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そこにいるのは羅臼だけだった。
安倍之瀬イエスはどこにもいなかった。
「なんで魔法少女みたいな格好をしてるんですか?」
イルマは彼女にそう訊ねた。
似合ってますけどとか、かわいいですねとは言わなかった。
「正義の味方だからだよ?」
羅臼はそう答えて、フフンと誇らしげにした。
会うのは2ヶ月ぶりだろうか。
本当にかわいらしい人だった。
その瞳はきらきらと輝いていて、つい先ほど見た「一切の希望を捨てよ」という『地獄の門』の銘文とは真逆の存在に見えた。
「正義の味方?」
「そうだよ、正義の味方。イルマくんはもう、わたしたちの目的は知ってるんだよね?」
「ぼくや姉さんのような『ラプラスの悪魔もどき』の『神の目』と『脳』を集めて、この国や世界を支配するんでしょ?」
「そうだよ。ねぇイルマくんは、秦の始皇帝のことは知ってる?」
「キン○ダムとか終末のワ○キューレに出てきた人でしょ?」
「そう、三国志よりも前の時代、紀元前に中国ではじめて中華統一を果たした人」
「晩年に不老不死を求めた人だったよね。水銀入りの薬を飲んで死んじゃったんだっけ?」
「そうだね。でもだからって始皇帝はお馬鹿さんじゃなかったんだよ」
羅臼はイルマに語った。
現代と地続きの世界でありながら、その時代に生きていた人々と現代人とでは世界観が全く異なっていたことをだった。
まず前提として、秦の時代には当然現代医学はない。化学もない。毒性の体系的理解もなかったこと。
その代わりにあったのは、陰陽五行思想、方士(ほうし)の学問、仙人信仰だったこと。
方士とは、科学者であり祈祷師であり医者であり錬金術師であり占い師 であり仙人研究者でもある人たちのことであること。
現代のように分業制がまだ無い時代であり、「世界の不思議を解き明かす専門家」としての役割を一手に引き受けていたのが方士だったこと。
彼らにとって「水銀(=辰砂(しんしゃ))」は、金属なのに液体であるという不思議な物質であり、腐ることはなく常に変化する霊物であり、天と地をつなぐ「不老の物質」という位置づけだった。
毒ではなく、むしろ神聖な物質だった。
そして、始皇帝の精神状態はあまりに特殊すぎた。
始皇帝は、史上初の中華統一、法も文字も度量衡(どりょうこう)も道路も統一した。
度量衡とは、長さ(度)、体積(量)、重さ(衡)といった物理量を測るための単位、基準、およびそれらを測る器具(度量衡器)全般だ。
そして、反乱や暗殺未遂、裏切りを無数に経験するという人生を送っていた。
常人ならとっくに心が壊れている状況だろう。
晩年の始皇帝は、この世界のすべてを支配したが、たった一つ支配できないものがあるという境地に立たされていた。
この瞬間から、彼の中で死こそが最後の敵になったのだ。
そこに現れたのが、方士たちだった。
彼らは東海の蓬莱山、仙人の住む島、不老不死の霊薬の存在を始皇帝に語った。
東海とは日本海のことではなく東シナ海のことだ。
当時は日本列島はその存在すら認識されていなかったという。
現実と異界の境目が「東海」であり、そこに蓬莱という「不老不死の世界」が浮かんでいる。そういう認識だったそうだ。
始皇帝は成功体験の塊であったから、「不可能だと言われた統一も成し遂げた。ならば不死もいけるだろう」という理論に行き着いてしまった。
現代では、誰もが水銀の危険性を知っている。
だが当時の知識では、水銀によって微量でも具合が悪くなることは「好転反応」ーー体が悪い状態から良い状態へ回復する過程で一時的に現れる不調であり、体が熱くなることは「仙薬が効いている」ことを示し、幻覚や情緒不安定に陥ることは「霊界に近づいている」という解釈だった。
現代ならば完全に中毒症状だが、当時は「効いている証拠」だった。
始皇帝はけっして迷信深い馬鹿ではなかった。
科学が未発達であり、思想は宗教的であり、自分の人生は「奇跡の連続」、これだけの条件がそろうと理性的な人ほど不老不死に合理性を感じてしまうのだ。
むしろ、頭が良すぎたからこそ嵌まってしまった罠といったところだった。罠に嵌めたのは方士たちではなく、世界そのものだった。
「秦の始皇帝は本当にすごい人なの。秦みたいな国内統治と法制度とインフラ整備を伴う統一国家を作った人ってすごく稀なんだよ」
突然そんな話をされて、イルマは戸惑った。彼女が一体何の話をしているのかわからなかった。
「マケドニアのアレクサンドロス大王は、ギリシャ都市国家を統合した後、ペルシア帝国を征服して、インド北西部まで遠征、巨大な帝国を築いたけど、彼は征服地が広いだけで中央集権的な統治は弱かったんだよね。フランク王国のカール大帝は、」
「西ヨーロッパの大部分を統一し、神聖ローマ帝国の前身となる帝国を築いた。ヨーロッパでは中世最大級の統一国家の一つだね」
何の話をしているのかはわからなくても、『神の目』の視界にその情報は声の振動に合わせてまるで波にねも乗るように映る。だから話を合わせることはできた。
「フランスのナポレオン・ボナパルトは、フランス国内を統一した後、ヨーロッパ大陸の大部分を征服・支配下に置いた」
「でも、彼も長期的に維持できたわけではなかった」
「そうだね。さすがは『神の目』だね」
「ぼくが世界史に詳しいとは思わないんだね」
「え? だって『神の目』に流れてくる文章を読み上げてるだけでしょ? AIと喋ってるか、ウィキペディアを読んでるみたいなんだもん」
自分の知識から出てくる言葉でなければ、そういう風になってしまうということは知っていた。
だが、それは羅臼も同じだった。
「アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、メソポタミアからエジプト、インダス川流域まで広大な地域を統一して、多民族帝国の運営を行った。ムガル帝国のアクバル帝は、インド亜大陸北部・中部を統一し、多宗教・多民族の中央集権的支配を確立した。アイユーブ朝の創始者サラディンは、」
「エジプト・シリアなどを統一して十字軍に対抗した。軍事的・政治的統一を成し遂げたけど、この人も秦の始皇帝ほど中央集権は強くなかった」
ふたりとも、互いの台詞の意味をよくわかっていないということは、言葉に乗る熱量が同じだったからわかった。
安倍之瀬イエスはどこにもいなかった。
「なんで魔法少女みたいな格好をしてるんですか?」
イルマは彼女にそう訊ねた。
似合ってますけどとか、かわいいですねとは言わなかった。
「正義の味方だからだよ?」
羅臼はそう答えて、フフンと誇らしげにした。
会うのは2ヶ月ぶりだろうか。
本当にかわいらしい人だった。
その瞳はきらきらと輝いていて、つい先ほど見た「一切の希望を捨てよ」という『地獄の門』の銘文とは真逆の存在に見えた。
「正義の味方?」
「そうだよ、正義の味方。イルマくんはもう、わたしたちの目的は知ってるんだよね?」
「ぼくや姉さんのような『ラプラスの悪魔もどき』の『神の目』と『脳』を集めて、この国や世界を支配するんでしょ?」
「そうだよ。ねぇイルマくんは、秦の始皇帝のことは知ってる?」
「キン○ダムとか終末のワ○キューレに出てきた人でしょ?」
「そう、三国志よりも前の時代、紀元前に中国ではじめて中華統一を果たした人」
「晩年に不老不死を求めた人だったよね。水銀入りの薬を飲んで死んじゃったんだっけ?」
「そうだね。でもだからって始皇帝はお馬鹿さんじゃなかったんだよ」
羅臼はイルマに語った。
現代と地続きの世界でありながら、その時代に生きていた人々と現代人とでは世界観が全く異なっていたことをだった。
まず前提として、秦の時代には当然現代医学はない。化学もない。毒性の体系的理解もなかったこと。
その代わりにあったのは、陰陽五行思想、方士(ほうし)の学問、仙人信仰だったこと。
方士とは、科学者であり祈祷師であり医者であり錬金術師であり占い師 であり仙人研究者でもある人たちのことであること。
現代のように分業制がまだ無い時代であり、「世界の不思議を解き明かす専門家」としての役割を一手に引き受けていたのが方士だったこと。
彼らにとって「水銀(=辰砂(しんしゃ))」は、金属なのに液体であるという不思議な物質であり、腐ることはなく常に変化する霊物であり、天と地をつなぐ「不老の物質」という位置づけだった。
毒ではなく、むしろ神聖な物質だった。
そして、始皇帝の精神状態はあまりに特殊すぎた。
始皇帝は、史上初の中華統一、法も文字も度量衡(どりょうこう)も道路も統一した。
度量衡とは、長さ(度)、体積(量)、重さ(衡)といった物理量を測るための単位、基準、およびそれらを測る器具(度量衡器)全般だ。
そして、反乱や暗殺未遂、裏切りを無数に経験するという人生を送っていた。
常人ならとっくに心が壊れている状況だろう。
晩年の始皇帝は、この世界のすべてを支配したが、たった一つ支配できないものがあるという境地に立たされていた。
この瞬間から、彼の中で死こそが最後の敵になったのだ。
そこに現れたのが、方士たちだった。
彼らは東海の蓬莱山、仙人の住む島、不老不死の霊薬の存在を始皇帝に語った。
東海とは日本海のことではなく東シナ海のことだ。
当時は日本列島はその存在すら認識されていなかったという。
現実と異界の境目が「東海」であり、そこに蓬莱という「不老不死の世界」が浮かんでいる。そういう認識だったそうだ。
始皇帝は成功体験の塊であったから、「不可能だと言われた統一も成し遂げた。ならば不死もいけるだろう」という理論に行き着いてしまった。
現代では、誰もが水銀の危険性を知っている。
だが当時の知識では、水銀によって微量でも具合が悪くなることは「好転反応」ーー体が悪い状態から良い状態へ回復する過程で一時的に現れる不調であり、体が熱くなることは「仙薬が効いている」ことを示し、幻覚や情緒不安定に陥ることは「霊界に近づいている」という解釈だった。
現代ならば完全に中毒症状だが、当時は「効いている証拠」だった。
始皇帝はけっして迷信深い馬鹿ではなかった。
科学が未発達であり、思想は宗教的であり、自分の人生は「奇跡の連続」、これだけの条件がそろうと理性的な人ほど不老不死に合理性を感じてしまうのだ。
むしろ、頭が良すぎたからこそ嵌まってしまった罠といったところだった。罠に嵌めたのは方士たちではなく、世界そのものだった。
「秦の始皇帝は本当にすごい人なの。秦みたいな国内統治と法制度とインフラ整備を伴う統一国家を作った人ってすごく稀なんだよ」
突然そんな話をされて、イルマは戸惑った。彼女が一体何の話をしているのかわからなかった。
「マケドニアのアレクサンドロス大王は、ギリシャ都市国家を統合した後、ペルシア帝国を征服して、インド北西部まで遠征、巨大な帝国を築いたけど、彼は征服地が広いだけで中央集権的な統治は弱かったんだよね。フランク王国のカール大帝は、」
「西ヨーロッパの大部分を統一し、神聖ローマ帝国の前身となる帝国を築いた。ヨーロッパでは中世最大級の統一国家の一つだね」
何の話をしているのかはわからなくても、『神の目』の視界にその情報は声の振動に合わせてまるで波にねも乗るように映る。だから話を合わせることはできた。
「フランスのナポレオン・ボナパルトは、フランス国内を統一した後、ヨーロッパ大陸の大部分を征服・支配下に置いた」
「でも、彼も長期的に維持できたわけではなかった」
「そうだね。さすがは『神の目』だね」
「ぼくが世界史に詳しいとは思わないんだね」
「え? だって『神の目』に流れてくる文章を読み上げてるだけでしょ? AIと喋ってるか、ウィキペディアを読んでるみたいなんだもん」
自分の知識から出てくる言葉でなければ、そういう風になってしまうということは知っていた。
だが、それは羅臼も同じだった。
「アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、メソポタミアからエジプト、インダス川流域まで広大な地域を統一して、多民族帝国の運営を行った。ムガル帝国のアクバル帝は、インド亜大陸北部・中部を統一し、多宗教・多民族の中央集権的支配を確立した。アイユーブ朝の創始者サラディンは、」
「エジプト・シリアなどを統一して十字軍に対抗した。軍事的・政治的統一を成し遂げたけど、この人も秦の始皇帝ほど中央集権は強くなかった」
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