前歯の階段 ~小説家を目指す十七歳のぼくと、夢を叶えた二十八歳さんと、夢に敗れた三十九歳さんと、~

あめの みかな

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第三章:三十九歳さん

第七話:断筆の静止

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​ リビングの空気は、今や肺を凍てつかせるほどの濃度に達していた。吐き出す息は白く、そのまま足元へ沈んでいく。私はキッチンの暗がりに身を潜め、もはや自分がこの家の主であることを忘却していた。
​ 卓上ランプの光が、十七歳の執筆する手元だけを浮き彫りにしている。彼が握る万年筆は、もはや彼自身の指の一部であるかのように見えた。インクが紙に吸い込まれるのではない。彼の命が、黒い液体となって紙の上に吸い出されているのだ。

​「……できた」

​ 十七歳の声が、凍りついた空気をパリンと割った。
 彼は万年筆を置き、その場に崩れ落ちるように背中を丸めた。原稿用紙の最後の一枚。そこには、ただ一行だけ、狂気じみた筆致で言葉が刻まれていた。私はそれを見ようと歩み寄りかけたが、少女の冷たい視線が私をその場に縫い付けた。

​「見せて、作くん。あなたの『魂』の結末を」

​ 彼女は慈しむように原稿を手に取った。その薄い唇が、一行の文字をなぞるように動く。彼女の瞳が、悦びに細められる。それは、私がかつて文芸誌の巻頭を飾ったときにさえ得られなかった、純粋で暴力的なまでの「承認」の形だった。

​「……完璧よ、作くん。これで、あなたはもう、何も書かなくていい。誰にも理解される必要なんてない。……あなたは、私だけの『物語』になったの」

​ 彼女は原稿を胸に抱きしめ、床に座り込む十七歳の背後に回った。彼女の手が、彼の細い首筋に触れる。その指先には、いつの間にか、私が二階の納戸の鍵を開けるために使っていた、あの重厚な真鍮の鍵が握られていた。

​「先生」

 十七歳が、うつろな瞳で私を、あるいは私の背後にある闇を見た。

「ぼくは、書き終えました。……これで、二階の彼女の隣に行けるでしょうか。……僕のこの熱が、彼女を溶かしてしまうことは、もうないでしょうか」

​ 私は答えることができなかった。私の喉は、嫉妬と恐怖で完全に塞がっていた。
 彼が書き上げたあの一行。それは、私を、二十八歳くんを、そしてこの世界そのものを「不要な下書き」として切り捨てるための、冷酷な切断の言葉だったに違いない。彼は、自らの筆で、現実との回路を完全に遮断したのだ。

​「ええ、行けるわ。……でも、その前に、最後の手続きが必要なの」

​ 少女が、十七歳の耳元で囁く。

「作くん、あなたはさっき、私に訊いたわね。なぜ、あなたをここへ連れてきたのか。……それはね、あなたが私の『鏡』だからよ。私は、自分自身を殺すことができない。だから、あなたという、私に最も近い魂を見つけ出し、あなたに私を『殺させる』ことで、私は完成したかったの」

​ 私は、自分の心臓が凍りつくのを感じた。
 少女の目的。それは、十七歳を私の後継者にすることでも、彼を作家にすることでもなかった。
 彼女は、十七歳という「純粋な狂気」を培養し、彼の手によって自らを解体させ、あのアイスケースの中の老婆の隣に、あるいは、私たちが作り上げたこの「静止した物語」の中に、自らを永久保存させることだったのだ。
​ あの子が十七歳を心配していた?
 笑わせる。彼女は、彼が自分を殺してくれるほどに「研ぎ澄まされる」のを、今か今かと待ち望んでいただけだった。

​「さあ、作くん。その万年筆を捨てて。……代わりに、あのアイスケースの下にある『道具』を手に取って。……あなたが二階で見た、あの美しい断面を、私の上にも刻んでほしいの」

​ 少女の言葉は、この世のどんな愛の告白よりも熱烈で、そして救いがないほどに冷酷だった。
 十七歳は、ゆっくりと立ち上がった。彼の瞳には、もはや一抹の迷いもなかった。彼は私を、ただの壁に掛かった古い絵画のように一瞥すると、少女に導かれるまま、あの階段へと向かった。

​ 一段、二段。
 ギィィ、という床板の悲鳴が、祝祭の鐘の音のように響く。
 私は、自分の家でありながら、そこへ足を踏み入れることを許されない「部外者」として、ただ見送ることしかできなかった。

​「……待て。作くん。……君は、……君は、それでいいのか」

​ 私の震える声は、二人の背中に届く前に霧の中に消えた。
 二階の納戸の扉が開く音がする。
 溢れ出す冷気が、階段を伝って私を襲う。
 
 私は、リビングに残された十七歳の原稿を、震える手で手に取った。
 最後の一行。
 そこには、ただこう記されていた。
 
『ぼくは、美しく殺されるために、今日まで生きていた。』
 
 その文字を見た瞬間、私は自分の敗北を悟った。
 私は、母親を殺し、死体を隠すことで「物語」を作ったつもりでいた。
 だが、彼らは違う。
 彼らはふたりとも、死ぬことで「物語」を完成させようとしている。
 
 二階から、スライドガラスが開く乾いた音がした。
 ガラ、というその音は、私の人生という名の原稿が、最後の一滴のインクまで使い切られたことを告げる、終わりの合図だった。
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