人知れずあなたを想う

hiro

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日常

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7時58分、ロケバンのスライドドアが開く。

「おはよーございまーす。……うぉ、寒っ」

片桐誠司が乗り込んでくるなり、車内にふわりと冷たい空気が流れ込んだ。
運転席から軽く会釈した白井理沙に、彼はいつものように笑いながら声をかける。

「白井さんってさ、ほんと、エンジンより早く起動してるよね」

「片桐さんの到着予定時刻は7時57分で、遅れは1分以内です。問題ありません」

「いや、そういうことじゃなくてさ。感覚の話っていうの? なんていうか……常にONって感じ」

白井は正面を向いたまま、シートベルトを締め直す。

「ありがとうございます」

「褒めた……のかな、俺。ま、いいか」

片桐は笑いながら後部座席に体を沈め、足を組んだ。

「今日の現場って、あれだよね? ちょっと前に行ったあの、橋の下の……」

「違います。今日は都内スタジオ。橋の下のロケは来週の木曜です。衣装も違います」

「……俺の脳内カレンダー、もしかして月曜で止まってるかもしんない」

「今日が金曜であることを考えると、記憶の更新頻度がやや低いです」

「それ、AIに言われたらほんとぐうの音も出ないやつ」

「私はAIではありません」

「いや知ってるけどさ」

「良かったです」

「でも、俺の予定とか、たまに俺より覚えてるじゃん」

「あなたが覚えていないことが多いので、代替しているだけです」

「今日も冷静だ、ありがとう」

信号待ちで車が止まると、白井は少しだけ振り返る。目線は変えずに資料のファイルを差し出す。

「今日の段取りです。移動後すぐにスタジオ入り。10時からスチール撮影、11時半にヘアメイク。控室Bにスタッフがいますので、案内してもらってください」

「うい。了解……ってか、毎回思うけど、“控室B”とか言われても俺わかんないからね?」

「廊下突き当たり左側の部屋、昨日メールした図面にも記載があります」

「昨日の夜のメール、まだ開いてないや」

「想定内です」

「それを想定するのも、ちょっと切なくない?」

「切なくありません」

会話が切れた瞬間、車内に小さな静けさが落ちた。
片桐がジャケットのポケットからスマホを取り出し、しばらく画面をタップする音だけが続く。

やがて彼がふと思い出したように口を開く。

「そういえばさ、白井さんって休みの日、何してんの?」

「何もしていません」

「いやいや、“何も”は嘘でしょ。どっか出かけたり、誰かとご飯食べたり……」

「予定がなければ、部屋の掃除か、スケジュールの整理です」

「……なんか泣きそうになってきた」

「泣く理由がわかりません」

「白井さんってほんと、ブレないよね。すごいわ」

「ありがとうございます」

また沈黙。
でも、それはどこか心地よい種類のものだった。

片桐は天井を見上げたまま、ひとつだけぼそりと呟く。

「白井さん、さ……たまにでいいから、“疲れた”とか“面倒くさい”とか言ってもいいんだよ?」

白井は無言だった。けれど、その言葉を否定も肯定もしなかった。

アクセルが軽く踏まれる音とともに、ロケバンはゆっくりと発進した。

決められた順路を、いつも通りに。




スタジオに着いたのは9時38分。
白井の計算では、理想的な到着時間は35分だったが、交差点の一時的な混雑があったことを考えれば、誤差として許容範囲内だった。

「さっすが、分刻みマネジメント」

片桐がロケバンを降りながら言う。

「時間を守るのは、社会人の最低限のマナーです」

「わかってますよ~。ただそれが苦手な社会人もいるだけで」

「そういった方には、補助が必要です」

「補助……俺、ついに介護対象?」

「いえ、まだ“要支援1”です」

「やばい、ちょっと傷ついたかも」

片桐は苦笑いしながらエントランスをくぐり、白井は後ろから静かに歩調を合わせる。
スタジオ内はすでに撮影準備が進んでおり、スタッフが慌ただしく動き回っていた。

「おはようございます~!」

メイクルームに入ると、若い女性スタッフが頭を下げ、鏡前の椅子を片桐に促す。

「衣装はこちらに。先に着替えてください」

白井が手早く衣装袋を開き、中身を確認してから片桐に手渡す。

「本日、黒のジャケットとグレーニット。パンツはテーパードです。サイズ、事前に確認済みです」

「この“服の説明”って毎回思うけど、俺より俺の服わかってるよね」

「当たり前です」

「俺って誰なんだろう」

「服を着る人です」

「雑ゥ!」

着替え終えた片桐が出てくる頃には、すでにスタジオの照明テストが始まっていた。
スチール撮影のカメラマンが軽く片桐に手を振る。

「立ち位置こちらです。では、いきまーす」

パシャッ、パシャッ、とシャッターの音が連続で響く。
片桐は慣れた様子で表情を変え、ポーズをとりながら時折ふざけた笑顔を差し込む。

「真面目な顔10枚に1枚、“脱力顔”ね~」

「いつも通りでーす」

「白井さーん、また表情チェックお願いしまーす!」

「はい。確認します」

スタッフからモニターを渡され、白井は撮影画像を冷静にスキャンする。

「右頬に少し影が入りすぎています。ライトの角度、2度ほど下げてください」

「おっけー、さっすがSiri! マジで精度高い!」

スタッフが笑いながら親指を立てる。
白井はそれに対して、短く頷くだけだった。

控え室に戻ったのは11時22分。
片桐は椅子にどっかり座りながら、ネクタイを緩めた。

「はあ~、がんばった。俺、今すごいがんばった」

「いい調子です。がんばり続けてください」

「鬼だ……いや、白井さんは合理だ」

「ありがとうございます」

「褒めてないよ?」

「そうですか」

するとそこへ、メイクスタッフがやってきた。

「片桐さん、お疲れさまです。メイク、入っていいですか~?」

「はーい、どうぞどうぞ。もう僕、されるがままですから」

「さすが、現場慣れしてる~」

椅子に座ったまま、片桐は白井の方をちらりと見る。

「白井さん、今日の俺の顔だいじょぶそう?」

「肌コンディション、少し乾燥気味ですが、メイクで対応可能です。目の下、クマは目立ちません」

「完璧に答えるなあ……」

「あなたが完璧でない分、他が完璧に補えばいいだけです」

「それってつまり、俺は常に“欠陥前提”ってこと……?」

「言い換えると、“伸びしろ”が大きいということです」

「……やだ、ちょっと勇気出た」

そのやりとりを聞いていたメイクスタッフがクスッと笑い、白井も表情を崩さずに小さく一礼する。

それから、収録は13時45分から。
トーク番組のゲストとして出演する片桐は、スタッフとの最終打ち合わせを済ませたあと、収録前の静かな控え室で目を閉じていた。

白井は隣の椅子に静かに座って、台本を開きながら声を出さずに段取りをなぞる。

喋らない時間。
でもそこに流れる空気は、静かで、温かかった。

やがて時間となり、スタッフが呼びに来る。

「片桐さん、お願いします!」

「ほいさ~、いってきまーす」

軽い足取りで部屋を出ていく背中に、白井は静かに立ち上がり、わずかに頭を下げる。
言葉はなかった。けれど、それは日常に溶け込んだ、確かなひとつの“儀式”だった。






13時45分、番組収録開始。

白井はモニタールームの片隅に立ち、台本を手に、誠司の発言と進行内容のずれを確認していく。
相変わらず、彼はよく喋る。よく笑う。
用意されたトークテーマからはすぐ脱線し、MCに突っ込まれては、はにかみながら話を戻す。

「あれってほんとにアドリブなんですか?」と、隣の番組スタッフが小声で聞いてきた。

「……本人の中では、すべて“計算通り”のようです」

白井は短く答える。
本当に計算なのかはわからない。けれど、彼はいつもその“ゆるさ”を武器に変えていく。
誰に教えられたわけでもなく、それが彼の自然体であり、芸能歴18年でようやく掴み始めた武器でもあった。

片桐誠司――40歳。芸歴は無駄に長い。
だが、無駄な時間など一度もなかったと本人は言う。
少し前までは「雰囲気はあるけどパッとしない俳優」だった彼が、いま注目を集めているのは、今年春から放送中の連続ドラマでの好演によるものだった。

本日のスケジュールは、そのドラマの番宣である。

ようやく陽が当たってきたこのタイミングで、本人にその自覚があるのかどうか、白井にはよくわからない。

収録が終わったのは15時すぎ。
休憩を挟んで17時からのインタビューに備える間、白井と誠司は楽屋で待機していた。

ソファに横たわるように寝転がった誠司が、片手を挙げて言う。

「白井さん、なんか甘いものない? 脳みそが砂糖を欲してる気がする」

「楽屋の冷蔵庫に、プリンが一つあります。スポンサー提供品です。口にする際はインタビュー前に歯を磨いてください」

「さすが。何でも出てくる自販機……いや、Siri。ほんとSiri」

「私は白井です」

「白井Siri」

「……プリン、食べますか?」

「はい。お願いします」

プリンを受け取った誠司がスプーンをくるくる回しながら言う。

「さっきの番組、どうだった? 俺、なんかやらかしてない?」

「14分間、予定から話が逸れましたが、編集で問題ありません。キーワードは全て回収されています」

「なるほど、そういうの冷静に言ってくれるの助かる~」

「自覚があるのなら、逸れないよう努力してください」

「それができたらとっくに売れてるわけで……」

冗談のように笑って、また一口、プリンをすくう。
白井は机の上でインタビューフォーマットを確認しながら、時間を確認する。

「16時45分にインタビュールームへご案内します。それまで、資料を目通ししてください」

「はーい。てか、白井さんも疲れたでしょ?」

「疲れていません」

「うわ、それ出た。“私は感情を持ちません”モード」

「モードではなく、通常状態です」

「ほんとサーバーでも積んでるんじゃない?」

「意味がわかりません」

プリンのカップを空にした誠司が、紙袋に手を突っ込み、ぐしゃぐしゃに畳んだ台本を取り出す。

「これ、今日の台本……あれ? なんかよれてんな」

「あなたの鞄の中で6時間以上圧縮されていたことが原因です」

「やだ、それって俺のせい……?」

「はい」

「……今日も傷だらけでがんばる俺。評価してあげてほしい」

「検討します」

そのままの流れで、インタビューは定刻通り開始された。
誠司は柔らかな口調で話しながら、要所要所に“らしい”脱線をはさみ、笑いを取っていく。

白井はそれを黙って記録する。
インタビュアーが彼に「今、最も感謝している人は?」と尋ねたとき、彼は少し間を置いてから、言った。

「そうだなあ……スタッフさんとか、マネージャーとか……日々助けられてるんで。たぶん俺、一人じゃ靴ひもすら結べてないんで」

インタビュアーが笑いながら突っ込む。

「謙遜しすぎじゃないですか?」

「いや、わりとリアルにそう思ってます。たぶん、みんなに背中押してもらって、やっと立ってる感じです」

白井はメモを取る手を止めず、反応も見せなかった。
けれど、インタビュー後、控え室に戻る途中――

「さっきの、あまりに情けなかったかな」

そう尋ねてきた誠司に、彼女は珍しく、ほんのわずかだけ間を置いてから答えた。

「……よかったと思います。少しだけ、等身大でした」

「うわ、珍しい。よかったって言われたの、俺、初めてかも」

「良かった時は良かったといいます」

「今までは何だったのよ」

ロケバンのドアを開け、彼が先に乗り込むのを見届けてから、自分も静かに乗り込む。

エンジン音とともに、また次の予定へと向かっていく。
日常の延長線。その繰り返し。
白井理沙は、それを“仕事”と呼び続ける。









20時14分、全ての仕事を終え、自宅着。
鍵をかけ、靴を脱ぎ、バッグを所定の位置に置く。
床に並ぶスニーカーの先がわずかに右へずれていた。すぐに揃える。

部屋は静かで、温度は22.5℃。湿度43%。
湿度が下がりすぎないよう、加湿器のスイッチを入れる。
エアコンの風向きを確認。風速“弱”。問題なし。

着替えは黒のルームウェア。いつものもの。
髪を結い直し、照明を一段階落とす。
部屋の中から、音という音が消える。

21時、電気ケトルが湯気を立て始める。
温度は85℃。カモミールティー。カップは薄手の白磁。

テーブルに座り、静かにひとくち。
舌先にやわらかい甘さ。身体がじんわり温まる。

ノートを開き、今日の業務内容を手早くまとめる。
書き終えると、手元をじっと見つめる。
そして、ため息ではない何かが、音もなく口から零れた。



「……なんであんなに、かっこいいんだろう。困ってしまう」



小さな声。
誰にも聞かれない。聞かれるべきでもない。

肩を落としたまま、カップを傾ける。
一口ごとに、内側のざわつきを流すように。

「一人じゃ靴ひもも結べないって……そんなことをあんな顔で言うんじゃないわよまったく。あんなふうに言われたら……なんか、何でもしてあげたくなっちゃうじゃない。なに、馬鹿なの?確信犯なの?」

気づけば、両手でカップを抱えていた。
指先に熱が伝わる。それを感じるのに、ずいぶん時間がかかった。

「だめだな。うん、ちょっと、今日はだめだったかも」

そう呟いて、時計を見上げる。

21時32分。

今日も白井理沙は頑張った。
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