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現在
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しおりを挟むエレベーターで一階に降り、自分を待つ彼の姿を見つけたとき、僕は正直複雑な気分だった。四谷との距離の取り方が分からない。分からないまま、こうして再び顔を合わせることになってしまった。物理的な距離を縮めることにさえ、ためらいを感じる。彼が、僕に気づいた。若葉、とその唇が動いたような気がした。
戸惑いながらも近づいていくと、お疲れ、と彼が言った。
「早かったな」
この数時間、彼のことで頭がいっぱいだった自分を見透かされたような気がして、目を逸らす。
「別に……。いつも通りです」
「そうか」
「ええ」
くすっと四谷が笑う。僕はまた彼に視線を戻し、軽く睨み上げた。
「それで、僕に何か?」
僕のことは、ほっといてくれればいいのに。そうしたら、また穏やかで落ち着いた日々に戻れるのに……。
「飯、食いに行くか」
「は、い?」
「だから、飯」
「何で僕が……」
「いいから付き合え」
全く了承していないのに、僕の手を引いて歩き出す四谷琉聖。
「ばか、離せ……っ」
「騒ぐと、目立つぞ」
嫌な脅し文句に、声にならない叫びが零れ落ちる。
数分後、ほとんどさらわれるような形で、僕は四谷の車の助手席に詰め込まれていた。普段あまり車には乗らないので、助手席に座ること自体が久々だった。閉じられた空間の中でふわりと彼の香りがして、何だかひどくいたたまれない気持ちになる。
「四谷」
とにかく気を紛らわしたくて、僕は彼に問いかけた。
「どこに行くの?」
「だから、飯。何か食えないものとかある?」
「ない、けど。辛すぎるのは得意じゃない……」
「分かった」
しん、と短い沈黙。それが嫌で口を開く。
「えっと、四谷は?」
「え?」
「嫌いな食べ物」
間をもたせるために訊いたのに、四谷はすぐには答えてくれなかった。
「四谷……?」
小首を傾げ、僕は四谷の顔を覗き込む。嫌いなものなどなかったのだろうか。怪訝に思いつつ、彼の方を見つめていると。
「椎茸」
苦虫を噛み潰したかのような渋面で、四谷が小さく呟いた。その、ものすごく嫌そうな表情に。
「……ふ、っ」
意表を突かれ、気づけば笑ってしまっていた。頬が笑みの形に緩み出す。
「笑うな」
「だって、何か……」
何か、かわいい。
言葉にはしなかったけれど、ニュアンスは伝わっていたらしい。うるさい、と四谷が愛想のない声を出す。
「あの食感が無理」
彼の言い分も分からなくはなかったが。そもそも、四谷に苦手なものがあるというのが意外だった。彼が何かを恐れたり避けたりする様子が、僕には上手く想像できない。
「他にも何か、苦手なものってあるの?」
あっても答えないかもしれないな、と思いつつ尋ねると。
「あるよ」と彼はためらいなく答えた。
信号で一時停止した車内。一瞬、彼が僕を見た。
「苦手、とは違うかもしれないが。弱い、というか。それを前にすると、いつも通りの自分ではいられなくなるような」
四谷の、弱み。できれば、高校のときに知りたかったなと。そう思ったのが顔に出ていたのかもしれない。四谷が呆れたように呟く。
「若葉って……」
「何?」
「何でもない」
「……?」
相変わらず、四谷のことが分からない。分からなくて、そわそわする。いつもの自分ではいられなくなるような何か。もしそれを「弱み」と名づけるのなら、僕の弱みは間違いなく彼なのだと思う。
他愛ない質問をぎこちなく繰り返しているうちに、車は目的地に到着した。無理やり車に乗せられたことは不本意だが、このまま車内に留まるわけにも行かない。ひとまず僕は自分から車の外に出た。
「若葉、こっち」
彼が示す方へと歩いていくと、高層ビルの入口にたどり着く。ビルだと思ったが、どうやらホテルのようだ。入口の上方に、英字で施設名が刻まれている。
「ここの上に、飯も食えるバーがあるから」
「う、うん」
息を吐いて、身体の強張りを解く。ホテルだと知って邪推した自分が恥ずかしかった。僕は彼の後について入口のドアを潜り、そのままエレベーターへと乗り込む。ドアの反対側がガラス張りになっていて、外の景色がよく見えた。
「あ……」
上昇するにつれ遠退く街の灯りに、ふと、小さな声が零れ落ちる。
「若葉?」
四谷に表情を覗き込まれ、何だか恥ずかしくなった僕は、下を見たまま「綺麗だなと思って」と呟いた。夜景にときめくだなんて、三十過ぎの男がすることではない。からかわれるのを覚悟してそっと四谷を見上げると、僕の頭より少し高い位置で、彼は笑っていた。
ただ、僕が思っていたような、揶揄するようなそれではなく。胸の内側からふいに溢れ出したような、優しい微笑みだった。
「四谷……?」
「気に入った?」
思わず僕はこくりと頷いてしまった。普段の僕にはない、素直さで。
「よかった」
やわらかく、目を細めて笑う四谷。息が苦しくて、胸が苦しくて、壊れそうになる。
どうして、今日僕を待ったりした? どうして、そんな顔で僕を見る? どうして、あの夜──僕を抱いたりした?
「……っ」
訊けるはずがない。固く口を引き結び、外を見る。星をちりばめたような夜景は、変わらず美しかった。
「若葉?」
彼が僕の名前を呼ぶと同時に、エレベーターが目的の階に到着する音がした。滑らかに開く扉。扉さえ開いてしまえばもう、二人きりじゃない。
「何でもない。降りる?」
「ああ」
四谷は「開」のボタンを長押しして、僕に先に降りるよう視線で促した。軽く頭を下げて、先に廊下へと足を踏み入れる。靴越しに感じるカーペットの感触が、土足をためらうほどやわらかかった。
「そこの店」
四谷の案内で店内に入ると、落ち着いた色合いの照明に包み込まれる。優しい、というのが第一印象だった。
「席、窓側にするか」
「あ、うん」
カウンター席を通り過ぎ、窓際へと移動する。まるで水族館の水槽のように巨大なガラス越しに見る夜は、とても幻想的だった。
「ここからの夜景も、すごいね……」
ぼんやりしたまま呟くと、四谷は軽く頷いた。眼下に広がる景色は美しく、触れられる距離に四谷がいる。あまりにも、現実味がなかった。
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