前歯の階段 ~小説家を目指す十七歳のぼくと、夢を叶えた二十八歳さんと、夢に敗れた三十九歳さんと、~

あめの みかな

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第三章:三十九歳さん

第八話:不在の証明

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​ 上階から響く音は、私が想像していたような凄惨な悲鳴でも、あるいは肉を断つおどろおどろしい騒音でもなかった。
​ それは、硬い氷の塊を精密なノミで削り取るような、規則正しく、静謐な響きだった。
 ザシュッ、ザシュッ、その一定の律動は、十七歳が原稿用紙に万年筆を走らせていた、あの「執筆」の音と完全に一致していた。彼は今、紙の上に言葉を刻む代わりに、あの少女という名の「肉体」の上に、自らの美学の最終章を刻み込んでいるのだ。

​ 私はリビングのソファに深く沈み込み、震える手でタバコを吸おうとした。だが、指先が強張ってライターの火をうまく着けられない。吐き出す息は白く、部屋の四隅にはすでに薄い霜が降り始めている。家そのものが、二階から溢れ出す絶対零度の意志に飲み込まれ、生命活動を停止しようとしていた。

​ ……私は、何を間違えたのか。

​ 灰色の脳裏に、二十八歳の歪んだ顔が浮かぶ。

 彼は「自分を認めてくれ」と叫びながら去っていった。
 私は「自分を固定したい」と願い、母をアイスケースに入れた。

 だが、あの上で今、儀式を執り行っている二人は、そんな卑俗な「自分」さえも捨て去ろうとしている。
​ 少女は、十七歳を心配していたのではない。
 彼女は自分という存在を、誰にも汚されない「最高傑作」として完成させるために、十七歳という「完璧な筆」が必要だったのだ。そして彼もまた、自らの空虚を埋める最後の一片として、彼女を解体し、凍結することを選んだ。
 彼らにとって、殺害は憎しみではなく、究極の「推敲(すいこう)」なのだ。

​ ザシュッ……音が止まった。
 長い、長い沈黙。
 深い霧が窓ガラスを叩き、家全体が水底へと沈んでいくような感覚に陥る。
 私は、自分が三十九年の人生をかけて築き上げてきた「作家」としての矜持が、あの一音、一音によって粉々に粉砕されたことを理解した。
 私は結局、現実を「保存」することに怯えた臆病者に過ぎなかった。母の死体を隠し、物語を捏造し、中途半端な狂気を演じることで、世間からの断罪から逃げ回っていただけだ。

​ だが、彼らは違う。
 彼らは今、この瞬間、断罪そのものを受け入れ、死を「静止した美」へと昇華させてしまった。
​ 階段を、誰かが下りてくる音がした。
 一段、一段。その足取りは驚くほど軽く、迷いがない。

 現れたのは、やはり十七歳だった。

​ 彼のシャツは赤く染まっていたが、それは凄惨な返り血というよりは、白いキャンバスに落とされた鮮やかな絵具のように見えた。彼の瞳からは、かつて宿っていた「迷い」や「若さ」といった不純物が完全に濾過されていた。
 その瞳は、もはや人間を映すためのものではない。銀板写真のように、ただそこにある「風景」を定着させるためだけの、透明なレンズだった。

​「……終わりましたか」

 私は、自分でも驚くほど卑屈な声を出した。

​「ええ。……先生。彼女は、とても満足そうでした。あのアイスケースの中で、彼女はようやく、自分の輪郭をはっきりと手に入れたんです」
 
 十七歳は私の前を通り過ぎ、テーブルの上に私の万年筆を置いた。
 ペン先は、黒いインクと赤い何かが混ざり合い、異様な光沢を放っている。

​「返します。……これはもう、ぼくには必要ありません。ぼくは、自分の手で、最後の『一行』を書き終えましたから」

​ 彼はそのまま、玄関へと歩き出した。
 私は、彼を呼び止める権利さえ持っていないことを知っていた。彼は、私という「下書き」を通り越し、誰も到達したことのない「完成」の領域へ行ってしまったのだ。

​「作くん。君は、これからどうするんだ」

​ 彼は玄関の戸に手をかけ、振り返らずに答えた。

「ぼくは、彼女が溶けないように、この霧の中を見張っていなければなりません。……先生、あなたは、その万年筆で、せいぜい質の悪い『言い訳』でも書き続けてください」

​ バタンとドアが閉まり、家の中に再び真空のような静寂が訪れた。
 
 私は、一人残されたリビングで、テーブルの上の万年筆を見つめた。
 二階には、老婆と少女の二人分の、あるいは十七歳を含めた三人分の「物語」が眠っている。
 私は、震える手で万年筆を握った。
 だが、何を、どう書けばいいのか、今の私には一文字も思い浮かばなかった。
 
 私の物語は、一人の少年に奪われ、一人の少女に嘲笑され、そして霧の中に永遠に迷い込んでしまったのだ。
 私は、冷え切った部屋の隅で、ただの「不在の証明」として、朝が来るのを待ち続けることしかできなかった。
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