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第1章
ぬくもりに包まれて
しおりを挟む女神はスキルなんて余計なものを授けてくれちまったわけで、クロエは悩むことになる。
バキッと柄が折れた木刀は、土の上に転がってクロエを睨んでいるようだった。もう何本目になるのか。やっと力加減が分かってきたのに……。
『チッ……また、折れた。』
周りに聞こえないように小さく舌打ちをした。漏れ出てしまったと言うべきか。
「粗悪品でしょうか?これで何個目ですかね。」
アンは困惑した面持ちで砕けた木刀をクロエの手から受け取った。そしてまた新しい木刀を渡す。これも全てスキル【怪力】のせいだ。
エドガーから許しが出てから、一ヶ月。毎日クロエは一心不乱に素振りを繰り返していた。公爵令嬢のその光景に騎士たちは最初こそ戸惑っていたが、今では慣れた顔で見守っていた。
いい顔をしないものもいるだろう、と思っていたが騎士たちは狂喜乱舞だった。素振りをするクロエを最前列で見ようと決闘がされていたくらいに。
『ふぅ』
インドアなクロエの体力を心配していたが、身体能力が高いのかクロエの体はすぐに慣れた。シリウスが面倒を見てくれているのと素振りの形は澄人の記憶に刻まれていて、その姿勢はシリウスも感心するものだった。
「お嬢様、なにやら手慣れた様子なのは」
『気のせいよ』
“普通”の公爵令嬢は木製とはいえ、こんな物騒なものを持とうとも思わないだろう。つい数日前までのクロエがそうだったのだから。
「お嬢様、タオルをどうぞ」
『ありがとう、アン』
そろそろ素振りだけでは飽きた。俺も誰か相手してくれねぇかな。
アンから受け取ったタオルで額を拭いながら訓練所をぐるりと見渡す。
周りは大人で、しかも命をかける騎士。お願いすればやってくれるだろう。しかし、仕えている貴族の令嬢相手に一体誰が本気で相手してくれるだろうか。
『森でクマでも探すか……』
……公爵領の森にクマいるかな。本当は前世の親友、朔弥のみたいな奴がいれば話しは早いんだが。
「お、お嬢様どちらへ!?」
『私も練習相手が欲しいわ。』
お嬢様言葉にも慣れてきたな。このクロエの順応性の高さが前世の俺にもあれば、もう少し違った人生だったかもしれない。
『あっ、君は……』
「っ!」
『メイソン?』
木の陰から顔を覗かせていたメイソンは、クロエと目が合うと木の陰にしゃがみ込んで隠れた。
そういえば、クロエはまだ一度もメイソンと話していなかった。それどころではないからすっかり頭から抜け落ちていた。
『ごきげんよう、メイソン。お散歩?』
「あ、の」
予想外の言葉だったのか、驚いて顔を上げたメイソンに微笑みかける。すると、メイソンは顔を赤らめて恥じらい始めた。
あっ、いいこと思い付いた。いいのがいるじゃねぇか。こいつにしよう。
クロエはクスッと笑い、メイソンの手を引く。突然のことにメイソンは驚きと困惑であたふたとする。
『シリウス様、メイソンも一緒によろしいですか?』
「はい?お嬢様、坊っちゃんにはまだ……」
『男の子はすぐに大きくなるわ。メイソン、一緒に強くなりましょ。』
それで俺の相手になれよ。
メイソンは初め、戸惑いながら小さな体で剣を振り回していた。シリウスのおかげで、メイソンも少しずつ上達してまた一ヶ月が過ぎた。
まだメイソンと一対一で勝負をすることはできない。しかし、クロエの腕を見込んだシリウスが相手してくれるようになり、騎士の中でも相手してくれる者が増えた。勿論クロエは【怪力】が発揮されないように注意していた。そのおかげで【怪力】の扱いにも慣れてきた。
「姉上っ!姉上っ!今日は負けません!」
『メイソン、今日は乗馬の日。』
先週からクロエとメイソンは乗馬の時間ができた。エドガーはメイソンに乗馬をさせたがり、メイソンはクロエと離れたくなくて駄々をこねた。クロエとしても乗るとは思っていなかった馬に興味が出て、エドガーに頼んだ。
エドガーは渋ったがエイダンとミーナの説得に折れたのだった。
メイソンたちが来てからのエドガーは変わった。クロエの5年間で彼がクロエを視界に入れるのは数えるほど。ほとんどを王都で過ごしていたエドガーは帰ってくることと稀だった。
しかし、俺にはどうしてもエドガーがクロエを嫌っているようには見えない。希望的観測だろうか。
それからミーナのこと。彼女はクロエにもメイソンと同様に可愛がっていた。だから俺には困っていることがある。5年間のクロエの記憶、クロエの想いは俺に刻まれている。
クロエが生まれてすぐ亡くなった母。一年ほどしか一緒にいなかった母の存在、記憶がクロエにとっての心の支えだったのだ。
「あらあらっ!クロエちゃん、メイソンをよろしくね。」
『……はい』
だから、俺は……クロエはミーナをお母様とは呼べなかった。
公爵令嬢として、いつかクロエはどこかへ嫁ぐことになるだろう。後継者はメイソンがいるのだから。
その前にお払い箱になるかもしれない。元妻の子供で、クロエの容姿は完全なる母似。エドガーならしてもおかしくない。そのくらいエドガーとクロエの関係は冷えきっていた。
朝食は家族でとるのが日課となりつつある。クロエはそれが嬉しくもあり居心地の悪さもあり、複雑だった。
乗馬の時間となり、着替えて馬小屋に行くと馬屋番のロンが馬に乗せてくれた。まだ小さなメイソンにはクロエの愛馬、ポニーのポーちゃんに乗せてくれた。
昼食はメイソンとピクニックバケットを持って木陰で食べることになっている。もうすぐアンがピクニックバケットを持って現れるはずだった。しかし、アンの代わりに姿を現したのはミーナだった。
「母上っ!」
「メイソン、お馬さんとは仲良くなれた?」
「うん!」
「クロエちゃん、私も一緒に食べていいかしら?」
メイソンが眩しい笑顔でクロエに「いいよね!」と言う。クロエはそれに頷くしかなかった。
「姉上は凄いんだよ!剣もポニーもなんでも得意なんだ!」
『じきにメイソンの方が上手くなる。』
体つきも、体力も女のクロエでは敵わなくなるだろう。今まだ幼いから。
ところで、ミーナがここに来たのはただ食事に来ただけではないだろう。本題があるのを気付かぬフリをする。
「あの、クロエちゃん……美味しい?」
『はい。でも、いつもと違う気がする。』
「今日のランチは私が作ったの。お口に合って良かった!」
『ミーナさんは料理が得意なんですね。とても美味しいです。』
「ミーナ、さん……」
ロナウドとは違う。俺にとっては少し懐かしく感じる味つけ。
『ミーナさんはお父様と何処で出会ったの?』
「エドガー様とは、王宮で出会ったのよ。私は王宮でメイドとして働いていたの。」
出会った時を思い出したのか、ミーナは恥ずかしそうに柔らかく微笑んだ。幸せそうな笑顔に、お母様の顔が脳裏によぎる。
そういえば、お母様も体調が悪いのに幸せだと笑ったいた。クロエがいて、あの頃のエドガーは優しかった。
────「あなたとクロエもっと生きたかった」
お母様の最後の言葉を思い出す。もう、思い出すのはやめようと決めたのに。クロエは胸を締め付けられる想いでエドガーのいる屋敷を振り返った。
「クロエちゃん、すぐにじゃなくていいの。あなたからしたら、私は突然来た知らない女だもの。でもね、私はあなたのお母さんになりたいわ。少しずつでいいの。考えてくれる?」
ふと頭にスマホ片手に涙する親友を思い出す。たしかアイツはヒロインの幼少期が健気だの可愛いだの尊いなど言っていたな。たしか見せられた画面はミーナとクロエが大きな木の側で語り合うシーン。
あれ、それ今じゃね。このシーンはクロエがミーナを「お母様」と呼ぶんだったか。クロエの唇は震えて「お母様」と紡ぐことは叶わない。
おまけにゲームのこのシーンではメイソンはいなかった。メイソンとクロエはお互いを気にしすぎて和解するのは本編の誰かのルートだったんだ。誰のルートだ?また寝る前にプレイしていた奴等の言葉を思い出さなければ。
その前に今は目の前にいる継母だ。クロエの胸は小骨が刺さったようにチクチクしていた。クロエが向き合うべき人間は他にいる。
『……ミーナさんは、私が嫌いじゃないの?』
クロエがミーナとメイソンを見たときに、もう自分はいらないのだと悟り傷付いたのだ。エドガーが愛しているのは、必要としているのは、瞳に写す者は────もうクロエでも亡き母ではないのだと。
「そんなこと思ったことないわ!」
ミーナは食いぎみに否定すると、大きな瞳に涙を溜めながらクロエを抱き締めた。お母様が死んでから、クロエがアン以外に抱き締められたのはこれが初めてだった。
飢えていたぬくもりに、クロエの目からは静かに雫が溢れ落ちた。
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