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西暦二〇二五年
本館の有線電話も通じなかった。呼び出し音はするから、断線しているのではない。だが、どこへかけても出ないのだ。
「交換局のトラブルかしら?」
「こんな時に!」
鮠川の報告を聞いた珠子と相原がそれぞれに反応する。
「どういうことでっか。先生でも相原さんでも、ちゃんと説明しとくんなはれや」
北見が大声を出した。まだ先ほどのことを根に持っているのか、声に辛辣な響きがある。ロビーの一角に集められた入居者は鮠川や珠子なども含めて七人。通いのシェフは朝から姿を見せず、ホームキーピング業者もまだ到着していないので、今この場所にいるのは丹沢天翔園のれっきとした住人と言える顔ぶればかりだ。あと四人男性の入居者がいるが、彼らが朝方から買い物で町へ下りており、留守であることは前述の通りである。
「まゆみちゃんが殺されました」
「なんやて!」
珠子の言葉に北見が叫んだが、もちろん他の男性入居者も驚きを隠せない様子だった。
「弱ったなぁ」
野々村老人がさも残念そうに呻く。
「みこたん、ネットで注文したばっかりなんだよ?」
先進技術における現代の大発明家として巨万の富を得たこの老人が落ち込むと、小柄で小太りな体が一層縮んでいくように見える。
「どういうことです?」
何気なく聞きとがめ、問いかけた鮠川の問いへ、野々村は寂しげな笑みを返した。
「今度は僕がまゆみちゃんにみこたんを買ってあげる番なんだよ。僕は小さい頃からくじ運が悪くてね。今朝、居なくなったと聞いた時には、やっと僕の番だって嬉しくて嬉しくてね。思わずもう注文しちゃったんだ。可愛いグレーのドワーフさ」
鮠川は彼の話が飲み込めない。顔を上げると、野々村の向こうで珠子がこちらへ意味有り気な目配せをしている。だが、それがどういう意味なのか、鮠川にはてんで分からなかった。
「……みこたんを順番で買ってあげていた、ですって?」
「馬鹿だよね、僕。ネットで頼むにしても、まゆみちゃんの意見を聞いて選ぶべきだよね。あ、まゆみちゃんと一緒に選べばよかったんだ。その方が――」
「ウサギなんか、どうでもええッ」
誰に殺されたんや――、といきり立つ北見へ、相原が冷たい視線を向ける。
「彼女は相当、無残な殺され方をしていましてな」
「……」
「首から上を毟り取られ、腹を裂かれ、残っている部分も至る所に鋭利な刃物で刻み付けたような裂傷がある有様なんですよ。犯人は余程のサディストと思われますな」
「わてが殺った、ちゅうんか」
北見のギョロ目が更に見開かれた。
「日ごろの行いがものを言うんだ、こういう時は」
「そりゃあんたの先入観やがな!」
北見は唾を飛ばして抗弁する。
「元情報局長やかなんやか知らへんけどな、決めつけんなや。そら、確かにわてはそういう気がある。パァな若い娘をなぶるんが好きなんや。そら認めます。部屋に忍び込んで、嫌がるまゆみちゃん縛って色々やりました。それも認めます。せやけど、殺しはせえへん。そんなんしたら、自分も楽しめんくなるやんか、なあ、そうやろ。もののどうりやろ?」
「はずみで殺してしまった、という可能性もありえますわ」
行き過ぎたプレイでの過失致死はよくあることだそうですよ、と外山婦人。
「それやからって、ご遺体むちゃくちゃにしたりしまっか?」
「その時、まゆみちゃんの体に何か痕を付けてしまったのじゃないかしら。北見さんが犯人であることを示す決定的な証拠になる、何か痕跡を。それを紛らわすために、死体を損壊せざるえなかった」
「木を隠すには森の中、でっか。職業病でんなぁ。最近はなんぼも大したもん書いてへんお人が何偉そうに言うてまんねん。娘さんのアホな話の方がよっぽど売れてますやろ」
「娘を侮辱するのは、やめていただけますか」
外山婦人がぴしゃりと言った。
皆に疑念の眼差しを向けられ、北見の額には大粒の脂汗が浮いている。じりじりと居住区の方へ後ずさりする。
「もういいじゃないの、その男がやったんで。ほら、逃げるわよ。鮠川君、とっとと掴まえなさい。警察が来るまで、縛って木にでも吊るしとくのよ」
ソファでぐったりしていた菅野老嬢が投げやりに言った。
「そいつが変態なのは間違いないからさ。奥さんだってそのせいで何人も逃げ出してるんだし、私の知ってる麓の置屋でも、ブラックリスト載ってんのよ、そいつ。ほーんと、玉無しのクセに」
「なんやて!」
北見の動きが停まる。菅野老嬢と北見は元から反りが合わないらしく、日頃からしばしば諍いを起こしていたが、場合が場合だけに皆が二人を注視した。
「ほんと、嫌よねぇ。潔く諦めりゃいいものを、玉無し短小の狒々爺がいつまでも色呆けしちゃってさ。置屋の娘が言ってたわ。油断してるとすぐ異物挿入してくるのは、自分の挿入すべきものが挿入できないから、その欲求不満解消のためじゃないか、ですって!」
金払って嬲る相手から心理分析? までされちゃってさ――と、菅野老嬢はさも愉快そうに、くぐもった笑い声を上げ、
「みじめったらありゃしない」
北見のこめかみに青筋が浮かぶ。よほどプライドを傷つけられたらしい。顔面は赤黒くなり、鼻息荒く、唇をわななかせる。
「あんた、あんたなぁ。今日という今日は……」
「殺されるゥ! フィストファックされて内臓抜かれちまうよ! 誰か助けとくれ!」
北見が耐え切れずに一歩踏み出し、老嬢がいよいよけたたましく叫び、鮠川と珠子が仲裁に割って入ろうとした、その時だ。
「あああああん」
声がした。全員の動きが止まる。
「あああああん、あんあん。あああああん、あんあん」
どこからか嬌声が聞こえる。
腹式呼吸の激しい息遣いまで混ざるその声は、
「まゆみや!」
北見が叫んだ。
「まさか!」
鮠川、珠子、相原の三人は同時に顔を見合わせる。彼女は確かに死んでいた。だが嬌声は徐々に近づいて来る。
「あああああん、あんあん。ああああん、あんあん」
「外や!」
耳を澄ませていた北見が再び叫ぶ。
「ちょっと見てきます――」
こらえかねたのだろう、珠子が玄関へ小走りに駆け、
「向坂先生!」
鮠川も彼女を追って走り出した直後、珠子の数歩先で玄関ドアのガラス戸が盛大に内側へ吹き飛んだ。同時に巨大な灰色の塊が転げ込んで来る。あわや珠子が立ち止まり、
「先生!」
鮠川が叫ぶ。だが、珠子は金縛りのようにその場から動かない。動けない。そして鮠川もまた、動けなくなった。
「あああん、あんあん。ああああん、あんあん」
「いやッ、いやッ」
嬌声はその塊が発していた。
細身だが、しゃがんだ姿勢で三メートルほど背丈のある大型動物だ。無毛のサルという形容が一番近いだろう。鮠川と目が合った。人間で言う白目にあたる強膜が燃えるように赤い。その中心に墨を一滴垂らしたような小さな瞳が黒く、爛々と輝いている。
「ああああん、あんあん」
まゆみのよがり声が響くたびに、そいつの喉がひくひくと蠢いた。
ビロードを思わせる、きめの細かい、たるんだ灰色の皮膚をしている。体表が所々黒ずんでいるのは乾いた返り血だろう。短い脚、長い腕。人に似て器用そうな手の造りだ。両手と両足には鋭い爪が見え、やはり乾いた血がこびりついていた。唇を歪め、笑顔めいて剥き出された歯間には黒々した毛髪と頭皮の塊が挟まっているのがはっきり見える。こうなるともう、まゆみ失踪の理由は誰の目にも明らかだった。彼女はこの生き物に喰われたのだ。
「ああああん、あんあん。ああああん、あんあん」
裸の猿は喉を鳴らしながら、鼻をひくつかせる。硬直した珠子へ鼻面を伸ばし、嗅ぐ。
ゆっくりしたその仕草は品定めでもしているかのようで、
「珠子先生!」
鮠川が珠子に飛びつくのと彼女がそれまで立ち尽くしていた空間をサルの片手が一閃するのとが同時だった。直撃は避けたが、爪にかすられた鮠川の脛から鮮血が飛んだ。
「鮠川君!」
引き倒され、我に返った珠子が縋りつく。その彼女を片腕へ抱きとりながら、鮠川は必死の思いでサルを向き、赤い目玉を見据えた。どうしても背を向ける気になれなかった。嫌味たらしい目付きだ。絶対弱者への余裕がある。視線を逸らせばたちまち襲いかかられる気がして片手片足、尻の力で彼はそのままにじり下がった。珠子も必死に床を蹴った。猿は二人の顔を覗き込むように首を伸ばす。
「ああああん、あんあん。ああん、あんあん」
「お助け!」
鮠川の視界の片隅へ、居住区へ向かって逃げ出す北見が映る。
せめて珠子だけでも、と焦る彼の眼前からふとサルが消えた。と思う間もなく、背後からのしかかられて倒れる北見と、その頭から齧りつく捕食者が見える。老人はあっけなく喰い裂かれた。
「こっち!」
体をひねって彼の腕から抜け出した珠子が、自ら立ち上がりつつ無理矢理、鮠川も引き立たせる。二人は僅かな距離をたちまち駆け抜け、玄関カウンターの後ろにある事務室へ飛び込んだ。文字通り部屋へ転がり込む。金属製のドアを閉めようとすると、
「またんか!」声とともに相原が上半身を挟んだ。
「奴は北見に夢中だッ」
なおも閉めようとする珠子を部屋の中へ突き飛ばし、相原はドアの隙間を保持する。
少し遅れてぞろぞろと外山婦人、菅野老嬢、野々村の三人が走り込んで来た。もたつく野々村を引っ張り込んだ後、相原は音を立てないようにドアを閉め、鍵を下ろす。
大きく息をついた後、振り向いた老人は珠子を鋭く睨みつけた。
「まったく、薄情なお医者様もあったもんだな」
「緊急避難ですよ」
女医は全く意に介さない顔つきで、むしろ残念そうに応えた。
本館の有線電話も通じなかった。呼び出し音はするから、断線しているのではない。だが、どこへかけても出ないのだ。
「交換局のトラブルかしら?」
「こんな時に!」
鮠川の報告を聞いた珠子と相原がそれぞれに反応する。
「どういうことでっか。先生でも相原さんでも、ちゃんと説明しとくんなはれや」
北見が大声を出した。まだ先ほどのことを根に持っているのか、声に辛辣な響きがある。ロビーの一角に集められた入居者は鮠川や珠子なども含めて七人。通いのシェフは朝から姿を見せず、ホームキーピング業者もまだ到着していないので、今この場所にいるのは丹沢天翔園のれっきとした住人と言える顔ぶればかりだ。あと四人男性の入居者がいるが、彼らが朝方から買い物で町へ下りており、留守であることは前述の通りである。
「まゆみちゃんが殺されました」
「なんやて!」
珠子の言葉に北見が叫んだが、もちろん他の男性入居者も驚きを隠せない様子だった。
「弱ったなぁ」
野々村老人がさも残念そうに呻く。
「みこたん、ネットで注文したばっかりなんだよ?」
先進技術における現代の大発明家として巨万の富を得たこの老人が落ち込むと、小柄で小太りな体が一層縮んでいくように見える。
「どういうことです?」
何気なく聞きとがめ、問いかけた鮠川の問いへ、野々村は寂しげな笑みを返した。
「今度は僕がまゆみちゃんにみこたんを買ってあげる番なんだよ。僕は小さい頃からくじ運が悪くてね。今朝、居なくなったと聞いた時には、やっと僕の番だって嬉しくて嬉しくてね。思わずもう注文しちゃったんだ。可愛いグレーのドワーフさ」
鮠川は彼の話が飲み込めない。顔を上げると、野々村の向こうで珠子がこちらへ意味有り気な目配せをしている。だが、それがどういう意味なのか、鮠川にはてんで分からなかった。
「……みこたんを順番で買ってあげていた、ですって?」
「馬鹿だよね、僕。ネットで頼むにしても、まゆみちゃんの意見を聞いて選ぶべきだよね。あ、まゆみちゃんと一緒に選べばよかったんだ。その方が――」
「ウサギなんか、どうでもええッ」
誰に殺されたんや――、といきり立つ北見へ、相原が冷たい視線を向ける。
「彼女は相当、無残な殺され方をしていましてな」
「……」
「首から上を毟り取られ、腹を裂かれ、残っている部分も至る所に鋭利な刃物で刻み付けたような裂傷がある有様なんですよ。犯人は余程のサディストと思われますな」
「わてが殺った、ちゅうんか」
北見のギョロ目が更に見開かれた。
「日ごろの行いがものを言うんだ、こういう時は」
「そりゃあんたの先入観やがな!」
北見は唾を飛ばして抗弁する。
「元情報局長やかなんやか知らへんけどな、決めつけんなや。そら、確かにわてはそういう気がある。パァな若い娘をなぶるんが好きなんや。そら認めます。部屋に忍び込んで、嫌がるまゆみちゃん縛って色々やりました。それも認めます。せやけど、殺しはせえへん。そんなんしたら、自分も楽しめんくなるやんか、なあ、そうやろ。もののどうりやろ?」
「はずみで殺してしまった、という可能性もありえますわ」
行き過ぎたプレイでの過失致死はよくあることだそうですよ、と外山婦人。
「それやからって、ご遺体むちゃくちゃにしたりしまっか?」
「その時、まゆみちゃんの体に何か痕を付けてしまったのじゃないかしら。北見さんが犯人であることを示す決定的な証拠になる、何か痕跡を。それを紛らわすために、死体を損壊せざるえなかった」
「木を隠すには森の中、でっか。職業病でんなぁ。最近はなんぼも大したもん書いてへんお人が何偉そうに言うてまんねん。娘さんのアホな話の方がよっぽど売れてますやろ」
「娘を侮辱するのは、やめていただけますか」
外山婦人がぴしゃりと言った。
皆に疑念の眼差しを向けられ、北見の額には大粒の脂汗が浮いている。じりじりと居住区の方へ後ずさりする。
「もういいじゃないの、その男がやったんで。ほら、逃げるわよ。鮠川君、とっとと掴まえなさい。警察が来るまで、縛って木にでも吊るしとくのよ」
ソファでぐったりしていた菅野老嬢が投げやりに言った。
「そいつが変態なのは間違いないからさ。奥さんだってそのせいで何人も逃げ出してるんだし、私の知ってる麓の置屋でも、ブラックリスト載ってんのよ、そいつ。ほーんと、玉無しのクセに」
「なんやて!」
北見の動きが停まる。菅野老嬢と北見は元から反りが合わないらしく、日頃からしばしば諍いを起こしていたが、場合が場合だけに皆が二人を注視した。
「ほんと、嫌よねぇ。潔く諦めりゃいいものを、玉無し短小の狒々爺がいつまでも色呆けしちゃってさ。置屋の娘が言ってたわ。油断してるとすぐ異物挿入してくるのは、自分の挿入すべきものが挿入できないから、その欲求不満解消のためじゃないか、ですって!」
金払って嬲る相手から心理分析? までされちゃってさ――と、菅野老嬢はさも愉快そうに、くぐもった笑い声を上げ、
「みじめったらありゃしない」
北見のこめかみに青筋が浮かぶ。よほどプライドを傷つけられたらしい。顔面は赤黒くなり、鼻息荒く、唇をわななかせる。
「あんた、あんたなぁ。今日という今日は……」
「殺されるゥ! フィストファックされて内臓抜かれちまうよ! 誰か助けとくれ!」
北見が耐え切れずに一歩踏み出し、老嬢がいよいよけたたましく叫び、鮠川と珠子が仲裁に割って入ろうとした、その時だ。
「あああああん」
声がした。全員の動きが止まる。
「あああああん、あんあん。あああああん、あんあん」
どこからか嬌声が聞こえる。
腹式呼吸の激しい息遣いまで混ざるその声は、
「まゆみや!」
北見が叫んだ。
「まさか!」
鮠川、珠子、相原の三人は同時に顔を見合わせる。彼女は確かに死んでいた。だが嬌声は徐々に近づいて来る。
「あああああん、あんあん。ああああん、あんあん」
「外や!」
耳を澄ませていた北見が再び叫ぶ。
「ちょっと見てきます――」
こらえかねたのだろう、珠子が玄関へ小走りに駆け、
「向坂先生!」
鮠川も彼女を追って走り出した直後、珠子の数歩先で玄関ドアのガラス戸が盛大に内側へ吹き飛んだ。同時に巨大な灰色の塊が転げ込んで来る。あわや珠子が立ち止まり、
「先生!」
鮠川が叫ぶ。だが、珠子は金縛りのようにその場から動かない。動けない。そして鮠川もまた、動けなくなった。
「あああん、あんあん。ああああん、あんあん」
「いやッ、いやッ」
嬌声はその塊が発していた。
細身だが、しゃがんだ姿勢で三メートルほど背丈のある大型動物だ。無毛のサルという形容が一番近いだろう。鮠川と目が合った。人間で言う白目にあたる強膜が燃えるように赤い。その中心に墨を一滴垂らしたような小さな瞳が黒く、爛々と輝いている。
「ああああん、あんあん」
まゆみのよがり声が響くたびに、そいつの喉がひくひくと蠢いた。
ビロードを思わせる、きめの細かい、たるんだ灰色の皮膚をしている。体表が所々黒ずんでいるのは乾いた返り血だろう。短い脚、長い腕。人に似て器用そうな手の造りだ。両手と両足には鋭い爪が見え、やはり乾いた血がこびりついていた。唇を歪め、笑顔めいて剥き出された歯間には黒々した毛髪と頭皮の塊が挟まっているのがはっきり見える。こうなるともう、まゆみ失踪の理由は誰の目にも明らかだった。彼女はこの生き物に喰われたのだ。
「ああああん、あんあん。ああああん、あんあん」
裸の猿は喉を鳴らしながら、鼻をひくつかせる。硬直した珠子へ鼻面を伸ばし、嗅ぐ。
ゆっくりしたその仕草は品定めでもしているかのようで、
「珠子先生!」
鮠川が珠子に飛びつくのと彼女がそれまで立ち尽くしていた空間をサルの片手が一閃するのとが同時だった。直撃は避けたが、爪にかすられた鮠川の脛から鮮血が飛んだ。
「鮠川君!」
引き倒され、我に返った珠子が縋りつく。その彼女を片腕へ抱きとりながら、鮠川は必死の思いでサルを向き、赤い目玉を見据えた。どうしても背を向ける気になれなかった。嫌味たらしい目付きだ。絶対弱者への余裕がある。視線を逸らせばたちまち襲いかかられる気がして片手片足、尻の力で彼はそのままにじり下がった。珠子も必死に床を蹴った。猿は二人の顔を覗き込むように首を伸ばす。
「ああああん、あんあん。ああん、あんあん」
「お助け!」
鮠川の視界の片隅へ、居住区へ向かって逃げ出す北見が映る。
せめて珠子だけでも、と焦る彼の眼前からふとサルが消えた。と思う間もなく、背後からのしかかられて倒れる北見と、その頭から齧りつく捕食者が見える。老人はあっけなく喰い裂かれた。
「こっち!」
体をひねって彼の腕から抜け出した珠子が、自ら立ち上がりつつ無理矢理、鮠川も引き立たせる。二人は僅かな距離をたちまち駆け抜け、玄関カウンターの後ろにある事務室へ飛び込んだ。文字通り部屋へ転がり込む。金属製のドアを閉めようとすると、
「またんか!」声とともに相原が上半身を挟んだ。
「奴は北見に夢中だッ」
なおも閉めようとする珠子を部屋の中へ突き飛ばし、相原はドアの隙間を保持する。
少し遅れてぞろぞろと外山婦人、菅野老嬢、野々村の三人が走り込んで来た。もたつく野々村を引っ張り込んだ後、相原は音を立てないようにドアを閉め、鍵を下ろす。
大きく息をついた後、振り向いた老人は珠子を鋭く睨みつけた。
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