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第1話:光の君、雨夜の恋を攫(さら)う
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月は叢雲(むらくも)に隠れ、京の街は濡れたような闇に沈んでいた。
平安京の夜を支配するのは、もののけか、あるいは――この女か。
「……随分と、湿気た家(うち)ですこと」
漆塗りの牛車のなか、源輝子(みなもとのてるこ)は薄く唇を寄せて、扇で口元を隠した。
車輪が跳ね上げる泥の音すら、彼女の耳には退屈な雑音に過ぎない。供の女房たちが息を呑むなか、牛車は一軒の邸宅の前で止まった。
ターゲットは紀貫之。
紀氏という古き血筋を継ぎ、その和歌の才は「これからの京を担う」と囁かれる逸材。だが、所詮は家格の低い中級貴族だ。最近、彼はあろうことか「女が綴る文字には魂がない」などと、酒の席で嘯(うそぶ)いたという。
輝子にとって、それは十分すぎる「夜這い」の口実だった。
「貫之様、貫之様。光の宮様がお見えです」
女房が声をかけると、奥から慌てふためいた気配が伝わってきた。
やがて、直衣(のうし)を乱した青年が、行灯を手に縁側へ這い出してきた。整った顔立ちだが、その瞳には明らかな動揺が走っている。
「み、宮様……!? このような雨の夜に、なぜ……」
「なぜ、とは野暮な問いね。貴方の歌が、あまりに寂しげに風に乗って聞こえてきたから……慰めに寄ってあげたのよ」
輝子は牛車から降り、従者の差し出す傘も待たずに、しどけなく裾を引きずりながら彼へ歩み寄った。
灯火に照らされた輝子の顔――「光る君」の名に相応しい、人智を超えた美貌を間近に見て、貫之は言葉を失った。
輝子は、震える貫之の顎(あご)を扇の端でくいと持ち上げた。
「私の前でも、その達者な口で『女の歌には魂がない』と仰るのかしら?」
「そ、それは……酒の勢いで……」
「いいわ。言葉で語れないのなら、その身で教えなさい」
輝子は貫之の耳元に唇を寄せ、熱い吐息とともに、今夜の獲物を逃さない「決め台詞」を紡ぐ。
「今宵、貴方のその誇り高い魂に、私の名前を一生消えない墨で書き込んであげる。――泣いて乞うても、離してあげないわよ?」
貫之の手に持っていた行灯が、床に落ちて消えた。
完全な闇のなか、彼が最後に見たのは、勝利を確信した美しき暴君の、妖艶な微笑みだった。
翌朝、京の空は昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。
紀貫之は、自分の屋敷の寝所で一人、呆然と天井を見上げていた。
肌に残る白檀の香りと、薄衣が擦れるかすかな音。それだけが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを告げている。
「……私は、何を」
「女の歌など」と豪語していたはずの自分が、名もなき端女(はしため)のように震え、ただ彼女の美しさと強引さに翻弄された。その屈辱に顔を赤らめるべきなのに、貫之の心にあるのは、得体の知れない喪失感だった。
そこへ、輝子の使者である幼い童(わらわ)が、仰々しく結ばれた一通の文を運んできた。
薄紫の紙には、露に濡れたばかりの萩の枝が添えられている。
貫之は震える指で封を切った。そこには、昨夜の覇気とは打って変わった、あまりに繊細で、それでいて鋭い筆跡で一首の歌が記されていた。
『うちぬるに 夢路でさえも 追いくれば 現(うつつ)の君は いずこへか行く』
(眠りにつけば夢のなかまで貴方を追いかけてしまうのに、目覚めた今の貴方は、一体どこへ消えてしまったの?)
「…………っ」
貫之は息を呑んだ。
これは、恋に悩む乙女が詠むような、あまりに可憐な「甘い罠」だ。昨夜、自分を力ずくで組み伏せたあの女が、文の上ではこんなにも儚げに自分を求めている。
筆の運び、墨の濃淡、そして選ばれた言葉の響き。
すべてが完璧だった。歌のプロであるはずの自分が、返歌の一文字すら思い浮かばないほどに。
「返事を、書かねば……」
だが、硯(すずり)に向かう貫之の手は止まらない。
彼女の残り香を追いかけるように、何度も何度も、輝子の名を心の中で繰り返してしまう。
一方、六条院・輝子の居所。
源輝子は、豪奢な御簾(みす)の奥で、運ばれてきた朝粥を面倒そうに眺めていた。
「宮様、貫之様から返歌が届きました。……随分と、墨の跡が乱れておりますが」
控えていた女房が、くすくすと笑いながら文を差し出す。
輝子はそれを受け取ることすらせず、横目で一瞥しただけで切り捨てた。
「ふん……。必死に理屈をこねて、自分のプライドを守ろうとしているのが見えるわ。つまらない男」
「では、もう飽きられましたか?」
「いいえ。あの男は『言葉』を愛している。だから、その言葉で徹底的に絶望させてあげるの。私なしでは、もう一首の歌も詠めない体にね」
輝子が扇を広げ、優雅に顔を隠したその時。
庭の向こうから、軽やかな、それでいて挑戦的な笑い声が響いた。
「あらあら、朝っぱらから毒が強いこと。輝子様」
御簾の隙間から滑り込むように現れたのは、真っ赤な裳(も)を鮮やかに翻した美女――在原業子(ありわらのなりこ)だった。
彼女の手には、輝子が貫之に贈ったものとはまた違う、洗練された趣の文が握られている。
「その紀氏の小僧、私なら三日で飽きさせて、次は誰を泣かせるか相談に来たのだけれど?」
京を代表する二大巨頭、源氏と業平。
男たちの運命を弄ぶ二人の「女王」が、いま、火花を散らして見つめ合った。
平安京の夜を支配するのは、もののけか、あるいは――この女か。
「……随分と、湿気た家(うち)ですこと」
漆塗りの牛車のなか、源輝子(みなもとのてるこ)は薄く唇を寄せて、扇で口元を隠した。
車輪が跳ね上げる泥の音すら、彼女の耳には退屈な雑音に過ぎない。供の女房たちが息を呑むなか、牛車は一軒の邸宅の前で止まった。
ターゲットは紀貫之。
紀氏という古き血筋を継ぎ、その和歌の才は「これからの京を担う」と囁かれる逸材。だが、所詮は家格の低い中級貴族だ。最近、彼はあろうことか「女が綴る文字には魂がない」などと、酒の席で嘯(うそぶ)いたという。
輝子にとって、それは十分すぎる「夜這い」の口実だった。
「貫之様、貫之様。光の宮様がお見えです」
女房が声をかけると、奥から慌てふためいた気配が伝わってきた。
やがて、直衣(のうし)を乱した青年が、行灯を手に縁側へ這い出してきた。整った顔立ちだが、その瞳には明らかな動揺が走っている。
「み、宮様……!? このような雨の夜に、なぜ……」
「なぜ、とは野暮な問いね。貴方の歌が、あまりに寂しげに風に乗って聞こえてきたから……慰めに寄ってあげたのよ」
輝子は牛車から降り、従者の差し出す傘も待たずに、しどけなく裾を引きずりながら彼へ歩み寄った。
灯火に照らされた輝子の顔――「光る君」の名に相応しい、人智を超えた美貌を間近に見て、貫之は言葉を失った。
輝子は、震える貫之の顎(あご)を扇の端でくいと持ち上げた。
「私の前でも、その達者な口で『女の歌には魂がない』と仰るのかしら?」
「そ、それは……酒の勢いで……」
「いいわ。言葉で語れないのなら、その身で教えなさい」
輝子は貫之の耳元に唇を寄せ、熱い吐息とともに、今夜の獲物を逃さない「決め台詞」を紡ぐ。
「今宵、貴方のその誇り高い魂に、私の名前を一生消えない墨で書き込んであげる。――泣いて乞うても、離してあげないわよ?」
貫之の手に持っていた行灯が、床に落ちて消えた。
完全な闇のなか、彼が最後に見たのは、勝利を確信した美しき暴君の、妖艶な微笑みだった。
翌朝、京の空は昨夜の雨が嘘のように晴れ渡っていた。
紀貫之は、自分の屋敷の寝所で一人、呆然と天井を見上げていた。
肌に残る白檀の香りと、薄衣が擦れるかすかな音。それだけが、昨夜の出来事が夢ではなかったことを告げている。
「……私は、何を」
「女の歌など」と豪語していたはずの自分が、名もなき端女(はしため)のように震え、ただ彼女の美しさと強引さに翻弄された。その屈辱に顔を赤らめるべきなのに、貫之の心にあるのは、得体の知れない喪失感だった。
そこへ、輝子の使者である幼い童(わらわ)が、仰々しく結ばれた一通の文を運んできた。
薄紫の紙には、露に濡れたばかりの萩の枝が添えられている。
貫之は震える指で封を切った。そこには、昨夜の覇気とは打って変わった、あまりに繊細で、それでいて鋭い筆跡で一首の歌が記されていた。
『うちぬるに 夢路でさえも 追いくれば 現(うつつ)の君は いずこへか行く』
(眠りにつけば夢のなかまで貴方を追いかけてしまうのに、目覚めた今の貴方は、一体どこへ消えてしまったの?)
「…………っ」
貫之は息を呑んだ。
これは、恋に悩む乙女が詠むような、あまりに可憐な「甘い罠」だ。昨夜、自分を力ずくで組み伏せたあの女が、文の上ではこんなにも儚げに自分を求めている。
筆の運び、墨の濃淡、そして選ばれた言葉の響き。
すべてが完璧だった。歌のプロであるはずの自分が、返歌の一文字すら思い浮かばないほどに。
「返事を、書かねば……」
だが、硯(すずり)に向かう貫之の手は止まらない。
彼女の残り香を追いかけるように、何度も何度も、輝子の名を心の中で繰り返してしまう。
一方、六条院・輝子の居所。
源輝子は、豪奢な御簾(みす)の奥で、運ばれてきた朝粥を面倒そうに眺めていた。
「宮様、貫之様から返歌が届きました。……随分と、墨の跡が乱れておりますが」
控えていた女房が、くすくすと笑いながら文を差し出す。
輝子はそれを受け取ることすらせず、横目で一瞥しただけで切り捨てた。
「ふん……。必死に理屈をこねて、自分のプライドを守ろうとしているのが見えるわ。つまらない男」
「では、もう飽きられましたか?」
「いいえ。あの男は『言葉』を愛している。だから、その言葉で徹底的に絶望させてあげるの。私なしでは、もう一首の歌も詠めない体にね」
輝子が扇を広げ、優雅に顔を隠したその時。
庭の向こうから、軽やかな、それでいて挑戦的な笑い声が響いた。
「あらあら、朝っぱらから毒が強いこと。輝子様」
御簾の隙間から滑り込むように現れたのは、真っ赤な裳(も)を鮮やかに翻した美女――在原業子(ありわらのなりこ)だった。
彼女の手には、輝子が貫之に贈ったものとはまた違う、洗練された趣の文が握られている。
「その紀氏の小僧、私なら三日で飽きさせて、次は誰を泣かせるか相談に来たのだけれど?」
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