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必要としていたサンプルは、割とすぐに見つかった。打ち合わせに使う予定の個室は、ひとつ下のフロアにある。そのままエレベーターで下に降りると、仕事用の携帯に着信があった。
「雪下さん? 中村です」
「うん。どうかした?」
「今事務の方から連絡がありまして、雪下さんのクライアント、既にお見えになったそうです」
相手は時間に厳しいタイプなのだろうか。とりあえず、早めに下に降りていてよかった。
「そっか、教えてくれてありがとう。もう下のフロアに来てるから大丈夫。すぐ移動する」
重ねて彼女にお礼を告げ、電話を切る。打ち合わせの場所に着くまでのわずかな間に、早送りで話す内容のシミュレーションをした。頭の中には、仕事のことしかなかった。資料を見せる順番、話の持っていき方、今後のスケジュール……。よし、と小さく呟いて、僕は個室の扉をノックした。
「はい」
「失礼いたします」
扉越しに短いやりとりを交わしてから、僕はドアノブを引いた。普段は会議室としても使われている部屋だ。ドアから見て右手にホワイトボードがあり、それと垂直になるように長机と椅子が設置されている。
クライアントの彼は、僕の入室に合わせて立ち上がった。椅子と床の奏でるささやかな音が部屋に響く。
「お待たせしてすみま……」
仕事のことで埋めつくされていたはずの頭は、一瞬にして真っ白になった。口にするはずだった言葉たちもまた、どこかへ行ってしまった。
一週間前に、一度だけ。肌を触れ合わせた男が、僕の目の前にいた。腕の中から、シャープペンシルのサンプルの入った箱が滑り落ちる。
どうして、彼が……?
あの夜だけのことだと思っていた。だから、すべてをさらけだして抱かれた。その彼が、どうして僕のクライアントなのだろうか。彼はこちらへと近づいてくると、僕の足元に落ちていた箱を拾い上げた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
「若葉」
名前を呼ばれ、息が止まりそうになる。久し振り、と彼は続けた。
「受付で部屋を訊いたとき、担当の変更があったと教えてもらった。名前を聞いてまさか、とは思ったが……」
彼の声に、視線に、心をかき乱される。
「四谷琉聖。……覚えてるか?」
覚えている、と答えたら。彼に知られてしまうのだろうか。あの夜僕が、彼が四谷だと知りながら行為に応じたのだということを。一夜の相手としてではなく、彼に気持ちがあったから抱かれたのだということを……。
「思い、出した」
覚えているとは言えない以上、そう言うしかなかった。
「高三の一学期、隣の席だった」
端的に、僕は彼との関係を言葉にする。特別なことなど何もないのだと、自分に言い聞かせるかのように。
「四谷が、僕のクライアント……?」
「ああ」
確か資料にあった名前は、四谷ではなかった。怪訝に思っていると。
「あの塾は、譲り受けたばかりだから。名義はまだ祖父のものになっているはず」
問う前に、四谷が答えた。
「そろそろ隠居するというから、引き継ぐことにした」
「そうなんだ……」
何だか呆気に取られていると、四谷が言った。
「今は、俺のやりやすいようにいろいろ変えていってる。それで、塾名入りのステーショナリーがあってもいいかと思ってこちらに依頼した」
依頼という単語に意識を引き戻される。そう、これは仕事だ。
「そういうことでしたか。すみません。何だか懐かしくなって、ぼんやりしてしまいました。打ち合わせに、入りましょう」
そうだな、と四谷は首肯した。それを見て僕は、寂しさがじわじわと拡がっていくのを感じた。やはり彼も、一週間前のことには触れられたくないのだ。高校の同級生だった僕と関係を持ったことは、なかったことにしたいのだろう。なかったことにすべきだと分かっているのに、寂しいだなんて。僕はどれだけわがままなのだろう。
「──では、デザインの案が出来次第ご連絡差し上げます」
打ち合わせは順調に進み、予定していた時間より早く話がまとまった。次に顔を合わせるのは、おそらく来週になるだろう。
「今日はどうもありがとうございました」
向かい合い、頭を下げる。大丈夫、僕は普通に振る舞える。深呼吸をしてから顔を上げ、ドアを開くべく彼に背を向けると。彼の手が、僕の手首を掴んだ。どうやら十年経っても、四谷琉聖は僕の思う通りには動いてはくれないらしい。
「仕事は、何時に終わる?」
「え……?」
掴まれた腕に、熱が集まっていく。そのことが気になって仕方なかった。
「あの、腕、離していただけませんか」
「答えたら離す」
鋭い視線にさらされ、心臓の音が激しさを増す。期待したくない。傷付きたくない。臆病な自分が訴えている。それなのに僕は──この声に、逆らえない。
「今日は、六時」
「じゃあ、六時に下で」
「仕事次第では、遅くなるかも……」
「それでもいい。待ってる」
おずおずと頷くと、彼は約束通り手を離した。
一度身体を重ねて終わりにしたはずの、恋。もう僕は、自分の気持ちさえ分からない。
「雪下さん? 中村です」
「うん。どうかした?」
「今事務の方から連絡がありまして、雪下さんのクライアント、既にお見えになったそうです」
相手は時間に厳しいタイプなのだろうか。とりあえず、早めに下に降りていてよかった。
「そっか、教えてくれてありがとう。もう下のフロアに来てるから大丈夫。すぐ移動する」
重ねて彼女にお礼を告げ、電話を切る。打ち合わせの場所に着くまでのわずかな間に、早送りで話す内容のシミュレーションをした。頭の中には、仕事のことしかなかった。資料を見せる順番、話の持っていき方、今後のスケジュール……。よし、と小さく呟いて、僕は個室の扉をノックした。
「はい」
「失礼いたします」
扉越しに短いやりとりを交わしてから、僕はドアノブを引いた。普段は会議室としても使われている部屋だ。ドアから見て右手にホワイトボードがあり、それと垂直になるように長机と椅子が設置されている。
クライアントの彼は、僕の入室に合わせて立ち上がった。椅子と床の奏でるささやかな音が部屋に響く。
「お待たせしてすみま……」
仕事のことで埋めつくされていたはずの頭は、一瞬にして真っ白になった。口にするはずだった言葉たちもまた、どこかへ行ってしまった。
一週間前に、一度だけ。肌を触れ合わせた男が、僕の目の前にいた。腕の中から、シャープペンシルのサンプルの入った箱が滑り落ちる。
どうして、彼が……?
あの夜だけのことだと思っていた。だから、すべてをさらけだして抱かれた。その彼が、どうして僕のクライアントなのだろうか。彼はこちらへと近づいてくると、僕の足元に落ちていた箱を拾い上げた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
「若葉」
名前を呼ばれ、息が止まりそうになる。久し振り、と彼は続けた。
「受付で部屋を訊いたとき、担当の変更があったと教えてもらった。名前を聞いてまさか、とは思ったが……」
彼の声に、視線に、心をかき乱される。
「四谷琉聖。……覚えてるか?」
覚えている、と答えたら。彼に知られてしまうのだろうか。あの夜僕が、彼が四谷だと知りながら行為に応じたのだということを。一夜の相手としてではなく、彼に気持ちがあったから抱かれたのだということを……。
「思い、出した」
覚えているとは言えない以上、そう言うしかなかった。
「高三の一学期、隣の席だった」
端的に、僕は彼との関係を言葉にする。特別なことなど何もないのだと、自分に言い聞かせるかのように。
「四谷が、僕のクライアント……?」
「ああ」
確か資料にあった名前は、四谷ではなかった。怪訝に思っていると。
「あの塾は、譲り受けたばかりだから。名義はまだ祖父のものになっているはず」
問う前に、四谷が答えた。
「そろそろ隠居するというから、引き継ぐことにした」
「そうなんだ……」
何だか呆気に取られていると、四谷が言った。
「今は、俺のやりやすいようにいろいろ変えていってる。それで、塾名入りのステーショナリーがあってもいいかと思ってこちらに依頼した」
依頼という単語に意識を引き戻される。そう、これは仕事だ。
「そういうことでしたか。すみません。何だか懐かしくなって、ぼんやりしてしまいました。打ち合わせに、入りましょう」
そうだな、と四谷は首肯した。それを見て僕は、寂しさがじわじわと拡がっていくのを感じた。やはり彼も、一週間前のことには触れられたくないのだ。高校の同級生だった僕と関係を持ったことは、なかったことにしたいのだろう。なかったことにすべきだと分かっているのに、寂しいだなんて。僕はどれだけわがままなのだろう。
「──では、デザインの案が出来次第ご連絡差し上げます」
打ち合わせは順調に進み、予定していた時間より早く話がまとまった。次に顔を合わせるのは、おそらく来週になるだろう。
「今日はどうもありがとうございました」
向かい合い、頭を下げる。大丈夫、僕は普通に振る舞える。深呼吸をしてから顔を上げ、ドアを開くべく彼に背を向けると。彼の手が、僕の手首を掴んだ。どうやら十年経っても、四谷琉聖は僕の思う通りには動いてはくれないらしい。
「仕事は、何時に終わる?」
「え……?」
掴まれた腕に、熱が集まっていく。そのことが気になって仕方なかった。
「あの、腕、離していただけませんか」
「答えたら離す」
鋭い視線にさらされ、心臓の音が激しさを増す。期待したくない。傷付きたくない。臆病な自分が訴えている。それなのに僕は──この声に、逆らえない。
「今日は、六時」
「じゃあ、六時に下で」
「仕事次第では、遅くなるかも……」
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