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七賀ごふん@夫婦オメガバ配信中

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Growing

#2

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窓の外に見える空は音枝が好きな藍色に染まっている。
またその前に佇むのは月と遜色ない美貌の青年。
部屋と窓に挟まれた状態で、タブレットを持ち直し咳払いした。

「……体調はいかがですか」
「開口一番いつもそれだね。すこぶる調子良いよ」

白喋は軽く笑うと腕を伸ばし、頭の後ろで手を組んでみせた。

「俺に用ですか」
「用というか、いつもの健康観察です。それも今終わりました……って、ちょっと!?」

話してる最中だというのに手首を掴まれ、白喋の部屋の中に引き込まれてしまった。明かりがついてない為、お互いの姿を認識するのに必死だ。加えていつかの焦燥感が蘇る。
「な、何ですか」
「いやー、こっちは大丈夫かな、と思って」
ドアを背にした体勢で、白喋が前にぐっと乗り出す。彼とドアに押し潰されてしまうのではと警戒したが、彼の手が腰に回るだけだった。
だけだった、というのもおかしい。大問題だ。
「ちょちょちょっ! どこ触ってんだ!」
「お尻」
狼狽えることなく即答し、白喋は音枝のベルトを外しにかかってきた。

「やめっ無理! これから夕食が……」
「分かってるよ。抱こうとしてるわけじゃないから安心して」

じゅっ、と耳朶に熱いものがあたる。彼の柔らかな舌だと気付いたら、のたうち回りたいぐらい熱くなった。
冷水を頭からかけられないと戻れない気がする。ちょっと触られただけでこんなになるなんて異常なのに、さらに彼に体重を預けてしまっていた。
ズボンを引っ張り、下着をまさぐり、後ろの谷間に指がするする下りていく。

嫌だ……怖い。そう思うのに、身体は動いてくれない。従順に白喋から与えられるものを待っている。

「ここ、痛くないですか?」

到達したのは、数日前に彼のものを受け入れた場所。……昨日もひとりで少し弄った場所だ。
「アルファはオメガよりこっちの回復機能も劣るから。音枝さんがちゃんと生活できてるか心配で」
「大……丈夫。痛くない」
子どものように幼い声が出てしまった。鼻で笑われそうな気がしたが、彼は何も言わず頭を撫でてきた。

「良かった」

それ以上は特に何をするでもなく、せいぜい五分ほどで部屋を出た。念入りに手を洗うよう伝え、夕食の時間に遅れないよう袖を引く。
誰もいない廊下をゆっくり進む。このまま事務所まで、誰にも会わないことを切に祈った。

きっと今の自分はしようもない顔をしている。







長い夜がまた始まる。
入所者全員の食事が終わり、消灯の時間が迫り来る。別棟の入所者達も食事が終わり、対応に当たった職員が空の食器を持って戻ってきた。
「そういえば、もう十月ですねぇ」
「そうですね。年末まであっという間かな」
「あはは、施設長ってお若いのに言うことがおじさんなんだから。時の流れで鬱になるのは私達みたいに四十五十を過ぎてからですよ」
せめて三十路に入ってから感傷に浸ってくださいと言われ、なるほど確かに、と頷いた。

枯れているのは体ではなく心だ。音枝の同年代はもう少し生き生きしてるだろうし、休日は力いっぱい遊んでいる。仕事しかない音枝が平均より老いて感じてしまうのは当然のように思えた。
「今年はどれだけの人が、実家に帰れるでしょうね」
一般の部屋には、白喋と同じく近親者がいるオメガがいる。一時的に引き取ってくれる人がいること、居場所がここだけではないこと、そういったオメガ達は幸せだ。

ここが人生の終の住処ではいけない。今は暗い牢獄のような部屋に入れられているオメガ達も、いつかもっと良い環境に移せないだろうか。
ぬるくなった珈琲を手にし、小さく息をついた。
少しずつ、慎重に箱から取り出し、壊れないよう言葉を紡いでいく。

「実は、漠然と考えてることがあるんです。この施設の受け入れ人数をもう少し減らせないかって」
「へえ?」
「行き場をなくしたオメガ達はたくさんいる。だからなるべく大勢を保護できる施設は必要だと思います。でもここはそういうシェルター的な場所ではなく、自立を目指す場所にしたい。ただ今の職員の数では手厚いサポートをすることができないでしょう。ひとりひとりのケアの質を高める為に、まずは今居る方達の新たな居住地を探していきたい」

そしていつか、自分もこの施設を手放す。元々この施設に執着する理由は何もない。父の負の遺産としか思えず、渋々管理を引き受けていただけだ。
でも今になって初めてやりたいことを見つけた。初めてオメガ達の……いや、人の為になにかしたいと思った。
何故だろう。

「何か……驚きました。いや、驚いたって失礼でしたね。でも施設長がそんな風にお考えだったと知って、すごく嬉しいです。私達もできる限り頑張るので、何かあれば仰ってください」
「……ありがとうございます。まだ先の話ですが……その時は宜しくお願いします」

答えると、職員はまた驚いた顔をし、それから「お先に失礼します」と微笑んだ。
偶然近くにあった鏡を見てハッとする。また無意識に笑っていたみたいだ。
今までは意識しないと笑顔なんて作れなかったのに、どうして急に笑えるようになったんだろう。それも笑顔が必要なわけじゃない時に。
考えても分からないので、パソコンの画面に向き合う。残った事務作業を巡回の時間までに終わらせられるよう集中した。
その施設によるが、ウチのように比較的軽い施設の巡回は四時間毎でも問題ない。日付が変わるか変わらないかという頃、データ入力用のタブレットを持ってひとつひとつの部屋を回った。全て鍵が掛かっているので、中が見える小さな窓から覗き込む。起きていても寝ていても、入所者が居れば問題ないと認識だ。さすがに一時を回って起きていたら声を掛けるが、今の時間は読書やテレビを観ていてもそっとしている。

別棟も特に異常は見当たらなかった。巡回だけでそれなりに時間が掛かるので、後は事務所に戻って休憩となる。当直した次の日はフリーとなり休日なので、ある意味気楽でもあった。
だからなのか……彼を一番最後に回してしまったのは。
「ふぅ……」
巡回最後の部屋。目の前には白喋のネームプレートが飾ってある。明かりが点いていたのでそっと部屋の中を覗き込むと、やはり白喋が椅子に腰掛けて本を読んでいた。
凛とした横顔。横向きでも視線が本に注がれ、集中していることが伺える。頁を捲る長い指も、少し猫背の姿勢も、言葉にできない魅力があった。
ただそこにいるだけなのに目が離せない。彼はそういう存在らしい。
「!」
声を掛けるつもりはなかったのに、ずっとその場にいたせいで気付かれてしまった。慌てて扉の窓からずれるが、中から影が見えているようだ。足音が近付き、白喋の声が聞こえた。

「どちらさま?」
「あ……俺」
「あぁ、音枝さん」

可笑しそうな笑い声が聞こえた後、鍵を開ける音が鳴った。横付けの扉が開き、自分より頭ひとつ高い白喋が現れる。
「でも“俺”って……施設の中でも油断はできないから、ちゃんと名前を名乗ってくれないと不安になりますよ。声で分かったからいいけど」
「それはすみませんでしたね。……それと不安なら無視すればいい」
いつもながら、敬語で喋った方が良いのかよく分からない。
白蝶も同じ調子で、その時々で百八十度変わる。ちょっとでも感情の振れ幅が変わると乱暴な言葉使いになるし、彼との適切な距離は本当に難しい。この施設で最も苦手だ。
それでも誘われるまま部屋の中へ入った。自分が何をしたいのか、それも理解できない。

「遅くまで読書ですか。勉強熱心ですね」

小さな白いデスクには洋書が何冊か置かれてある。ちらっと見えた中は全て英文で、思わず眉を顰めた。英語が苦手なわけではないが、どうせなら翻訳されたものが読みたい。そもそも読書自体とても体力がいるものなのだ。

「勉強じゃありませんよ。物語に没入するのは良い気分転換で、リラックスと同じですから。ネットサーフィンより良いでしょ?」
「……せっかくパソコンをお持ちなのに全然使ってないみたいですね」

施設ではネットの使用は許可されている。デバイスさえ持っていれば何の制限もない為、ビジネスホテルと変わらない快適さだ。白喋は以前の経歴からパソコンは手放せない生活を送っていただろうに、今は全く触れてないように見えた。
「調べたいことがある時はもちろん使いますけど。せっかく時間がたくさんあるから、今は本を読みたいと思って」
「健康的で何よりです。貴方は……精神レベルでも経済面でも、いつでもここを出ていける」
タブレットを机に置き、音枝は腕を組んだ。佇んだまま、ベッドに腰掛けた白喋を尻目にため息をつく。

「出ていきたくても体調や精神が安定しなかったり、仕事や住居が見つからなかったり。治療が必要なのに受け入れてくれる病院が見つからないオメガもいる。社会に出て生きていくことが第一の課題なのに、そもそもここを出ていくハードルが高過ぎて困ってます」
「ほぉ? 正直に困ってるって言うなんて……音枝さん変わりましたね。それとも俺にだけ心を開いてくれてるのかな」
「茶化さないでください」

にやにやしながら頬杖をつく白喋を睨めつけ、空いた椅子に腰を下ろす。

「こんな話、貴方にしかしません。貴方は追い詰められてここへ来たわけじゃない。いつでも社会に戻れるし、いくらでも発言できる立場に就ける。ここにいるべきではない人だから話してるんです」
「つまり助言を求めてるということですか? それとも、……能力があるんだからここから出ていけ、ということかな」

白喋の切れ長の瞳がさらに細くなる。口元は笑みを浮かべたまま、歌うように零した。

「俺みたいにせっかちな人間を相手にする時は、単刀直入に伝えることも大事ですよ」
「…………」

彼の視線が突き刺さる。これまた困ったことに、助言を求めるつもりも退所をすすめるつもりもなかった。

それでも後者の方がまだ近いかもしれない。詰まるところ社会に出ればそれなりの権限を持ち、自分にない知識や経験も有している。狭い職場と限られた交流関係で生きている音枝にとって、白喋は対等な立場で意見交換できる貴重な存在だ。
本来ならこんな場所にいてはならないが、……まだその準備をしたくない、というのも本音だ。




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