アジル・イマの晩餐 ―偽神の解剖録―

あめの みかな

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​第8話:『至高の梱包材』

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​ エレベーターホールは、もはや現世の光景ではなかった。
 天井からは黄金の蔦のような触手が垂れ下がり、壁面は「番人」たちが流した血液を吸い上げて、脈動する生体組織へと作り変えられている。

 九条湊は、その異様な空間を、黒い外骨格の肢で壁を掴みながら這い進んでいた。彼の複眼には、この病院の主――東郷理事が待つ最上階の扉が、巨大な「蓋」のように見えていた。

​「梨沙……くん……。どこだ……」

​ 九条の声は、もはや人間に聞き取れる周波数を超えていた。だが、梨沙にはそれが脳髄に直接響く「震え」として伝わっていた。
 梨沙は、東郷理事の執務室の奥で、無機質な透明なカプセルの中に横たえられていた。彼女の周囲では、黄金の装甲を纏った番人たちが、儀式的な動作で何らかの術式を刻んでいる。

​「……九条湊。哀れな教え子よ。君は、自分が進化の最前線にいると信じているようだが……」

​ 執務室の奥から、静かな声が響いた。
 東郷理事長。彼は白衣の上から、黄金の「十字」を模した重厚な外装を纏っていた。それはカインの血族が数千年の時をかけて作り上げた、アジル・イマの暴走を制御し、偽神の秩序を維持するための「封印礼装」だった。

​「君はただの『尖兵』に過ぎない。その右腕も、その狂気も、彼女――加藤梨沙の中に眠る『真の真理(アジル・イマ)』を呼び覚ますための、ただの呼び水なのだよ」

​「黙れ、東郷……! 君たちは、彼女という神を『檻』に閉じ込め、その力を小出しに利用しているだけの寄生虫だ。……私は、彼女を解放し、この世界という不完全な梱包材をすべて剥ぎ取ってやる!」

​ 九条の背中から生えた漆黒の肢が、一斉に東郷へと襲いかかった。
 衝突音。
 黒い外骨格と黄金の装甲がぶつかり合い、執務室の窓ガラスが衝撃波で粉砕される。九条の「外来の力」は、番人たちを喰らうことでさらに純度を増していたが、東郷の黄金の装甲はそれを、物理法則を無視した「静止」の力で受け止めていた。

​「梨沙くんを返せ……。彼女は……私の、……私だけの『解剖対象(しんじつ)』だ!」

​「いいえ。彼女は……万物の『母』となる存在。九条、君のその醜い外骨格も、彼女の前ではただの燃えカスに過ぎない」

​ その時、カプセルの中にいた梨沙が、ゆっくりと目を開けた。
 彼女の瞳は、もはや人間らしい不安も恐怖も宿していなかった。右の瞳が黄金に、左の瞳が漆黒に染まり、彼女が息を吐くたびに、周囲の空間から「色」が消えていく。

​「……あ……」

​ 梨沙の唇が、音にならない言葉を紡ぐ。
 L.I.S.A。
 逆さ読みをすれば、A.S.I.L.(アジル)となる。
 アジル・イマのアジルだ。発音の仕方もはっきりはわかっていない。ローマ字表記も正しいかどうかわからない四姉妹の女神、その三女の名だった。

「逆さ読みの女神ということか」

 あるいは、タロットカードのように逆位置の存在であることを意味しているのかもしれない。

 彼女の意識が覚醒の閾値を超えた瞬間、病院全体を覆っていたアジル・イマの構文が、狂喜の咆哮を上げた。九条の右腕に刻まれた黒い文字が、梨沙の存在に共鳴して激しく発光し、九条の肉を内側から焼き始める。

​「が、はっ……!? 梨沙……くん……、何をして……」

​「九条先生……。……痛いのは、……もう終わり」

​ 梨沙がカプセルの中から手を伸ばした。
 彼女の指先が透明な壁を透過し、東郷の黄金の装甲を、そして九条の漆黒の外骨格を、同時に「撫でた」。

​ その瞬間。
 東郷の黄金の礼装は砂のように崩れ、九条の強靭な外骨格は、まるで枯れ葉のように脆く砕け散った。

 梨沙の周囲数メートルだけが、一切の争いと「骨」の軋みを拒絶する、絶対的な静寂の領域へと作り変えられたのだ。

​「……これが、……アジル・イマの、……真の支配か……」

​ 九条は、人間の左半身と、崩壊していく右半身の間で、膝をついた。
 東郷もまた、権威を象徴する黄金を失い、ただの老いた男として床に伏している。
 中心に立つ梨沙は、自分が何をしたのかも分からぬまま、ただ悲しげに、自分の手を見つめていた。

​「……九条先生。……私、……人間じゃないの……?」

​ 彼女の問いに答える者は、もう誰もいなかった。
 病院の外では、梨沙の覚醒に呼応するように、街中の「梱包材」たちが一斉に……その皮膚の下で、新しい命の胎動を始めようとしていた。

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