが叶えられたこの幸せの中で生を終えられるのなら

 からだはぴくりとも動かず、首を捩じることすらできない。ただ眼球だけはかろうじて天智天皇の声がする方に微かに滑り。

「お前がいなくなったら吾は、吾はどうすれば良いのだ。約束はどうなる。上野の雪原をともに馬で駆けようと約束した……!」

 天智天皇の目から溢れた涙が鎌足の頬に落ちた。
 全ての感覚は意識から切り離されつつあり、けれど涙の温度はそれだけが鮮やかに、強く、感じられた。

――彼方まで続く白い雪原を、どこまでも……

 あの約束を、この人はずっと憶えていたのか。
 天智天皇が、葛城王が、雉子が、叶えられるとずっと信じていた約束。

 王宮から連れ出してほしいと望んでいた雉子のその心を、けれど鎌足はこれまで一度も省みることはなかった。王位に就くことを望んでいなかった葛城王を大王の座に就くよう説得したのは鎌足自身ではなかったか。

 最前まで幸福に満たされていた鎌足の身の内は凍てつく罪悪感に色を変えた。

――ここまで長い間、ここまで近くにいたのに。いったい私はこの人の何を見てきたというのだろうか。

 鎌足の手を握りしめる天智天皇の両手は押し殺した慟哭に震えている。

 すべてのことが中途のままだった。近江令も、国造りも、神祇の体系も、何も成し遂げたものが無い。何よりも、いちばん大切な相手の望みを知ろうともせずに、それどころかただ自分の願望を押し付けただけだった。

――雉子は、私の望みをすべて叶えてくれたのに。

 どこから間違っていたのだろうか。

 近江に新たな都を移したとき
 斉明天皇に従い百済救援のため筑紫へと向かったとき
 孝徳天皇を一人残し難波の都を出て飛鳥に戻ったとき

 どこからならやり直せたのだろうか。

 蘇我入鹿を弑したとき
 飛鳥寺で片方の沓を手渡したとき
 雪の降る百済大井宮で約束を交わしたあのときの

 すべての後悔は、もはや取り返しがつかない。

 苦痛を伝える神経は既に機能を止めていたが、底のない絶望が死よりも黒く鎌足の意識を塗りつぶしていく。

――せめて、せめて何か、私が死んだ後も貴方の苦痛を、悲しみを取り除くことができるものを……

 部屋の壁際にある棚の上には数日前に書き上げた木簡が置かれているはず。そこに記されているのは。

「……中臣の祓の言葉を、貴方に奉じます」

 最後の力を振り絞りそれだけの言葉をいい終えた鎌足は、二度と目覚めることのない昏睡状態に落ちていった。

 天智天皇は生命の徴候を次々に手放していく鎌足の側から離れようとしなかった。
 天皇が死穢に直接触れるのは禁忌である。日が暮れ、夜が明けるまで一晩中鎌足の側にいた天智天皇は、大海人皇子の命令を受けた舎人によって力づくで鎌足の邸から連れ出された。

「兄上、中臣鎌足には慣例通り現在よりも上位の位を授けます。鎌足は既に臣の最高位にあることから、形式上の最上階である大織冠がこれに相当します」
 大海人皇子は急の報せを受けて飛鳥から近江に戻ってきたばかりだったが、死に臨む臣下へ冷静な判断を下した。
 憔悴著しい天智天皇は涙に枯れた声で大海人皇子に頼んだ。
「位のほかに鎌足には新たな姓として藤原の姓を与える。……ずっと鎌足は新たな姓を望んでいた。その望みを、叶えてやりたい」

 大海人皇子が天智天皇の意を受けて改めて中臣鎌足の邸に出向くと、鎌足の息は今まさに止まろうとしているところだった。

「内臣中臣鎌足、その功績を讃え大織冠の冠位と藤原の姓を与える」

 鎌足が死に臨んで最期に求めたのは仏の許しだったという。
 頭髪と髭を剃り落とした僧形で鎌足の遺体は山科寺に葬られることになった。
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