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第17話
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「ギィヤァァァァアアァァアァァァアアアァァァァァァァァア!!!」
羽をもがれて踏み潰される雛鳥のような叫びを上げて、僕は激痛に喘ぎながら起床した。
「へうっ!?」
けたたましい絶叫によって目を覚ました兄貴は自ら床に転げ落ちると、尻ポケットから鉤状のカランビット・ナイフを取り出して周りを伺うという反射行動を取った。
「どうしたの!?」
「如何した!?」
その次にシャワールームからレーゼが自前の小型拳銃を持って飛び出し、向こうのドアからはマスターキーを使って団長がナタを持った状態で突入してきた。
「ぐぉぉぉ......! おぉ~~おおぉ......」
そして、右目を押さえてうずくまる僕を見て3人は首を傾げ、床できょとんと俯きながら指をしゃぶっているリウに団長が近づき、屈んでリウの目線に合わせた。
「おはようリウ、朝最初に俺に会ったら何を言えばいいんだ?」
「おじさん、おはよう!」
リウは屈託の無い笑顔で団長に挨拶をすると、団長は嬉しそうに微笑して顎の周りに生える無精髭を撫でる
「そうだリウ、お前は要領の良いヤツだな。それで、そこのキャベツは何であんなに苦しんでるんだ?」
兄貴はナイフをしまい、ストクロの後頭部を持ち上げて横にずれた枕を戻す。
さっきから何でこの人達は、状況を把握しようとするだけで、何故悶え苦しむ僕に駆け寄ったりしないのかが不思議でならない。
「うん、ぼく今日たまたま早く起きてね、それでにいを起こして遊ぼうと、にいの目玉にパンチしたの」
「......」
弟よ、お前か...。
これが兄貴だったら迷わず鉄アレイで殴っているところだけど、年端もいかないリウに本気で怒ったらこっちが顰蹙を買いそうだし、何よりリウに対して本気で怒れない自分がいる。
僕が複雑な気分で目の周りを指の先で恐る恐る突いていると、団長がリウの頭を木の幹のようなゴツゴツしてヒビ割れた手で愛おしそうに撫でた。
「兄ですら躊躇わず、寝込みを見計らって急所を攻撃するとは、やはりお前はそこのキャベツのように一騎当千の兵士になれる素養を持っているな。7歳になったら俺が自ら訓練してやろう」
「わーい」
「ダメです、弟には俺と同じ大学を卒業させて真っ当かつ堅実な道を歩ませます」
いずれは弟を自分の直弟子にしようと、胸を叩いて宣言する団長に対し、真っ向から兄貴が反対する。リウは団長にやたら懐いている。
無論僕は兄貴に賛成だ。こんな不安定な世界よりリウには普通の堅気の仕事に就いてもらいたいと心底僕は願う。
でも、それより。
「あの...僕は......」
一言で良いから僕に声をかけたりしてくれないのだろうか...。リウの拳はまだ小さいからナチュラルに眼球を殴られた。そして何かが潰れる感触と、頭の中に粘り気のある水音が聞こえたと思った時には、物凄い痛みが顔中に走ったのだった。
「どれ、見せて」
ようやく気づいたのか、レーゼが顔を上げた僕をやや笑みが滲む表情で見つめる。やっぱりレーゼは優しい。
「あー確かに眼球が潰れて、ナイフを入れたポーチドエッグみたいに中の水晶体が露出してるけど、ま、恐ろしい速さで再生してるから問題無いわ、しゃっきりしなさいな」
そして、彼女にとってはこれが何よりの最優先事項なのか、僕の髪を櫛を使って真剣にマッシュルーム・ボブカットに整えた。
コイツら、再生するから僕が何されても無礼講と思ってるんだから悪質だ。言ったことあるけど、ちゃんと痛みはしっかり感じてるんだってば。
多分、僕が精肉店のひき肉を作るマシンに頭から放り込まれて砕かれて引き裂かれて、琥珀色の体液がしたたるザワークラウトのような姿になっても、ゲラゲラ笑いながら煙草を吸うんだろう。
人には口が裂けても言えないが、僕は愛情に人一倍飢えているので、結婚指輪と同じくらい大切にして労って欲しい。
ただ前にも言ったが、信頼や期待はお断りだ。それらはその分失望も倍になるからだ。それもこちらがやれと言ったわけでもなく一方的に。
「そういえばストクロはまだ寝てるのか? コイツは若ぇ頃の俺と同じでマッパで寝るんだからお前も苦労するな、二等中尉?」
「はは......まぁ...」
僕の再生能力は僕に強大な力を与えてくれた反面、僕に向けられる思いやりは間違い無く減った。リウ以外のコイツら全員ネズミに噛まれて病気になればいいのに。むしろ何で人の痛みが前よりも理解できるようになってしまったんだ?
僕はベッドに足を伸ばして座ると、リウを抱え上げて膝の上に乗せて肩を持つ。リウが後頭部を気持ち良さそうに僕の胸に擦り付けた。
「リウ、兄さんの眼球に対して拳で抵抗するのは禁止だ、絶対に」
リウが不思議そうに僕の顔を見上げて、澄んだ碧眼で僕に尋ねた。
「何で? にいは銃でたくさん人を撃ってるんでしょ?」
「それを言われると苦しいけど、ま...僕が痛いからだ」
「分かった、もうやらない」
そう言うと、リウは僕の膝から降りて部屋の隅にある自分と同じくらいの大きさの冷蔵庫を開けて、中にある飲みかけのコーヒー牛乳を飲んだ。
団長が僕の肩を強く叩く。
「多少訝しむとこがあってもいいから、とにかく優しい子に育つよう薫陶しろよ」
「......はい」
そういうと団長は部屋を出ていった。出ていく時にレーゼに向かって、「バラバラにしてやりたいが、リウにトラウマを植え付けたくないから抑えるとしよう」と吐き捨てて行った。何やったんだあの女。
僕はあの子の父親代わりであり、かつては本当に父親だった団長はリウが孫のように可愛いと、あの子の前では、普段の威圧感たっぷりな表情が、とろけるような笑顔になる。
際限無い愛情を注いでいるはずなんだけど、僕は不安だった。そもそもここは児童に基本道徳を教えるには最低の環境だし、リウの歳で刷り込まれたものは、そのままあの子の中で道しるべとも言える常識になってしまう。
生まれて間もない雛鳥がヘアスプレー缶だろうがラグビーボールだろうが、初めて見た物はあまねく親と認識してしまうように。
僕はリウを世間の塵芥に触れさせず、清らかな清水に住む鮎のような子に育てようとしている。
でも、何だかこの分だと悪を悪と思わない、自身を正義の権化と思い込んでいるような、僕が一番嫌いなタイプの悪党になりそうな気もする。
無邪気って言うのは無自覚な邪気っていう風にも取れるからな。僕は飲み物を飲むことで、小さく動くリウの喉を見つめる。
そもそも世間を知らずに家から出さない監禁のような生活を強いることは、立派な虐待だ。僕はリウを広い視野を持った聡く優しい子にしたいのだ。
リウを手に入れた時、僕は愛情をひたすらに注ぐだけで何とかなる、と甘い考えを持っていたけど、それは育児というものを舐めきった愚にもつかない考えだと知った。
もちろん努力はしている。元々僕の部屋は兄貴の掃き溜めほどじゃないけど結構汚かった。でも衛生的で、リウが走り回れるように家具もずらす大掃除をした。
掃除というのは楽しい人がやったら楽しいようだけど、僕はただ苦痛でしか無かった。
リウの前では煙草は吸わないし、リウの為に絵本や昆虫図鑑も買った。昆虫図鑑の高さにはいささか驚いた。
もちろんリウを愛しているから出来ることだ。リウが成人するまで僕は死ねない。
他に適役はいないのかって?
正直、兄貴は頭は良いし、優しいところもあるけど、ぶっちゃけ人としては赤点どころか、人生を退学した方が良いとすらたまに思うし、ストクロは自分すらどうにもならないし、団長に渡したらバーサーカーの英才教育が始まる。
いくら可愛いからってそういうところはおざなりにしないのが団長だ。
自意識過剰では無く、適任者は僕のみなのだ。リウを正しく導くことに成功できたなら僕は消えても構わない。
え? レーゼ? 知らない人ですな。
しかし、正しく導くというのなら、先ずは徳について深く知らないといけない。先は長い。
僕はリウが冷蔵庫を閉じる様子を見ながら、せっせと髪を整えるレーゼの為すがままになるのだった。
「うーんやっぱりこの髪型よね、リウも散髪したらこれにさせるわ」
それと、育児が得意な美男子という自分が割と気に入ってる。
\\\\\\\\\\
僕はアイロンをかける。シワを伸ばしているのはリウに着せる子供用のワイシャツだ。多分、本当なら卒園式とかでしか着せない衣類なんだろうけど、生憎これしか衣類が無い。
どうも、中々子供用の服を売ってる店が少ないようで困っている。これ以外にあるのはジーンズと肌色のセーターだけだ。
リウの寝巻きは僕の夏用のTシャツだ。片手逆立ちをする筋肉質な男のシルエットの柄。
「リウ、おいで」
僕はアイロンのボタンを押し、蒸気を噴き出させて一度アイロンを台に置くと、温めたワイシャツに触れた。
兄貴の説明付きで昆虫図鑑をめくっていたリウが、僕の元に駆け寄ってワイシャツを受け取ると、ぎゅっとワイシャツを抱き締めた。
「あったかい」
シワを伸ばしたばっかりなのに...僕はTシャツを脱ぎ、幼児のぷっくり膨れた寸胴な腹が露わになる様を見ながらため息を吐いた。
何という愛らしさだろうか、リウの前ではどんな絵本の妖精すらも霞んで見えた。この子の前では大海原も花畑も青空も、引き立て役にしか立ち回れないほどだ。
いっそこのまま身も心も清良な内に夭折することで、この美しさが永遠に保てるならば、それも一つの道とすら思える。
本当に目に入れても痛くないほど可愛い。頬に鼻を擦り付けると仄かに牛乳のような香りがして、桜色の唇が常に唾液に濡れて朱色に染まっているのは、実に良い。
天使がいるならばそれはリウだ。リウとあの店員ちゃんは僕にとっての地上の天使だ。
一度、疲れて帰ってきた僕を寝ずに待っていて、帰ってきた途端冷蔵庫を開けてトマトジュースを持ってきてくれた時など、人生で初めて感動で涙した。今思い出しても涙腺が緩む。
僕はリウに下に着るシャツとジーンズとセーターを渡し、僕自身もパジャマを脱いで、ヒートテックとフランネルシャツとスラックスをクローゼットから取り出した。
僕はフランネルシャツが大好きだから、服はこれしか無いし、人に物を贈る時はだいたいこれか高い食べ物しかあげない。
これは持論だけど、甘い物はだいたい何あげても喜ばれる。
「首回りがキツかったらシャツが表裏逆だぞ、大丈夫か? 後ワイシャツは別に第1ボタンなんか止めてなくていいからな。ほら、留めてやるから動くな」
兄貴は兄貴で既に着替えているが、リウの着替えの手助けを甲斐甲斐しくしていた。
すると、レーゼが自室に戻らずに僕のベッドで寝っ転がっていたことに今さら気づいた。この女は存在感という意味での影を、自在に操ることが出来る中々に稀有な特技があるのだ。
いつでも高原に堂々と佇む大木から、その下に生え揃う雑草に変身できる。
「いたんだ」
「ええ、若い子の裸体を見たいから、ストクロ起こす?」
「いや、ほっとけば勝手に起きて僕の服を勝手に着るからいいよ」
レーゼが快眠中のストクロを抱き起こして、二の腕の感触を確かめるように抱きしめる。
ストクロは無理やり叩き起こすと、必ずこう言うのだ。「無理矢理叩き起こされるのは一睡もしてないのと一緒」と言って不貞寝するから、本人が自主的に起きるのを待つしかない。
それに寝起きの彼は血圧が低いので、本人の意思で起こさないと色々世話を焼かないといけなくなるから、疲れる。
僕は手早く着替えていると、レーゼが横から話しかけてきた。
「にしてもストクロは羨ましいくらい白い綺麗な肌してるわね、アンタとジェスタフだった美形なのに背中にそんなもん入れて」
兄貴がレーゼの言葉を遮って僕に話しかける。
「うるせぇぞバカ、おいアリーフ今日も暇だな?」
「ん? うん」
僕は頷く。脇に制汗剤をスプレーする。
「んじゃ、今日は俺に付き合え、たまには一緒に遊ぼうぜ、色々楽しいこと知ってるんだよ」
僕は目を細めて兄貴の言葉を疑った。
「朝っぱらからキャバクラ?」
「なわけ無いだろう、だいたい早朝からは営業してない」
「じゃあ......」
それならと、僕は今日は兄貴に付いていくことにした。兄貴と一緒に行動するのも悪くないし、腹が立つことも少ないけど、何だかんだ色々刺激があるから飽きない。
それに、まだ完全には知らない兄貴の人となりを、また一つ知ることができるのは弟して嬉しいことだ。
羽をもがれて踏み潰される雛鳥のような叫びを上げて、僕は激痛に喘ぎながら起床した。
「へうっ!?」
けたたましい絶叫によって目を覚ました兄貴は自ら床に転げ落ちると、尻ポケットから鉤状のカランビット・ナイフを取り出して周りを伺うという反射行動を取った。
「どうしたの!?」
「如何した!?」
その次にシャワールームからレーゼが自前の小型拳銃を持って飛び出し、向こうのドアからはマスターキーを使って団長がナタを持った状態で突入してきた。
「ぐぉぉぉ......! おぉ~~おおぉ......」
そして、右目を押さえてうずくまる僕を見て3人は首を傾げ、床できょとんと俯きながら指をしゃぶっているリウに団長が近づき、屈んでリウの目線に合わせた。
「おはようリウ、朝最初に俺に会ったら何を言えばいいんだ?」
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リウは屈託の無い笑顔で団長に挨拶をすると、団長は嬉しそうに微笑して顎の周りに生える無精髭を撫でる
「そうだリウ、お前は要領の良いヤツだな。それで、そこのキャベツは何であんなに苦しんでるんだ?」
兄貴はナイフをしまい、ストクロの後頭部を持ち上げて横にずれた枕を戻す。
さっきから何でこの人達は、状況を把握しようとするだけで、何故悶え苦しむ僕に駆け寄ったりしないのかが不思議でならない。
「うん、ぼく今日たまたま早く起きてね、それでにいを起こして遊ぼうと、にいの目玉にパンチしたの」
「......」
弟よ、お前か...。
これが兄貴だったら迷わず鉄アレイで殴っているところだけど、年端もいかないリウに本気で怒ったらこっちが顰蹙を買いそうだし、何よりリウに対して本気で怒れない自分がいる。
僕が複雑な気分で目の周りを指の先で恐る恐る突いていると、団長がリウの頭を木の幹のようなゴツゴツしてヒビ割れた手で愛おしそうに撫でた。
「兄ですら躊躇わず、寝込みを見計らって急所を攻撃するとは、やはりお前はそこのキャベツのように一騎当千の兵士になれる素養を持っているな。7歳になったら俺が自ら訓練してやろう」
「わーい」
「ダメです、弟には俺と同じ大学を卒業させて真っ当かつ堅実な道を歩ませます」
いずれは弟を自分の直弟子にしようと、胸を叩いて宣言する団長に対し、真っ向から兄貴が反対する。リウは団長にやたら懐いている。
無論僕は兄貴に賛成だ。こんな不安定な世界よりリウには普通の堅気の仕事に就いてもらいたいと心底僕は願う。
でも、それより。
「あの...僕は......」
一言で良いから僕に声をかけたりしてくれないのだろうか...。リウの拳はまだ小さいからナチュラルに眼球を殴られた。そして何かが潰れる感触と、頭の中に粘り気のある水音が聞こえたと思った時には、物凄い痛みが顔中に走ったのだった。
「どれ、見せて」
ようやく気づいたのか、レーゼが顔を上げた僕をやや笑みが滲む表情で見つめる。やっぱりレーゼは優しい。
「あー確かに眼球が潰れて、ナイフを入れたポーチドエッグみたいに中の水晶体が露出してるけど、ま、恐ろしい速さで再生してるから問題無いわ、しゃっきりしなさいな」
そして、彼女にとってはこれが何よりの最優先事項なのか、僕の髪を櫛を使って真剣にマッシュルーム・ボブカットに整えた。
コイツら、再生するから僕が何されても無礼講と思ってるんだから悪質だ。言ったことあるけど、ちゃんと痛みはしっかり感じてるんだってば。
多分、僕が精肉店のひき肉を作るマシンに頭から放り込まれて砕かれて引き裂かれて、琥珀色の体液がしたたるザワークラウトのような姿になっても、ゲラゲラ笑いながら煙草を吸うんだろう。
人には口が裂けても言えないが、僕は愛情に人一倍飢えているので、結婚指輪と同じくらい大切にして労って欲しい。
ただ前にも言ったが、信頼や期待はお断りだ。それらはその分失望も倍になるからだ。それもこちらがやれと言ったわけでもなく一方的に。
「そういえばストクロはまだ寝てるのか? コイツは若ぇ頃の俺と同じでマッパで寝るんだからお前も苦労するな、二等中尉?」
「はは......まぁ...」
僕の再生能力は僕に強大な力を与えてくれた反面、僕に向けられる思いやりは間違い無く減った。リウ以外のコイツら全員ネズミに噛まれて病気になればいいのに。むしろ何で人の痛みが前よりも理解できるようになってしまったんだ?
僕はベッドに足を伸ばして座ると、リウを抱え上げて膝の上に乗せて肩を持つ。リウが後頭部を気持ち良さそうに僕の胸に擦り付けた。
「リウ、兄さんの眼球に対して拳で抵抗するのは禁止だ、絶対に」
リウが不思議そうに僕の顔を見上げて、澄んだ碧眼で僕に尋ねた。
「何で? にいは銃でたくさん人を撃ってるんでしょ?」
「それを言われると苦しいけど、ま...僕が痛いからだ」
「分かった、もうやらない」
そう言うと、リウは僕の膝から降りて部屋の隅にある自分と同じくらいの大きさの冷蔵庫を開けて、中にある飲みかけのコーヒー牛乳を飲んだ。
団長が僕の肩を強く叩く。
「多少訝しむとこがあってもいいから、とにかく優しい子に育つよう薫陶しろよ」
「......はい」
そういうと団長は部屋を出ていった。出ていく時にレーゼに向かって、「バラバラにしてやりたいが、リウにトラウマを植え付けたくないから抑えるとしよう」と吐き捨てて行った。何やったんだあの女。
僕はあの子の父親代わりであり、かつては本当に父親だった団長はリウが孫のように可愛いと、あの子の前では、普段の威圧感たっぷりな表情が、とろけるような笑顔になる。
際限無い愛情を注いでいるはずなんだけど、僕は不安だった。そもそもここは児童に基本道徳を教えるには最低の環境だし、リウの歳で刷り込まれたものは、そのままあの子の中で道しるべとも言える常識になってしまう。
生まれて間もない雛鳥がヘアスプレー缶だろうがラグビーボールだろうが、初めて見た物はあまねく親と認識してしまうように。
僕はリウを世間の塵芥に触れさせず、清らかな清水に住む鮎のような子に育てようとしている。
でも、何だかこの分だと悪を悪と思わない、自身を正義の権化と思い込んでいるような、僕が一番嫌いなタイプの悪党になりそうな気もする。
無邪気って言うのは無自覚な邪気っていう風にも取れるからな。僕は飲み物を飲むことで、小さく動くリウの喉を見つめる。
そもそも世間を知らずに家から出さない監禁のような生活を強いることは、立派な虐待だ。僕はリウを広い視野を持った聡く優しい子にしたいのだ。
リウを手に入れた時、僕は愛情をひたすらに注ぐだけで何とかなる、と甘い考えを持っていたけど、それは育児というものを舐めきった愚にもつかない考えだと知った。
もちろん努力はしている。元々僕の部屋は兄貴の掃き溜めほどじゃないけど結構汚かった。でも衛生的で、リウが走り回れるように家具もずらす大掃除をした。
掃除というのは楽しい人がやったら楽しいようだけど、僕はただ苦痛でしか無かった。
リウの前では煙草は吸わないし、リウの為に絵本や昆虫図鑑も買った。昆虫図鑑の高さにはいささか驚いた。
もちろんリウを愛しているから出来ることだ。リウが成人するまで僕は死ねない。
他に適役はいないのかって?
正直、兄貴は頭は良いし、優しいところもあるけど、ぶっちゃけ人としては赤点どころか、人生を退学した方が良いとすらたまに思うし、ストクロは自分すらどうにもならないし、団長に渡したらバーサーカーの英才教育が始まる。
いくら可愛いからってそういうところはおざなりにしないのが団長だ。
自意識過剰では無く、適任者は僕のみなのだ。リウを正しく導くことに成功できたなら僕は消えても構わない。
え? レーゼ? 知らない人ですな。
しかし、正しく導くというのなら、先ずは徳について深く知らないといけない。先は長い。
僕はリウが冷蔵庫を閉じる様子を見ながら、せっせと髪を整えるレーゼの為すがままになるのだった。
「うーんやっぱりこの髪型よね、リウも散髪したらこれにさせるわ」
それと、育児が得意な美男子という自分が割と気に入ってる。
\\\\\\\\\\
僕はアイロンをかける。シワを伸ばしているのはリウに着せる子供用のワイシャツだ。多分、本当なら卒園式とかでしか着せない衣類なんだろうけど、生憎これしか衣類が無い。
どうも、中々子供用の服を売ってる店が少ないようで困っている。これ以外にあるのはジーンズと肌色のセーターだけだ。
リウの寝巻きは僕の夏用のTシャツだ。片手逆立ちをする筋肉質な男のシルエットの柄。
「リウ、おいで」
僕はアイロンのボタンを押し、蒸気を噴き出させて一度アイロンを台に置くと、温めたワイシャツに触れた。
兄貴の説明付きで昆虫図鑑をめくっていたリウが、僕の元に駆け寄ってワイシャツを受け取ると、ぎゅっとワイシャツを抱き締めた。
「あったかい」
シワを伸ばしたばっかりなのに...僕はTシャツを脱ぎ、幼児のぷっくり膨れた寸胴な腹が露わになる様を見ながらため息を吐いた。
何という愛らしさだろうか、リウの前ではどんな絵本の妖精すらも霞んで見えた。この子の前では大海原も花畑も青空も、引き立て役にしか立ち回れないほどだ。
いっそこのまま身も心も清良な内に夭折することで、この美しさが永遠に保てるならば、それも一つの道とすら思える。
本当に目に入れても痛くないほど可愛い。頬に鼻を擦り付けると仄かに牛乳のような香りがして、桜色の唇が常に唾液に濡れて朱色に染まっているのは、実に良い。
天使がいるならばそれはリウだ。リウとあの店員ちゃんは僕にとっての地上の天使だ。
一度、疲れて帰ってきた僕を寝ずに待っていて、帰ってきた途端冷蔵庫を開けてトマトジュースを持ってきてくれた時など、人生で初めて感動で涙した。今思い出しても涙腺が緩む。
僕はリウに下に着るシャツとジーンズとセーターを渡し、僕自身もパジャマを脱いで、ヒートテックとフランネルシャツとスラックスをクローゼットから取り出した。
僕はフランネルシャツが大好きだから、服はこれしか無いし、人に物を贈る時はだいたいこれか高い食べ物しかあげない。
これは持論だけど、甘い物はだいたい何あげても喜ばれる。
「首回りがキツかったらシャツが表裏逆だぞ、大丈夫か? 後ワイシャツは別に第1ボタンなんか止めてなくていいからな。ほら、留めてやるから動くな」
兄貴は兄貴で既に着替えているが、リウの着替えの手助けを甲斐甲斐しくしていた。
すると、レーゼが自室に戻らずに僕のベッドで寝っ転がっていたことに今さら気づいた。この女は存在感という意味での影を、自在に操ることが出来る中々に稀有な特技があるのだ。
いつでも高原に堂々と佇む大木から、その下に生え揃う雑草に変身できる。
「いたんだ」
「ええ、若い子の裸体を見たいから、ストクロ起こす?」
「いや、ほっとけば勝手に起きて僕の服を勝手に着るからいいよ」
レーゼが快眠中のストクロを抱き起こして、二の腕の感触を確かめるように抱きしめる。
ストクロは無理やり叩き起こすと、必ずこう言うのだ。「無理矢理叩き起こされるのは一睡もしてないのと一緒」と言って不貞寝するから、本人が自主的に起きるのを待つしかない。
それに寝起きの彼は血圧が低いので、本人の意思で起こさないと色々世話を焼かないといけなくなるから、疲れる。
僕は手早く着替えていると、レーゼが横から話しかけてきた。
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兄貴がレーゼの言葉を遮って僕に話しかける。
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「ん? うん」
僕は頷く。脇に制汗剤をスプレーする。
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僕は目を細めて兄貴の言葉を疑った。
「朝っぱらからキャバクラ?」
「なわけ無いだろう、だいたい早朝からは営業してない」
「じゃあ......」
それならと、僕は今日は兄貴に付いていくことにした。兄貴と一緒に行動するのも悪くないし、腹が立つことも少ないけど、何だかんだ色々刺激があるから飽きない。
それに、まだ完全には知らない兄貴の人となりを、また一つ知ることができるのは弟して嬉しいことだ。
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