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第1章 第3話

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 少年が逃げ続けることに疲れなければ、諦めなければ、もしかしたら少女は今も生きていたかもしれない。
 それなのに、少女を死なせてしまった。殺してしまった。
 罪悪感が、少年の心を支配するたびに、タカミにかけられた言葉を思い出す。

「君は頑張ってくれたと思う。本来なら、ぼくが妹を連れて逃げなければいけなかった。だけど、引きこもりのぼくの体力じゃきっと数日で妹を死なせていた」

 雨が降り続ける中、自ら手にかけた少女の死体を抱きかかえ、泣きじゃくることしかできなかった少年に、タカミはそう言って傘を差してくれた。

「世界中が妹を生け贄に捧げて、災厄から逃れようとした。
 君だけが、妹を守ろうとしてくれた。
 不幸な結末になってしまったけれど、ぼくは君に感謝しているんだ」

 少年と少女の現在地や生死については、スマートウォッチによってタカミにだけわかるようになっていた。
 彼は少女の心拍数が途切れたことで妹の死を知り、一条という刑事が運転する車で少年を迎えに来てくれたのだった。
 タカミが部屋から出たのは、中学生以来であり、そのときが9年ぶりのことだった。

「これで災厄が終わるとはとても思えないが」

 一条刑事が運転席で言い、

「終わらないよ。妹を生け贄にしようとしたこんな世界、さっさと滅びればいい」

 助手席のタカミは、後部座席の冷たくなった妹と少年を見つめながら、吐き捨てるように応えた。

「彼女の遺体は、こちらで引き取らせてもらうが構わないな?」

 一条刑事はタカミや少年の協力者ではあったが、立場上はあくまで警察官だ。本人から聞いたことはないが、かなり危ない橋を渡っているだろうことはわかっていた。
 協力者であることがすでに警察上層部に悟られている可能性があった。
 少女が死んでしまった以上、遺体を回収し、協力者のふりをしていたとすれば彼にとっては身の危険が多少は減るだろう。

「政府は妹の死体を見せ物にでもするつもりなのか?」

「政府ではなく国連だ。バチカンも承認している。狂っているだろう?」

 本当に狂っていた。

「災厄が終わらなければ、どうせ偽物だと疑われる。見せ物にしたいなら、最初からダミーを飾ればいい」

 タカミも一条刑事が置かれている状況を理解してはいたはずだった。
 だが、感情が追い付いていなかった。

「そうしよう。同じ年頃の少女の死体はいくらでもあるからな」

 少女には懸賞金がかけられていたため、当時は別人と知りながら懸賞金欲しさに同世代の少女たちが殺される事件が多発していた。
 少年もタカミも、その事実をそのとき初めて知らされた。

「死体の顔を変えればどうにでもなる。DNAの鑑定書も偽造させる」

「それは駄目だ」

 ダミーにされる少女もまた、この狂った世界の被害者なのだ。
 一条刑事によれば、死体は腐ることがないよう冷凍保存され、世界各国をまわることになるだろう、とのことだった。
 タカミは冷凍保存された状態のまま遺体を引き取ることを条件に、一条刑事に妹を任せることにした。

「君はどうする?」

 一条刑事は少年に問うた。

「君の顔も名前も、彼女と同様世界中に晒されている。
 顔や名前を変え、海外で家族と共にひっそりと暮らしていくのが君のためだと思うが」

 少年は首を横に振った。
 それはタカミも同じであったからだった。

 タカミと共に少女の遺体が戻るのを待つ。

 それが少年の選択だった。

 だから少年は、この数年間タカミの庇護下にあった。

 しかし、遺体は戻ってはこなかった。
 1年前、飛行機での輸送中にハイジャックされ、行方がわからなくなってしまったのだ。
 かつてアリステラ王国が、その全土を支配したとされる大陸の上空での出来事だった。
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