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第12話
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僕はあれからボトルレターのように様々な店や路地を転々と揺蕩い、空に赤みが指す頃になってようやく小さな公園に落ち着いた。
途中、小さな八百屋で珍しく梨が売っていたので、その僕の瞳と同じ色をした、中学一年生まで熟しきってないリンゴと勘違いしていた梨を二つ買って、一つを廃れたこの公園で腰の後ろに挿した銃剣で剥いて食べていた。
刃渡り30センチ、柄も合わせたら50センチ近い長さを誇る、団長から賜った干戈弾頭用の特製の銃剣だ。これで梨を切ったなんてことが団長に知れたら、僕はダンベルで殴られるな。
僕はニヤッと笑いながら果汁が滴る白い梨の果肉にかぶりついた、手がベタつくけど水道があるから心配無い。
そういえば、生牡蠣の殻を剥いて身を振る舞う漁師は、生牡蠣も立派な料理だから料理人とも言うそうだけど、その理屈で言えば梨を綺麗に剥ける僕も料理人の範疇に入るんだろうか。
剥けた皮は地面に捨てる。美味しいものは一人で隠れてコソコソ食べるのが一番うまい。だいたい僕の身の回りにいるヤツは人が食べてるものを集ろうとするのが多すぎる。
僕は果汁が詰まった瑞々しい果肉に噛り付いていると、隅に一つだけポツンとある公衆便所からホームレスが出てきた。赤茶けた肌には真冬だというのに乾いた汗でこびり付いた灰色の頭髪が、男がいかに疲労困憊していることを告げていた。
何にせよ、痩けてエラが張った頬に無精髭が密生した老人に好意的な印象を受ける人間はあまりいないだろう。服装はゴミ捨て場から拾ってきたばかりなのか、盗品かは知らないけど、妙に真新しいジャンバーを羽織っている。
僕はなるべく視線を合わせないように、食べ終わった梨の芯をゴミ箱に投げ捨てた。ホールインワン。
ホームレスはトイレの前の壁にどっかり座ってうたた寝を始めた。この霜柱や氷柱でさえもくしゃみをして、鼻水を垂らしそうな厳寒の屋外でよく寝れるな。
水色の絵の具を絞り出して固めたような雲一つ無い空だった。
僕は玲瓏に置ける自分の役職を再確認する。団長付き護衛官吏。団長の御身御守護を務め、有事の際には我が身を捨ててでも御命を守るのが僕の役目だ。
だけど、団長は自分に護衛が必要とは思っていないだろう。大方、見栄えの良い弾除けを兼任する付添人か、威圧感と脅威の代弁者が欲しいだけなのかもしれない。
ときたま思う、こんなことをしていて僕は大丈夫なのかと。10代の青春の大半を軍人として浪費したまま20歳になってしまった僕は、このまま才能も美貌を活かしきれずに三十路になっていくのかと思うと、僕は薪と勘違いされて暖炉に放り込まれたように苦しい気持ちになる。
美貌に関しては僕はこれ以上美しくなることは多分無いだろう。そもそも僕はだいたい13歳くらいの頃が一番可愛かった。天も恥じらう美しさというのは正にあれのこと。
若さを執念深く追い求めるなんて絵に描いたような老醜をしでかすくらいなら死んだ方がマシだ。
才能も僕の中に秘められたまだ見ぬ光明がいずれは差すかもしれないのに、このまま老いさらばえるだけでそれが輝きを失うこともあるだろう。
ろくな才能じゃないかもしれないが。少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず。何故か覚えているこの長ったらしいことわざが胸に突き刺さる。
でも、学歴も教養も無い僕に何ができるのか。僕に言わせたら毎日決められた時間に出社して、決められた職務を忠実にこなし、決められた時間に退社する世界の方が異常だ。
一体いつから甘酸っぱい血煙を肺胞に貯め、硝煙の香りをその身に染み込ませて、悲鳴と怨恨をバックグラウンドミュージックにする世界を正常と捉えてしまったのか? 子どもの頃は舞台俳優になりたかったのに......。
「はぁ......」
なぜ一人の時間を過ごしている時はいつもこう、不安が頭上に降り注いで積もって行くのか。もっと明るい快活な人間になりたいのに、僕の人生の行く先は畦道のように細く頼りなく、おまけにぬかるんだ路上にはセミの死骸や馬糞や吸い殻が落ちているように思えてならない。
人は生まれながらに死刑囚と、どこかの誰かが言ったけど、僕の場合はそれにガレオン船の甲板上での強制労働も含まれているに違いない。
どこかで小鳥が鳴いていて、空を覆い尽くす豊かないわし雲はゆっくりと東に向かっていった。僕は食べ終わって残った梨の芯を捨てると、もう一つを大事にダウンの裏ポケットにしまった。
すると。
「ちょっとすみません」
「ああ、失礼」
まだ生まれたての乳幼児を抱き抱えた母親が、ベンチのど真ん中に座り込んでいる僕に対して片手で拝みながら、横にずれるように頼んできた。だから僕は何も考えずに無条件でそれに応じた。別に嫌がる理由も無い。
煙草を吸おうと思ったけど、乳幼児がいる場所では僕は極力吸わないようにしてるので、はやる気持ちを抑えながら胸ポケットから取り出した箱のセロファンを指で撫でた。
こりゃ参ったな。と僕は思った。僕はそういう星の元に生まれたのか、はたまた前世で赤ん坊に虐待でもしたのかは定かでは無いけど、僕に近づいてきた赤ん坊はだいたい、土石流のようにひどく泣き叫ぶ宿命なのだ。
「ああ...ったく......」
母親がうんざりした様子で眉間にしわを寄せる。
案の定、赤ん坊は僕が横にずれた時には既に嗚咽を漏らしていて、間も無くして頬を紅潮させると、けたたましい声で泣き出した。鳥も猫も泣くのをやめて、雲や風ですら何事かと言わんばかりに、動きを止めてもおかしくない、そんな騒がしい泣き声だった。
世の中、貧富の差だったり僕らの勤労奉仕のおかげで毎月増え続ける犯罪発生率に比べたら、こんなことは些細なことなんだろうけど、その場に直面している僕からしたら結構大きな問題なのだ。
家の壁に落書きがあっても、道を行く通行人は気づかない人すらいるだろう。でも、住人からしたらかなり迷惑な話なはずだ。
「......うるさい」
僕が河岸を変えようか迷いながら、絶えずセロファンを弄っていた時、横で小さく音が響いた。萎みかけた風船に針でトドメを刺したような音だった。
僕が少しだけ顔をそちらに向けると、母親がどうやら躾のために赤ん坊の頬を叩いたらしい。言葉が通じないなら身体で聞かせようとしたのだろうか。
見た感じだと若い母親だし容姿もどこか浮ついている。この子はもしかしたら望んで生まれた子じゃないのかもしれない。
もっとも、純真無垢そのものの赤ん坊に手を挙げたところで、赤ん坊には恐怖を刻みつけるだけで言うことなんて聞くわけが無い。僕の予想通り、赤ん坊は一層世界の終焉みたいに泣き出した。
「あの...やめてあげた方が...」
「構わないでください、躾ですから」
赤の他人もいいとこの僕の言うことなんか聞きもしない。
母親はなおも泣き続ける赤ん坊に腹が立ったようで、躍起になって赤ん坊の頬を親指をバネにして人差し指で弾いた。
母親からしたら、抜き取られたみたいに住宅街のど真ん中ポッカリと空いた公園にいるから、いつあのアパートの窓が開いて、居住者に見られるか気が気じゃ無いのかもしれない。
だから僕は母親の頭を掴むと、銃剣を抜いて喉笛を真横から突き刺した。
「うぎゅ」
母親は何が起きたか分からずにただ震える目だけを僕に向けて、数秒間僕と目があった後に息絶えた。口許から垂れる血を僕はハンカチで拭い、銃剣をぬぽっと引き抜くと、すぐさま銃剣で掌を切ってルーボフを呼び覚まし、血が溢れて流れ出す傷口を、琥珀色の僕の血をかけて塞いでやった。
レ・ミゼラブルは僕以外の人間も回復させられる。もっとも死体にこれをやってもただ傷口が消えるだけ。これで刺殺されたはずなのに刺し傷が無い、世にも不可思議な死体がこの世に生まれた。
僕は刃に付いた血をひと舐めすると、血が乾かない内に銃剣を花壇に向けて振って、真っ赤な鮮血を芽吹く前の球根の糧にしてあげた。
「おっとよしよし」
僕は赤ん坊を抱き上げると、身体ごと両腕を振って赤ん坊を泣き止ませようと試みたら、思いの外簡単に泣き止んでくれた。やっぱり赤ちゃんの笑った顔はかわいい。僕も思わず笑みがこぼれた。
あんな些細なことで簡単に手を挙げる母親なら、いずれこの子はもっと酷い目にあって、やがて母親に身も心も束縛されてしまうだろう。母親は母親で育児放棄して、この子を苦しませて殺す可能性すらあるのだ。
僕と同じ轍を踏ませる訳には行かない。しかし、親の愛が無いというのはそれはそれでかわいそうだ。更に母親の死体を見て気づいたのだけど、薬指に結婚指輪が無い辺り、もしかしたら父親もいないのかもしれない。
ということは、僕は孤児を作ってしまったのかもしれない。僕という奴は、何でこう簡単な未来を予測することが出来ないのか。むしろ母親を殺した時点でそうなるに決まってるだろうが。
その時、僕はハッとなって後ろを振り向いた。浮浪者のことを思い出したのだ。でも、浮浪者は熟睡したままだったので僕は安心した。
一瞬、このまま身寄りのない寂しい思いをさせるくらいなら、僕が天国に行かせてあげるのも幸福なことかという考えが頭をよぎったけど、すぐに搔き消した。
この子の母親を殺した僕の行動は正しかったのだから、最後まで責任を持たなくてはならないと思い至ったからだ。
確か近くに保育園があった。今すぐにそこの門にこの子を置いていこう。保育園ならこの子みたいな乳幼児を見つけても寒風に放置するようなこともしないだろうし、今晩には国営孤児院に引き取られるはず。保育士ならこの子みたいな赤ちゃんの扱いも心得ているはずだ。
でも、ちゃんと置いたらピンポンなりノックなりしていってからその場を去ってあげよう。
僕は寒くないように赤ちゃんを腕の中抱き寄せながら公園を後にした。赤ちゃんはいつの間にか僕の腕の中で寝ていた。孤児院もそんなに悪くないだろう。同じ境遇の子ども達がたくさんいるんだから、友達を切らすこともないはずだ。
保育園に向かう途中、煙草の自販機のあちこちを焦ったように落ち着かない様子でそわそわと撫で回す人がいた。サングラスをしているから、盲目の人のようだ。
何とか小銭は入れたけど、目当ての銘柄の煙草がある番号のボタンが分からず、悪戦苦闘している様子だった。どうやら下から一つずつボタンを数えているらしいが、それもうまくいかないらしい。
「すいません、僕で良かったらお手伝いしましょうか?」
「ああ、これはすいません...20番なんですが」
「はい、このレッド・ライトでいいですか?」
「はい、ありがとうございます」
僕は20番を押すと、出てきた赤い包装紙の煙草とお釣りをその人の手を取って渡した。いくら僕でもお釣りをチョロまかすような汚い真似をしない。
「ありがとうございます、本当に助かりました」
「いえいえ」
その人はぴっしりと三角定規みたいなお辞儀をして、白杖を左右に突きながらその場から去っていった。人に感謝されるのは気分が良い。
困っている人を助けてあげるのは人として当然なことだというのに、こんな簡単なことすら見て見ぬ振りをして平気で通り過ぎるとは呆れた奴等ばかりだ。
そして、そんな道を尋ねられても無視を貫く冷たい連中が良い家に住んで良いスーツを着て、良い肉を食べて良い女を抱くんだよな。
全く不人情な奴ばっかり良い思いをしやがる。冷酷な奴ほど社会で成功するなんて、本当に世の中は矛盾している。誰も彼も義理より物欲と来てる。僕みたいな男は存在しないんだろうか?
途中、小さな八百屋で珍しく梨が売っていたので、その僕の瞳と同じ色をした、中学一年生まで熟しきってないリンゴと勘違いしていた梨を二つ買って、一つを廃れたこの公園で腰の後ろに挿した銃剣で剥いて食べていた。
刃渡り30センチ、柄も合わせたら50センチ近い長さを誇る、団長から賜った干戈弾頭用の特製の銃剣だ。これで梨を切ったなんてことが団長に知れたら、僕はダンベルで殴られるな。
僕はニヤッと笑いながら果汁が滴る白い梨の果肉にかぶりついた、手がベタつくけど水道があるから心配無い。
そういえば、生牡蠣の殻を剥いて身を振る舞う漁師は、生牡蠣も立派な料理だから料理人とも言うそうだけど、その理屈で言えば梨を綺麗に剥ける僕も料理人の範疇に入るんだろうか。
剥けた皮は地面に捨てる。美味しいものは一人で隠れてコソコソ食べるのが一番うまい。だいたい僕の身の回りにいるヤツは人が食べてるものを集ろうとするのが多すぎる。
僕は果汁が詰まった瑞々しい果肉に噛り付いていると、隅に一つだけポツンとある公衆便所からホームレスが出てきた。赤茶けた肌には真冬だというのに乾いた汗でこびり付いた灰色の頭髪が、男がいかに疲労困憊していることを告げていた。
何にせよ、痩けてエラが張った頬に無精髭が密生した老人に好意的な印象を受ける人間はあまりいないだろう。服装はゴミ捨て場から拾ってきたばかりなのか、盗品かは知らないけど、妙に真新しいジャンバーを羽織っている。
僕はなるべく視線を合わせないように、食べ終わった梨の芯をゴミ箱に投げ捨てた。ホールインワン。
ホームレスはトイレの前の壁にどっかり座ってうたた寝を始めた。この霜柱や氷柱でさえもくしゃみをして、鼻水を垂らしそうな厳寒の屋外でよく寝れるな。
水色の絵の具を絞り出して固めたような雲一つ無い空だった。
僕は玲瓏に置ける自分の役職を再確認する。団長付き護衛官吏。団長の御身御守護を務め、有事の際には我が身を捨ててでも御命を守るのが僕の役目だ。
だけど、団長は自分に護衛が必要とは思っていないだろう。大方、見栄えの良い弾除けを兼任する付添人か、威圧感と脅威の代弁者が欲しいだけなのかもしれない。
ときたま思う、こんなことをしていて僕は大丈夫なのかと。10代の青春の大半を軍人として浪費したまま20歳になってしまった僕は、このまま才能も美貌を活かしきれずに三十路になっていくのかと思うと、僕は薪と勘違いされて暖炉に放り込まれたように苦しい気持ちになる。
美貌に関しては僕はこれ以上美しくなることは多分無いだろう。そもそも僕はだいたい13歳くらいの頃が一番可愛かった。天も恥じらう美しさというのは正にあれのこと。
若さを執念深く追い求めるなんて絵に描いたような老醜をしでかすくらいなら死んだ方がマシだ。
才能も僕の中に秘められたまだ見ぬ光明がいずれは差すかもしれないのに、このまま老いさらばえるだけでそれが輝きを失うこともあるだろう。
ろくな才能じゃないかもしれないが。少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず。何故か覚えているこの長ったらしいことわざが胸に突き刺さる。
でも、学歴も教養も無い僕に何ができるのか。僕に言わせたら毎日決められた時間に出社して、決められた職務を忠実にこなし、決められた時間に退社する世界の方が異常だ。
一体いつから甘酸っぱい血煙を肺胞に貯め、硝煙の香りをその身に染み込ませて、悲鳴と怨恨をバックグラウンドミュージックにする世界を正常と捉えてしまったのか? 子どもの頃は舞台俳優になりたかったのに......。
「はぁ......」
なぜ一人の時間を過ごしている時はいつもこう、不安が頭上に降り注いで積もって行くのか。もっと明るい快活な人間になりたいのに、僕の人生の行く先は畦道のように細く頼りなく、おまけにぬかるんだ路上にはセミの死骸や馬糞や吸い殻が落ちているように思えてならない。
人は生まれながらに死刑囚と、どこかの誰かが言ったけど、僕の場合はそれにガレオン船の甲板上での強制労働も含まれているに違いない。
どこかで小鳥が鳴いていて、空を覆い尽くす豊かないわし雲はゆっくりと東に向かっていった。僕は食べ終わって残った梨の芯を捨てると、もう一つを大事にダウンの裏ポケットにしまった。
すると。
「ちょっとすみません」
「ああ、失礼」
まだ生まれたての乳幼児を抱き抱えた母親が、ベンチのど真ん中に座り込んでいる僕に対して片手で拝みながら、横にずれるように頼んできた。だから僕は何も考えずに無条件でそれに応じた。別に嫌がる理由も無い。
煙草を吸おうと思ったけど、乳幼児がいる場所では僕は極力吸わないようにしてるので、はやる気持ちを抑えながら胸ポケットから取り出した箱のセロファンを指で撫でた。
こりゃ参ったな。と僕は思った。僕はそういう星の元に生まれたのか、はたまた前世で赤ん坊に虐待でもしたのかは定かでは無いけど、僕に近づいてきた赤ん坊はだいたい、土石流のようにひどく泣き叫ぶ宿命なのだ。
「ああ...ったく......」
母親がうんざりした様子で眉間にしわを寄せる。
案の定、赤ん坊は僕が横にずれた時には既に嗚咽を漏らしていて、間も無くして頬を紅潮させると、けたたましい声で泣き出した。鳥も猫も泣くのをやめて、雲や風ですら何事かと言わんばかりに、動きを止めてもおかしくない、そんな騒がしい泣き声だった。
世の中、貧富の差だったり僕らの勤労奉仕のおかげで毎月増え続ける犯罪発生率に比べたら、こんなことは些細なことなんだろうけど、その場に直面している僕からしたら結構大きな問題なのだ。
家の壁に落書きがあっても、道を行く通行人は気づかない人すらいるだろう。でも、住人からしたらかなり迷惑な話なはずだ。
「......うるさい」
僕が河岸を変えようか迷いながら、絶えずセロファンを弄っていた時、横で小さく音が響いた。萎みかけた風船に針でトドメを刺したような音だった。
僕が少しだけ顔をそちらに向けると、母親がどうやら躾のために赤ん坊の頬を叩いたらしい。言葉が通じないなら身体で聞かせようとしたのだろうか。
見た感じだと若い母親だし容姿もどこか浮ついている。この子はもしかしたら望んで生まれた子じゃないのかもしれない。
もっとも、純真無垢そのものの赤ん坊に手を挙げたところで、赤ん坊には恐怖を刻みつけるだけで言うことなんて聞くわけが無い。僕の予想通り、赤ん坊は一層世界の終焉みたいに泣き出した。
「あの...やめてあげた方が...」
「構わないでください、躾ですから」
赤の他人もいいとこの僕の言うことなんか聞きもしない。
母親はなおも泣き続ける赤ん坊に腹が立ったようで、躍起になって赤ん坊の頬を親指をバネにして人差し指で弾いた。
母親からしたら、抜き取られたみたいに住宅街のど真ん中ポッカリと空いた公園にいるから、いつあのアパートの窓が開いて、居住者に見られるか気が気じゃ無いのかもしれない。
だから僕は母親の頭を掴むと、銃剣を抜いて喉笛を真横から突き刺した。
「うぎゅ」
母親は何が起きたか分からずにただ震える目だけを僕に向けて、数秒間僕と目があった後に息絶えた。口許から垂れる血を僕はハンカチで拭い、銃剣をぬぽっと引き抜くと、すぐさま銃剣で掌を切ってルーボフを呼び覚まし、血が溢れて流れ出す傷口を、琥珀色の僕の血をかけて塞いでやった。
レ・ミゼラブルは僕以外の人間も回復させられる。もっとも死体にこれをやってもただ傷口が消えるだけ。これで刺殺されたはずなのに刺し傷が無い、世にも不可思議な死体がこの世に生まれた。
僕は刃に付いた血をひと舐めすると、血が乾かない内に銃剣を花壇に向けて振って、真っ赤な鮮血を芽吹く前の球根の糧にしてあげた。
「おっとよしよし」
僕は赤ん坊を抱き上げると、身体ごと両腕を振って赤ん坊を泣き止ませようと試みたら、思いの外簡単に泣き止んでくれた。やっぱり赤ちゃんの笑った顔はかわいい。僕も思わず笑みがこぼれた。
あんな些細なことで簡単に手を挙げる母親なら、いずれこの子はもっと酷い目にあって、やがて母親に身も心も束縛されてしまうだろう。母親は母親で育児放棄して、この子を苦しませて殺す可能性すらあるのだ。
僕と同じ轍を踏ませる訳には行かない。しかし、親の愛が無いというのはそれはそれでかわいそうだ。更に母親の死体を見て気づいたのだけど、薬指に結婚指輪が無い辺り、もしかしたら父親もいないのかもしれない。
ということは、僕は孤児を作ってしまったのかもしれない。僕という奴は、何でこう簡単な未来を予測することが出来ないのか。むしろ母親を殺した時点でそうなるに決まってるだろうが。
その時、僕はハッとなって後ろを振り向いた。浮浪者のことを思い出したのだ。でも、浮浪者は熟睡したままだったので僕は安心した。
一瞬、このまま身寄りのない寂しい思いをさせるくらいなら、僕が天国に行かせてあげるのも幸福なことかという考えが頭をよぎったけど、すぐに搔き消した。
この子の母親を殺した僕の行動は正しかったのだから、最後まで責任を持たなくてはならないと思い至ったからだ。
確か近くに保育園があった。今すぐにそこの門にこの子を置いていこう。保育園ならこの子みたいな乳幼児を見つけても寒風に放置するようなこともしないだろうし、今晩には国営孤児院に引き取られるはず。保育士ならこの子みたいな赤ちゃんの扱いも心得ているはずだ。
でも、ちゃんと置いたらピンポンなりノックなりしていってからその場を去ってあげよう。
僕は寒くないように赤ちゃんを腕の中抱き寄せながら公園を後にした。赤ちゃんはいつの間にか僕の腕の中で寝ていた。孤児院もそんなに悪くないだろう。同じ境遇の子ども達がたくさんいるんだから、友達を切らすこともないはずだ。
保育園に向かう途中、煙草の自販機のあちこちを焦ったように落ち着かない様子でそわそわと撫で回す人がいた。サングラスをしているから、盲目の人のようだ。
何とか小銭は入れたけど、目当ての銘柄の煙草がある番号のボタンが分からず、悪戦苦闘している様子だった。どうやら下から一つずつボタンを数えているらしいが、それもうまくいかないらしい。
「すいません、僕で良かったらお手伝いしましょうか?」
「ああ、これはすいません...20番なんですが」
「はい、このレッド・ライトでいいですか?」
「はい、ありがとうございます」
僕は20番を押すと、出てきた赤い包装紙の煙草とお釣りをその人の手を取って渡した。いくら僕でもお釣りをチョロまかすような汚い真似をしない。
「ありがとうございます、本当に助かりました」
「いえいえ」
その人はぴっしりと三角定規みたいなお辞儀をして、白杖を左右に突きながらその場から去っていった。人に感謝されるのは気分が良い。
困っている人を助けてあげるのは人として当然なことだというのに、こんな簡単なことすら見て見ぬ振りをして平気で通り過ぎるとは呆れた奴等ばかりだ。
そして、そんな道を尋ねられても無視を貫く冷たい連中が良い家に住んで良いスーツを着て、良い肉を食べて良い女を抱くんだよな。
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