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第三章:三十九歳さん
第六話:凍結する言霊
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二十八歳が去ってから、この家はもはや「家」としての機能を放棄した。ここは今、言葉という名の劇薬を抽出し、純粋な「無」を培養するための巨大な実験室、あるいは巨大な棺桶だ。
キッチンの蛇口から滴る水さえも、流しに触れる前に凍りついているのではないかと思えるほどの冷気が、床下から這い上がってくる。私は暖房を入れることなど思いつきもしなかった。そんな人為的な熱を持ち込めば、今まさに十七歳のペン先から生まれようとしている「完璧な結晶」を濁らせてしまう気がした。
「……先生。見てください」
十七歳が、掠れた声で私を呼んだ。
彼が書き連ねた原稿用紙は、すでに三百枚を超えていた。だが、そこにあるのは物語ではない。私のような「かつての作家」が知っている、起承転結という名の、読者を甘やかすための構造は、そこには存在しなかった。
私は彼の肩越しに、その文字を追った。
そして、戦慄(せんりつ)した。
文字の一画一画が、鋭利な剃刀(かみそり)のように紙の表面を裂いている。彼は文章を書いているのではない。自分の内側にある「命」という名の熱を、ペン先を通じてインクへと変換し、紙という名の氷原に定着させているのだ。
そこには、二階の老婆が見ているであろう「永遠の暗闇」の景色が綴られていた。
五感が遮断され、肉体が解体され、意識だけが絶対零度の沈黙の中に漂い続ける。その圧倒的な孤独が、あまりにも瑞々しく、あまりにも美しく描写されていた。
読めば読むほど、私の肺の中まで凍りついていくような感覚に陥る。これはもはや、人間が読むためのものではない。死者が、自分たちがどこへ行くのかを確認するための「地図」だ。
「……素晴らしい。作くん、君はついに、肉体という檻(おり)を言葉で食い破ったんだ」
私は、自分の声が震えているのに気づいた。嫉妬? いや、そんな卑俗な感情はとっくに超越している。私は、自分が一生をかけても辿り着けなかった「深淵の底」に、この十七歳の少年が、いとも容易(たやす)く足を踏み入れたことに、神聖な法悦を感じていた。
そのとき、十七歳の隣に座る少女が、しなやかな指で彼の頬をなぞった。
彼女の指先は、彼の肌よりもさらに白く、血の気をまったく感じさせない。
「ねえ、作くん。あと少しね。あと一行、最後の一行を書き終えたら、あなたは自由になれる。……あのアイスケースの中には、まだ『物語の続き』を入れるための余白があるわ」
彼女の言葉は、氷の針となってリビングの空気を震わせた。
十七歳は、うつろな瞳で彼女を見上げた。その瞳には、もはや私という師の姿も、自らの未来も映っていない。ただ、目の前の少女が提示する「完成」という名の奈落だけを見つめている。
「……自由。……永遠」
十七歳が、うわ言のように呟く。
彼の指は、万年筆と一体化したように強張っていた。筆圧が強すぎて、万年筆のペン先が悲鳴を上げている。
私は、リビングの隅にある、あの古びた振り子時計が止まっていることに気づいた。いつ止まったのかはわからない。いや、この家の「時間」は、二階のアイスケースが設置されたあの日から、あるいは、この少年が足を踏み入れたあの日から、すでに意味を失っていたのだ。
「先生、僕は……書けます。あなたが、自分の母親を解体したときに感じた、あの『完璧な充足』を。……僕は、それを自分の肉体で証明してみせます」
十七歳の言葉に、私は息を呑んだ。
そうだ。私は母を解体することで、自分の物語を固定しようとした。だが、私には勇気が足りなかった。それは、自分自身の肉体を、その物語の「一部」として差し出す勇気だった。
私は、管理する側――番人としての地位に安住してしまったのだ。
だが、この少年は違う。
彼は、自らが「作品」そのものになろうとしている。
少女が、私をちらりと見た。
その瞳の中には、私に対する明白な「拒絶」と「退場勧告」が宿っていた。
『先生、あなたはもう、観客ですらないわ。……ここから先は、彼と私の、本当の脱稿の時間』
彼女の冷徹な意志が、言葉を介さずに私を突き放す。
私は悟った。
私が彼を導いたのではない。彼女が、この十七歳という「最高の素材」を仕上げるために、私という「凋落した作家」と「私の箱庭」を利用したに過ぎなかったのだ。
私は、重い足取りでキッチンの奥へと退いた。
リビングの中央、ランプの光の下で、十七歳と少女が寄り添っている。
その光景は、地獄の底で咲いた一輪の花のように、あまりにも不吉で、あまりにも尊かった。
ペン先が、紙を、そして静寂を刻む。
外の霧は、もはや家の窓ガラスを圧迫し、家全体を異次元へと押し流そうとしている。
私は、震える手で冷え切ったコーヒーを啜りながら、これから起こる「最高の悲劇」の幕が上がるのを、ただ待つことしかできなかった。
キッチンの蛇口から滴る水さえも、流しに触れる前に凍りついているのではないかと思えるほどの冷気が、床下から這い上がってくる。私は暖房を入れることなど思いつきもしなかった。そんな人為的な熱を持ち込めば、今まさに十七歳のペン先から生まれようとしている「完璧な結晶」を濁らせてしまう気がした。
「……先生。見てください」
十七歳が、掠れた声で私を呼んだ。
彼が書き連ねた原稿用紙は、すでに三百枚を超えていた。だが、そこにあるのは物語ではない。私のような「かつての作家」が知っている、起承転結という名の、読者を甘やかすための構造は、そこには存在しなかった。
私は彼の肩越しに、その文字を追った。
そして、戦慄(せんりつ)した。
文字の一画一画が、鋭利な剃刀(かみそり)のように紙の表面を裂いている。彼は文章を書いているのではない。自分の内側にある「命」という名の熱を、ペン先を通じてインクへと変換し、紙という名の氷原に定着させているのだ。
そこには、二階の老婆が見ているであろう「永遠の暗闇」の景色が綴られていた。
五感が遮断され、肉体が解体され、意識だけが絶対零度の沈黙の中に漂い続ける。その圧倒的な孤独が、あまりにも瑞々しく、あまりにも美しく描写されていた。
読めば読むほど、私の肺の中まで凍りついていくような感覚に陥る。これはもはや、人間が読むためのものではない。死者が、自分たちがどこへ行くのかを確認するための「地図」だ。
「……素晴らしい。作くん、君はついに、肉体という檻(おり)を言葉で食い破ったんだ」
私は、自分の声が震えているのに気づいた。嫉妬? いや、そんな卑俗な感情はとっくに超越している。私は、自分が一生をかけても辿り着けなかった「深淵の底」に、この十七歳の少年が、いとも容易(たやす)く足を踏み入れたことに、神聖な法悦を感じていた。
そのとき、十七歳の隣に座る少女が、しなやかな指で彼の頬をなぞった。
彼女の指先は、彼の肌よりもさらに白く、血の気をまったく感じさせない。
「ねえ、作くん。あと少しね。あと一行、最後の一行を書き終えたら、あなたは自由になれる。……あのアイスケースの中には、まだ『物語の続き』を入れるための余白があるわ」
彼女の言葉は、氷の針となってリビングの空気を震わせた。
十七歳は、うつろな瞳で彼女を見上げた。その瞳には、もはや私という師の姿も、自らの未来も映っていない。ただ、目の前の少女が提示する「完成」という名の奈落だけを見つめている。
「……自由。……永遠」
十七歳が、うわ言のように呟く。
彼の指は、万年筆と一体化したように強張っていた。筆圧が強すぎて、万年筆のペン先が悲鳴を上げている。
私は、リビングの隅にある、あの古びた振り子時計が止まっていることに気づいた。いつ止まったのかはわからない。いや、この家の「時間」は、二階のアイスケースが設置されたあの日から、あるいは、この少年が足を踏み入れたあの日から、すでに意味を失っていたのだ。
「先生、僕は……書けます。あなたが、自分の母親を解体したときに感じた、あの『完璧な充足』を。……僕は、それを自分の肉体で証明してみせます」
十七歳の言葉に、私は息を呑んだ。
そうだ。私は母を解体することで、自分の物語を固定しようとした。だが、私には勇気が足りなかった。それは、自分自身の肉体を、その物語の「一部」として差し出す勇気だった。
私は、管理する側――番人としての地位に安住してしまったのだ。
だが、この少年は違う。
彼は、自らが「作品」そのものになろうとしている。
少女が、私をちらりと見た。
その瞳の中には、私に対する明白な「拒絶」と「退場勧告」が宿っていた。
『先生、あなたはもう、観客ですらないわ。……ここから先は、彼と私の、本当の脱稿の時間』
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私は悟った。
私が彼を導いたのではない。彼女が、この十七歳という「最高の素材」を仕上げるために、私という「凋落した作家」と「私の箱庭」を利用したに過ぎなかったのだ。
私は、重い足取りでキッチンの奥へと退いた。
リビングの中央、ランプの光の下で、十七歳と少女が寄り添っている。
その光景は、地獄の底で咲いた一輪の花のように、あまりにも不吉で、あまりにも尊かった。
ペン先が、紙を、そして静寂を刻む。
外の霧は、もはや家の窓ガラスを圧迫し、家全体を異次元へと押し流そうとしている。
私は、震える手で冷え切ったコーヒーを啜りながら、これから起こる「最高の悲劇」の幕が上がるのを、ただ待つことしかできなかった。
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