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記憶喪失ですが、夫に復讐いたします 35 ロジェとシルビオ

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“シルビオ様”



名前を呼ばれたその一瞬、シルビオの心臓は鷲掴みにされたような感覚に陥った。



記憶の中の小さな彼女は無垢なほほえみで、弾む声で呼んでくれた。



しかし、今は驚きと絶望。そして拒絶だった。



(もう、ここにいる意味はない)



これ以上、エレオノーラに付きまとうわけにはいかない。



この機会に、帰国しようと、ロジェのいる騎士団の詰め所へ向かった。





騎士団の詰め所で、書類に埋もれているロジェ。



他の騎士たちは、皆任務があるのか出っ払っている。



ロジェはシルビオの姿を見つけると、



「お、どうした?エレオノーラちゃんのとこ行かなくていいのか?」



「もう、行った」



行った割には早いお帰りである。ロジェはおかしい、と思いながら



「今日二回目だろう?うまくやっているのか?」



ニヤニヤしながら話すロジェに罪はないが、シルビオは多少イラつきを覚える。



「ロジェ、せっかく手配してもらったが、今日限りで任を辞したい」



ひきつった表情で、シルビオは伝えた。



「まてまてまて、どういうことよ、何が起こったんだ」



勢いよく顔を上げた途端に書類の山から、数枚の書類が舞い散る。



「いや、その」



言い淀むシルビオ。



「特別講師、二日目よ?!何があった?」



騎士団が面倒を見られない、いやあまり面倒を見すぎないよう上からの通達があり、手が出せな

い状態だったところに、ロジェがごり押しでシルビオをねじ込んだ。



騎士団以外から特別講師を迎え入れるとあって、身元調査や書類をそろえるなど、短期間の間

に、まあまあ手間をかけて準備をし、上にも許可をとって、すんなりことが運べるように手を掛けたのだ。それなのに、もう来ないとは。



「彼女の中の、俺の記憶が戻った。信頼を深める前にな。」



「はあ?記憶が戻ったところで、もう来ない、にはつながらないだろう」



「まあ、俺が悪い」



言葉数が少ないシルビオから情報が得られず、ロジェは苛立った。



「まてまて、ちゃんと説明しろ」



「彼女が家に来てから、使用人に任せていたことをかなり怒っている」



「昔の事か?小さかったんだろ?」



「使用人は満足に世話をしなかったのは事実だ、それは俺の責任だ」



「いつまで言ってんだよ、お前。過去の事だろ。お前にはどうしようもなかった、そうだろ?」



「だが、彼女の中では、いや俺の中でも解決していない。」



「真面目なのもほどほどにしておけよ。お前な、お前の幼いころとエレオノーラちゃんの過去が重なって見えているからほっとけないだけだろ。過去のお前を助けたいだけなんじゃないのか?」



ロジェの指摘に面食らった。何も言葉を返すことが出来ない。



「お前の過去は変えられない。エレオノーラちゃんとお前の問題を混ぜるな。」



「混ぜていない」



「そう見えるから、言ってるんだろ!中途半端なことをするなよ!」



煮え切らない態度のシルビオにロジェの苛立ちは次第にエスカレートする。



「もう、帰国するつもりだ」



ロジェの苛立ちとは逆に、シルビオは沈痛な面持ちで、冷静なままだ。



「はあ?剣技の特別講師の件はどうするんだよ」



「すまない」

シルビオは静かだ、ロジェの怒りはどこか遠くの事のように思えた。



「すまない、じゃないんだよ!俺の立場も考えてくれよ、お前をねじ込むのにどれだけ準備したと思うんだ!まあ、許可はすぐおりたけどな。」



実際は、書類を準備しただけだ。シルビオ・ヴェルティエならいいだろう、と上官からすぐに許可が下りたので、そう苦労していない。しかし、今後のことを考えると無責任な人間を紹介したことになり、非常に立場がよくないのだ。



「すまない、エレオノーラは多分もう来ないと思う」



「エレオノーラちゃんがこないのと、お前が来ないのは全然意味が違うんだよ、お前は来い!」



じっと黙ったままのシルビオ。



「おまえな、かかわると決めたなら途中で放り出すな。お前が逃げるとこなんて、俺見たくないよ」



「逃げるわけじゃ……」



「逃げようとしているだろ。お前さあ、思ってるより口数少ないよ?エレオノーラちゃんになんにも伝わっていないとおもうぞ」



「そんなことは」



「あるよ、断言するわ。」



シルビオは何も言い返せない。



「とにかく、お前は来い。お前が来られない日は、俺が代打で行く!」



ロジェは、昔からシルビオを見捨てることが出来ない。なんだかんだと、怒りながらも力を貸してしまう。



「お前が帰国した後どうなると思う?他の奴らがエレオノーラちゃんにかかわることになるぞ、いいのか、それ」



「それは」

シルビオは顔をしかめた。



「だろ?だから、今はとにかく来い!」



「……わかった」

少し間をおいて、シルビオはしぶしぶ頷いた。



「よし!」



「ロジェ、お前……」



「なんだ」



「いい奴だな」



「はあ?今さら?俺はもともとすごくいい奴だよ!」



なんなんだ、とあきれた表情で、ロジェは大きなため息をつく横で、眉根を下げて、シルビオは笑った。

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