上 下
32 / 68

記憶喪失ですが、夫に復讐いたします 31 正体

しおりを挟む
木々の間から現れたシルビオは、馬を降り、エレオノーラの方へ近づいてきた。





額にはしっとりと汗が浮かび、こめかみから一筋のしずくが落ちた。

よほど急いで馬を駆ってきたのだろう。乗馬服ではない、街へ出かけるようなジャケットにパンツ。ブーツではなく上質な皮の靴だ。





彼は襟もとのタイをかるく緩め、柔らかく微笑んだ。

言いたいことはたくさんあるが、言葉にするのが難しい。



(……何から話せばいいのか……)





そんな彼をエレオノーラはじっと見つめている。

シルビオの身なりは、きちんとしている、というより、かなり上流の貴族だろう。洗練された装いに、やや仏頂面だが、よく見れば顔立ちも美しく、長身で身のこなしも軽やかだ。

馬からひらりと降りる姿は、騎士然としていて見惚れるほどだ。





妙なタイミングで現れるこの男を怪訝に思っていた。

以前、この男を見たときに感じた、胸の底をザラリと撫でられるような不快感も相変わらずだ。エレオノーラはそっと眉を顰め、その不快感に抵抗していた。





(前もこんな表情していたな、俺のことを覚えているのだろうか)





シルビオは声を掛けようとするが、なんといっていいのか、気持ちが大きすぎて言葉にならない。言葉を掛けようとして口を開くが、迷ってまた閉じてしまう。





エレオノーラの目は赤く充血していて目の下もこすったように赤い。疲れたような表情で、座り込んでいた。





「……泣いて、いたのか?」

シルビオは思わず言葉にしてしまう。



エレオノーラは、はっと驚いたように瞳を見開いて、気まずそうに下を向く。





(しまった、つい口をついて出てしまった……)



と思ってももう遅い。軽くため息をつくと、シルビオは手を差し伸べ、



「大丈夫か?」



「……」



エレオノーラはおずおずと手を差し出した。

シルビオはその手をとってそっと握ると、引き寄せてエレオノーラを立ち上がらせた。

二人の距離が急に縮まり、エレオノーラの心臓は軽く跳ねた。



その途端、頭の中によみがえる光景があった。



(……知ってる、この感じ!この人にこうやってどこかへ連れていかれたことがある……?)



しかし、思い出せた風景は、足元で顔はぼんやりとしていた。

また、惜しいところで記憶は散り散りに消えていく。





「どうした、この手。ずいぶん痛そうだな」



握った手をまじまじとみるシルビオ。

剣だこがつぶれ、包帯も巻いているが隠しきれていない。おおよそ、令嬢とは言えない手だ。



「あ……これは……その、剣技を習っているのです……」



「剣技?なぜ?」



「アカデミーの入学試験が迫っているのですが、なかなか上達しなくて…」



「アカデミーに?」



(エレオノーラはアカデミーに入学する気なのか?!)



「私は、事故で記憶がないのです。ここで仕事を見つけて生きていくにはアカデミーに入学する必要があると聞いています」



内心、シルビオは驚いていたが、何とか平静を装って、



「そうか……アカデミーに……。……これはまた、無茶な練習をしているようだな。」



「そうでしょうか……」



「君の師匠は誰だ?」



「各騎士団の団長です。でも、お忙しいのでなかなか……あとは自分で……」



「これだと、手のひらだけでなく、腕まで痛めそうだ。空いている騎士はいないのか?」



「皆さん、それぞれ任務もありますし、私に割く時間はありません。」



「そうか、では君さえよければ俺が教えようか」



「ええ?!でも、私は王宮を勝手に出ることはできません」



「いや、俺が王宮へ行く。」



「はい?」



(見た感じは、悪い人ではなさそうなのに、この理由のない不安感は何だろう。)

得体のしれない不安感にエレオノーラの心はざわつきを押さえきれない。



それとは対照的に、いいことを思いついたとばかりにシルビオはにっこり微笑んだ。





「以前は驚かせたようで申し訳なかったな。」



「夜会の時の事ですか?」



「ああ」



ふう、と息をついて、



「本当に、覚えていないんだな。」



(自分の存在が忘れ去られているとは、こんなにも苦しいのか。まるで知らない男だな。警戒しているのがよくわかる。)



胸の奥が急に締め付けられる自分に、シルビオは戸惑っていた。



「……申し訳ありません……。あなたは、私のことをご存じなのですね。」



「ああ……」



悲しそうに苦笑いすると、こう続けた。



「実は、事故にあう前に、君が残していったものを俺が預かっている。」



エレオノーラは思わずぱっと顔を上げる。

「なぜ、あなたが?」



「俺は……君の家族になり損ねた男だからだ。」



(家族になり損ねた?)

シルビオの言葉が妙に引っかかった。



「君の記憶が戻る助けになるかもしれない。君に渡したいと思っているが、どこに行けば会える?」



孤独感に押しつぶされそうになっていた、エレオノーラにとって喉から手が出るほど欲しいものだ。



「……どこでしょう。」

王宮に自分を訪ねてくる人などいない。どうすれば、会えるのかはエレオノーラ自身もわからないのだ。



「では、鍛錬場にしよう。午後には鍛錬場にいると聞いたが。」



「ええ、でも、鍛錬場には騎士団以外の方は入れないんじゃ……?」



「ちょっとした伝手があってね。」

と、余裕の笑みを向けるシルビオだった。
しおりを挟む

処理中です...