毒の果実

夢 餡子

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帰宅

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 亜矢と別れ、帰りの電車の車窓から見える晩秋の風景は、どこか色彩を失ったセピア色に満ちていた。おそらくそれは、今の私の心が生み出した色なんだろう。

 結局、亜矢には本音を言えずじまいだった。
 それは、夫への愛情というか、興味を失ってしまったこと。でも、言ったところでこんな気持ち、亜矢には全く理解できないだろうし、場合によっては軽蔑されるかもしれない。
 冷静になって思えば、パニックを起こして亜矢に電話したのは、家で夫の気配を感じたからだ。それは、見知らぬストーカーに突然侵入されたような猛烈な恐怖だった。今や夫を、赤の他人としてしか認識できない自分の薄情さに、呆れるというか怒りさえ覚えたが、それはもはや事実として受け止めるしかなかった。そう、仕方のないことなんだと。
 夫、という単語は単なる記号にしか見えない。光司、というひとは好きでも嫌いでもない、どこかの誰かだ。
 突然降り注いだこんな感情なんて、誰も共感できないに違いない。例え親友の亜矢であろうとも。

 駅を出て家が近づくに連れ、次第に心のなかを恐ろしさが支配していった。
 もし、夫が家にいたらどうしよう。何事もなかったかのように、いつもの笑顔を見せながら、『おかえり、ゆうさん。どこ行ってたの?』なんて聞かれたらと思うと、心の底からぞっとした。

 駅から少し離れた場所にある住宅街は、売り文句である閑静といった言葉そのままに、すっかりと静まり返っている。
 時折、正面から吹き付ける強い北風が私を押しとどめ、それはまるで帰るなと言う警告のようだった。

 でも、私は家に着いてしまった。
 お気に入りの戸建の小さな我が家。立派だとはとても言えないが、愛おしく決して失いたくない大切な宝物。
 それほど愛する家が今では、怖い。怖くてたまらない。

 震える手でカギを開け、音を立てないようそっとドアを開いた。
 玄関に夫の靴はない。家のなかもひっそりと静まり返っている。靴を脱ぎ、忍び足でひっそりと廊下を歩いていった。きわめて慎重に、小虫の羽音すら聞き落とさないように耳をすませながら。

 誰もいない。もとよりひとの気配が全くない。家のなかは、時間でさえ止まっているかのように静まり返っていた。
 ほっと息を吐いて、ダイニングの椅子に腰掛ける。酷く疲れていた。夫は帰ってきていない。いや、帰るはずがないのに。
 部屋を片付けたのは、おそらく私なんだろう。寝ている間にむっくりと起き出したに違いない。まるで夢遊病者みたいに。だけど今やそれは、夫が家にいる怖さに比べれば些細なことに過ぎなかった。

 スマホに目をやると、亜矢からLIMEの通知が入っている。『どう、光司さんに会えた?』『うん、会えたよ。もう大丈夫だから』。嘘をつくことなんか簡単だった。これ以上悩みたくない、そんな気持ちが親友の優しささえ踏みにじってしまう。

 それから週末のあいだ、ごく平穏にひとりでゆったりと過ごした。まるでそれが、これまでずっと続いてきた幸せであるかのように。

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