人知れずあなたを想う

hiro

文字の大きさ
2 / 2

日常

しおりを挟む
7時58分、ロケバンのスライドドアが開く。

「おはよーございまーす。……うぉ、寒っ」

片桐誠司が乗り込んでくるなり、車内にふわりと冷たい空気が流れ込んだ。
運転席から軽く会釈した白井理沙に、彼はいつものように笑いながら声をかける。

「白井さんってさ、ほんと、エンジンより早く起動してるよね」

「片桐さんの到着予定時刻は7時57分で、遅れは1分以内です。問題ありません」

「いや、そういうことじゃなくてさ。感覚の話っていうの? なんていうか……常にONって感じ」

白井は正面を向いたまま、シートベルトを締め直す。

「ありがとうございます」

「褒めた……のかな、俺。ま、いいか」

片桐は笑いながら後部座席に体を沈め、足を組んだ。

「今日の現場って、あれだよね? ちょっと前に行ったあの、橋の下の……」

「違います。今日は都内スタジオ。橋の下のロケは来週の木曜です。衣装も違います」

「……俺の脳内カレンダー、もしかして月曜で止まってるかもしんない」

「今日が金曜であることを考えると、記憶の更新頻度がやや低いです」

「それ、AIに言われたらほんとぐうの音も出ないやつ」

「私はAIではありません」

「いや知ってるけどさ」

「良かったです」

「でも、俺の予定とか、たまに俺より覚えてるじゃん」

「あなたが覚えていないことが多いので、代替しているだけです」

「今日も冷静だ、ありがとう」

信号待ちで車が止まると、白井は少しだけ振り返る。目線は変えずに資料のファイルを差し出す。

「今日の段取りです。移動後すぐにスタジオ入り。10時からスチール撮影、11時半にヘアメイク。控室Bにスタッフがいますので、案内してもらってください」

「うい。了解……ってか、毎回思うけど、“控室B”とか言われても俺わかんないからね?」

「廊下突き当たり左側の部屋、昨日メールした図面にも記載があります」

「昨日の夜のメール、まだ開いてないや」

「想定内です」

「それを想定するのも、ちょっと切なくない?」

「切なくありません」

会話が切れた瞬間、車内に小さな静けさが落ちた。
片桐がジャケットのポケットからスマホを取り出し、しばらく画面をタップする音だけが続く。

やがて彼がふと思い出したように口を開く。

「そういえばさ、白井さんって休みの日、何してんの?」

「何もしていません」

「いやいや、“何も”は嘘でしょ。どっか出かけたり、誰かとご飯食べたり……」

「予定がなければ、部屋の掃除か、スケジュールの整理です」

「……なんか泣きそうになってきた」

「泣く理由がわかりません」

「白井さんってほんと、ブレないよね。すごいわ」

「ありがとうございます」

また沈黙。
でも、それはどこか心地よい種類のものだった。

片桐は天井を見上げたまま、ひとつだけぼそりと呟く。

「白井さん、さ……たまにでいいから、“疲れた”とか“面倒くさい”とか言ってもいいんだよ?」

白井は無言だった。けれど、その言葉を否定も肯定もしなかった。

アクセルが軽く踏まれる音とともに、ロケバンはゆっくりと発進した。

決められた順路を、いつも通りに。




スタジオに着いたのは9時38分。
白井の計算では、理想的な到着時間は35分だったが、交差点の一時的な混雑があったことを考えれば、誤差として許容範囲内だった。

「さっすが、分刻みマネジメント」

片桐がロケバンを降りながら言う。

「時間を守るのは、社会人の最低限のマナーです」

「わかってますよ~。ただそれが苦手な社会人もいるだけで」

「そういった方には、補助が必要です」

「補助……俺、ついに介護対象?」

「いえ、まだ“要支援1”です」

「やばい、ちょっと傷ついたかも」

片桐は苦笑いしながらエントランスをくぐり、白井は後ろから静かに歩調を合わせる。
スタジオ内はすでに撮影準備が進んでおり、スタッフが慌ただしく動き回っていた。

「おはようございます~!」

メイクルームに入ると、若い女性スタッフが頭を下げ、鏡前の椅子を片桐に促す。

「衣装はこちらに。先に着替えてください」

白井が手早く衣装袋を開き、中身を確認してから片桐に手渡す。

「本日、黒のジャケットとグレーニット。パンツはテーパードです。サイズ、事前に確認済みです」

「この“服の説明”って毎回思うけど、俺より俺の服わかってるよね」

「当たり前です」

「俺って誰なんだろう」

「服を着る人です」

「雑ゥ!」

着替え終えた片桐が出てくる頃には、すでにスタジオの照明テストが始まっていた。
スチール撮影のカメラマンが軽く片桐に手を振る。

「立ち位置こちらです。では、いきまーす」

パシャッ、パシャッ、とシャッターの音が連続で響く。
片桐は慣れた様子で表情を変え、ポーズをとりながら時折ふざけた笑顔を差し込む。

「真面目な顔10枚に1枚、“脱力顔”ね~」

「いつも通りでーす」

「白井さーん、また表情チェックお願いしまーす!」

「はい。確認します」

スタッフからモニターを渡され、白井は撮影画像を冷静にスキャンする。

「右頬に少し影が入りすぎています。ライトの角度、2度ほど下げてください」

「おっけー、さっすがSiri! マジで精度高い!」

スタッフが笑いながら親指を立てる。
白井はそれに対して、短く頷くだけだった。

控え室に戻ったのは11時22分。
片桐は椅子にどっかり座りながら、ネクタイを緩めた。

「はあ~、がんばった。俺、今すごいがんばった」

「いい調子です。がんばり続けてください」

「鬼だ……いや、白井さんは合理だ」

「ありがとうございます」

「褒めてないよ?」

「そうですか」

するとそこへ、メイクスタッフがやってきた。

「片桐さん、お疲れさまです。メイク、入っていいですか~?」

「はーい、どうぞどうぞ。もう僕、されるがままですから」

「さすが、現場慣れしてる~」

椅子に座ったまま、片桐は白井の方をちらりと見る。

「白井さん、今日の俺の顔だいじょぶそう?」

「肌コンディション、少し乾燥気味ですが、メイクで対応可能です。目の下、クマは目立ちません」

「完璧に答えるなあ……」

「あなたが完璧でない分、他が完璧に補えばいいだけです」

「それってつまり、俺は常に“欠陥前提”ってこと……?」

「言い換えると、“伸びしろ”が大きいということです」

「……やだ、ちょっと勇気出た」

そのやりとりを聞いていたメイクスタッフがクスッと笑い、白井も表情を崩さずに小さく一礼する。

それから、収録は13時45分から。
トーク番組のゲストとして出演する片桐は、スタッフとの最終打ち合わせを済ませたあと、収録前の静かな控え室で目を閉じていた。

白井は隣の椅子に静かに座って、台本を開きながら声を出さずに段取りをなぞる。

喋らない時間。
でもそこに流れる空気は、静かで、温かかった。

やがて時間となり、スタッフが呼びに来る。

「片桐さん、お願いします!」

「ほいさ~、いってきまーす」

軽い足取りで部屋を出ていく背中に、白井は静かに立ち上がり、わずかに頭を下げる。
言葉はなかった。けれど、それは日常に溶け込んだ、確かなひとつの“儀式”だった。






13時45分、番組収録開始。

白井はモニタールームの片隅に立ち、台本を手に、誠司の発言と進行内容のずれを確認していく。
相変わらず、彼はよく喋る。よく笑う。
用意されたトークテーマからはすぐ脱線し、MCに突っ込まれては、はにかみながら話を戻す。

「あれってほんとにアドリブなんですか?」と、隣の番組スタッフが小声で聞いてきた。

「……本人の中では、すべて“計算通り”のようです」

白井は短く答える。
本当に計算なのかはわからない。けれど、彼はいつもその“ゆるさ”を武器に変えていく。
誰に教えられたわけでもなく、それが彼の自然体であり、芸能歴18年でようやく掴み始めた武器でもあった。

片桐誠司――40歳。芸歴は無駄に長い。
だが、無駄な時間など一度もなかったと本人は言う。
少し前までは「雰囲気はあるけどパッとしない俳優」だった彼が、いま注目を集めているのは、今年春から放送中の連続ドラマでの好演によるものだった。

本日のスケジュールは、そのドラマの番宣である。

ようやく陽が当たってきたこのタイミングで、本人にその自覚があるのかどうか、白井にはよくわからない。

収録が終わったのは15時すぎ。
休憩を挟んで17時からのインタビューに備える間、白井と誠司は楽屋で待機していた。

ソファに横たわるように寝転がった誠司が、片手を挙げて言う。

「白井さん、なんか甘いものない? 脳みそが砂糖を欲してる気がする」

「楽屋の冷蔵庫に、プリンが一つあります。スポンサー提供品です。口にする際はインタビュー前に歯を磨いてください」

「さすが。何でも出てくる自販機……いや、Siri。ほんとSiri」

「私は白井です」

「白井Siri」

「……プリン、食べますか?」

「はい。お願いします」

プリンを受け取った誠司がスプーンをくるくる回しながら言う。

「さっきの番組、どうだった? 俺、なんかやらかしてない?」

「14分間、予定から話が逸れましたが、編集で問題ありません。キーワードは全て回収されています」

「なるほど、そういうの冷静に言ってくれるの助かる~」

「自覚があるのなら、逸れないよう努力してください」

「それができたらとっくに売れてるわけで……」

冗談のように笑って、また一口、プリンをすくう。
白井は机の上でインタビューフォーマットを確認しながら、時間を確認する。

「16時45分にインタビュールームへご案内します。それまで、資料を目通ししてください」

「はーい。てか、白井さんも疲れたでしょ?」

「疲れていません」

「うわ、それ出た。“私は感情を持ちません”モード」

「モードではなく、通常状態です」

「ほんとサーバーでも積んでるんじゃない?」

「意味がわかりません」

プリンのカップを空にした誠司が、紙袋に手を突っ込み、ぐしゃぐしゃに畳んだ台本を取り出す。

「これ、今日の台本……あれ? なんかよれてんな」

「あなたの鞄の中で6時間以上圧縮されていたことが原因です」

「やだ、それって俺のせい……?」

「はい」

「……今日も傷だらけでがんばる俺。評価してあげてほしい」

「検討します」

そのままの流れで、インタビューは定刻通り開始された。
誠司は柔らかな口調で話しながら、要所要所に“らしい”脱線をはさみ、笑いを取っていく。

白井はそれを黙って記録する。
インタビュアーが彼に「今、最も感謝している人は?」と尋ねたとき、彼は少し間を置いてから、言った。

「そうだなあ……スタッフさんとか、マネージャーとか……日々助けられてるんで。たぶん俺、一人じゃ靴ひもすら結べてないんで」

インタビュアーが笑いながら突っ込む。

「謙遜しすぎじゃないですか?」

「いや、わりとリアルにそう思ってます。たぶん、みんなに背中押してもらって、やっと立ってる感じです」

白井はメモを取る手を止めず、反応も見せなかった。
けれど、インタビュー後、控え室に戻る途中――

「さっきの、あまりに情けなかったかな」

そう尋ねてきた誠司に、彼女は珍しく、ほんのわずかだけ間を置いてから答えた。

「……よかったと思います。少しだけ、等身大でした」

「うわ、珍しい。よかったって言われたの、俺、初めてかも」

「良かった時は良かったといいます」

「今までは何だったのよ」

ロケバンのドアを開け、彼が先に乗り込むのを見届けてから、自分も静かに乗り込む。

エンジン音とともに、また次の予定へと向かっていく。
日常の延長線。その繰り返し。
白井理沙は、それを“仕事”と呼び続ける。









20時14分、全ての仕事を終え、自宅着。
鍵をかけ、靴を脱ぎ、バッグを所定の位置に置く。
床に並ぶスニーカーの先がわずかに右へずれていた。すぐに揃える。

部屋は静かで、温度は22.5℃。湿度43%。
湿度が下がりすぎないよう、加湿器のスイッチを入れる。
エアコンの風向きを確認。風速“弱”。問題なし。

着替えは黒のルームウェア。いつものもの。
髪を結い直し、照明を一段階落とす。
部屋の中から、音という音が消える。

21時、電気ケトルが湯気を立て始める。
温度は85℃。カモミールティー。カップは薄手の白磁。

テーブルに座り、静かにひとくち。
舌先にやわらかい甘さ。身体がじんわり温まる。

ノートを開き、今日の業務内容を手早くまとめる。
書き終えると、手元をじっと見つめる。
そして、ため息ではない何かが、音もなく口から零れた。



「……なんであんなに、かっこいいんだろう。困ってしまう」



小さな声。
誰にも聞かれない。聞かれるべきでもない。

肩を落としたまま、カップを傾ける。
一口ごとに、内側のざわつきを流すように。

「一人じゃ靴ひもも結べないって……そんなことをあんな顔で言うんじゃないわよまったく。あんなふうに言われたら……なんか、何でもしてあげたくなっちゃうじゃない。なに、馬鹿なの?確信犯なの?」

気づけば、両手でカップを抱えていた。
指先に熱が伝わる。それを感じるのに、ずいぶん時間がかかった。

「だめだな。うん、ちょっと、今日はだめだったかも」

そう呟いて、時計を見上げる。

21時32分。

今日も白井理沙は頑張った。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【短編】ちゃんと好きになる前に、終わっただけ

月下花音
恋愛
曖昧な関係を続けていたユウトとの恋は、彼のインスタ投稿によって一方的に終わりを告げた。 泣くのも違う。怒るのも違う。 ただ静かに消えよう。 そう決意してトーク履歴を消そうとした瞬間、指が滑った。 画面に表示されたのは、間の抜けたクマのスタンプ。 相手に気付かれた? 見られた? 「未練ある」って思われる!? 恐怖でブロックボタンを連打した夜。 カモメのフンより、失恋より、最後の誤爆が一番のトラウマになった女子大生の叫び。

白椿の咲く日~遠い日の約束

紫さゆり
恋愛
結婚を控えた真由子は、久しぶりに姉の稚子(わかこ)と会う。真由子の母、雪江は妻を亡くした水上実之(みなかみさねゆき)の後添いとして水上家に嫁いだ。実之には俊之、稚子、靖之の三人の子がいた。 稚子が話す庭の白椿のことを聞くうちに、真由子は雪江と白椿に何か関係があることに気がつき…… 大人の恋物語です。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...