わだつみの宮にさよなら 小説版

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 夜の、大川の、ほとり。
「この川の至る所にクソ餓鬼どものカメラが仕掛けられているはずなんだ!」
 あの人のこめかみには筋が浮いて、ぴくぴく動いていた。
 同じくらい私とのことも真剣になって欲しいもんだ、と言ったって、そうでないのだから仕方がない。あの人は私よりずっとずっとイルカやクジラが大切なのだ。
 そういう男を選んでしまったんだから、って言い訳は通じない。
 だってあの人と付き合い始めた時、あの人はまだ、人間が動物界で一番頭がいいと思っていたはずだから。クジラのクの字も言わなかった。初めて二人で行ったハワイ旅行だって、自分で進んでホエールウォッチングの予約をしてきた。あの頃のあの人はクジラやイルカを、前座の潮吹き、女に哺乳類としての役割を思い出させる小道具、くらいにしか思ってなかった。三番目の会社を首になってから急に「海へかえりたい」とか言い出した。結局、逃げ道がパチンコやお酒でなくて海生哺乳類かいせいほにゅうるいだっただけのことだ。
「住民投票になれば必ず俺たちが勝つ。その投票案を可決させるためにもこれ以上俺たちにネガティブな印象を植え付けるような動画や写真を撮られるわけにはいかないんだ」
「あの〝やらせ動画〟は結局どうするんですか?」
「知らん。それは本部が解決することだ。俺たちは現場で食い止めるんだ」
 あの人はそう言い切って、質問者を睨み付けた。本当は「放っておけ」と一言、指示があっただけで、なお食い下がるあの人へ「下っ端が気にすることじゃない」と支部長から厳しいおたっしがあったことを私は知っている。あの人のプライドはここでまた傷ついた。
「スポンサーは君たちを切ることも臭わせてきてるんだぞ」と叱責しっせきされもしたらしい。
「お前は三号艇で、佃大橋の下流を探してくれ」
 あの人はそう言って、こちらへ小型の電波探知機を投げて寄越よこす。
「リーダー、ちょっと」
 私は小走りに駆け寄って、あの人の腕を引き、
「ちょっと手が痛いんだ。一緒に乗ってくれないかな。少し話したいこともあるし」
 あの人は私をじろりと見おろした。
 高校の時の体育の先生を思い出す。疑いの目。嘘と決めつけて嘘を見破ろうとするあの目。私の生理はなぜかいつも嘘にされた。
 あのエロおやじならともかく、なんで好きな人にも同じ目を向けられなきゃいけないんだろう、と思う。きっと、私がバカだからだろうとも思う。ほんとバカだな、と最近よく思うのだ。
「すまんが一人で行ってくれ。俺はここから指揮をださにゃならん」
「指揮なら無線でもなんでもあるじゃない。別にここからじゃなくたって……」
「緊急時にそなえるべきだろ?」
「でもさ……」
「あのさぁ」
 突然、くそったれの副リーダーが割り込んできた。
「公私混同は良くないよ。そういうのは作戦が終わってからするべきだと思う」
 細い目、厚ぼったい目蓋。
 赤毛に染めた副リーダーの唇はてらてらしている。あんたのラメ入りグロスを作ってる会社、動物実験は仕方がない、って認めてたぞ。まあ、そんなことを言ってもコイツに効果は無いのだろうが。ちやほやされるならどんな場所でもいいタイプの女だ。
 能無しが副リーダーをやれているのは、その方が何かと都合がいいというあの人の判断があったからで、国際団体日本支部の地域部の行動部隊の小隊リーダーともなればつねに肉便器を携行する必要があるらしい。私は皆が散開したあとの指揮所で二人が何を始めるか、知っている。バカだ。ほんとうに、バカだ。
「副リーダーの言うとおりだ」
 あの人が言う。
「……カヤックに乗ったら吐いちゃうかもしれないんだ」
「酔い止め飲んでいけよ」
「……そうする」
 川へ出る準備をする途中、私の背中へ向けて笑う副リーダーの顔が見える気がした。不細工だと思いたいが、まあ、あの人に引っかかる女なんてみんな、きっとどっこいどっこいだ。
 私は暗い川へ独りでぎだした。
 いつの間に、こんなにうまく漕げるようになったのか。
 下腹が少しつかえる気もするけれど「気のせい、気のせい」と自分に言い聞かせて川をくだる。辺りには誰もいない。昼間ひるま大勢いる支援者のおじさん、おばさんは大抵、夜のあいだは自分の家に帰っている。夜、川にいたとしても、水の上には出たがらない。そういうのは、
「若い人にお願いしますわ」
 だそうだ。お互いの年齢なんて気にしないで、一丸いちがんとなって戦いましょう、と言うわりに。
 だるかった。このまま海へ流れ出て行っちゃえば楽だと思った。夜の大海原はきっと、月がすごくきれいだろう。私は目をつぶって、その光景を思い浮かべる。
 でもそういう時に限って探知機が見つけたりするのだ。ピーピーピーピーうるさかった。橋脚きょうきゃくの裏側からの反応だ。
 私は吸着アンカーを橋脚へ投げて貼り付け、そのロープを手繰たぐり寄せて近づいた。我ながら手慣れたものだ。大学で同期だった子たちは今頃みんな、キャラ弁作りやおつくろいに手慣れているのに、私は敵電波の発信源探しと解除、取り外し作業に手慣れている。なんだかな、と思う。会の雰囲気的には、そのうち、爆弾づくりにまで手慣れるかもしれない。
 向こうもこちらが見つけることを想定してるのだろう。監視カメラはかなりがっちり、うまく取り付けられていた。ここの子たちはほんとうにすごい。私の赤ちゃんもああいう風に育ってほしい。たくましく、賢く。
 まあ、産めればの話なわけだが。
 私はカヤックから身を乗り出して作業を続けた。潮の変わり目から三分さんぶの下げくらいで流れがあるし、結構、波もある。気を付けて、慎重に、慎重に――。
 その時、視界のはしでカヤックの胴へ掛かる白い手が見えた気がした。船体の片側にだけ急に重さがかかった船はぐるん、と回転してひっくり返った。その瞬間、私は橋脚に顔面から叩きつけられた。フジツボの殻が私のでこや鼻を容赦無くえぐり、唇を引き裂いた。びっくりして声も出ない私はそのまま、頭から川へダイブする。子供の悪戯にしては悪質すぎる!
 子供? 
 そう、手の持ち主を私は最初、子供と考えた。そんなに大きくなかったからだ。
 体が沈んで、潮でぐいぐい体を川底かわぞこへ押し付けられて、顔が痛いのだか水がしみるのだか分からなくて、目を開けると、自分から流れ出した血で目の前が真っ赤だった。その向こうに、そいつがいた。白い、子供のようなもの。だけど子供じゃなかった。白い人魚だった。ぶよぶよふやけて、つるんとした顔に口だけが目立つ人魚だった。どうして口があると分かったかというと、顔のはしまで裂けた口で嫌らしく笑っていたからだ。
 これ、やばい奴だ!
 私は直感した。思い切り水をかいて水面へ飛び出した。空気が顔に触れて痛かった。でも、なんとか……その時、笑い声が聞こえた。やっぱり、子供の笑い声みたいだった。目をらして周りを見ると、白い顔がいっぱい浮いていた。キョキョキョキョ、みたいな声を出して、みんな笑っていた。笑いながら近づいてきていた。
 敵性ネットサイトのチェックで見かけた、嫌な噂を思い出す。
 人魚の、ゾンビ?
 ふと、下腹に嫌な感触があった。水の中にもいる。一匹が私の下腹をまさぐっている。
 私のへその下ぐらいへほおずりして、でまわして、舌なめずりをしていた。
 突然、手のひらを埋め込むように押し付けてきたから、
「あんたなんかにやるもんか!」
 私は思いっきり膝蹴ひざげりをかました。でもそれは余裕でかわされて、次の瞬間、私の手と足はそれぞれ、別の人魚に捕まえられていた。いつの間にか裸にかれていた私は水中で大の字に引き延ばされた。おもいっきり体を動かして逃げようとしたけれど、全然ダメ。
 で、そのうちにあいつらが歌い出した。クリスマスだか新年だかにテレビでよくやってる古い音楽に似たメロディで、甲高い声で全員が歌っている。いけにえ、という言葉がふと頭に浮かんだ。普段、そんな言葉考えもしないのに。
 私? 
 それとも――? 
 一匹がニヤニヤ近づいてくるのが見える。私は必死で体を揺さぶる。でも、こいつらの腕はゴムみたいに私の力を消してしまう。どんどん近づいてくる。鉤爪かぎづめを見せびらかしながら、水かき付きの手を伸ばしてくる。私は目をつむる……。
 ギャッと声がして歌がやんだ。
 開いた私の目に飛び込んできたのは黒い、女の子だ。
 水面に立つ、女の子。
 私に近づいていた一匹をやりのようなもので突き刺し、ぶん、と槍を振ってそれを放り捨てた。水面に衝突した途端、刺された人魚は泡になって飛び散った。
 人魚たちはシャーッと声を出しながら、次々女の子へ飛び掛かる。私はすでに自由になっていた。こちらに注意を向ける人魚は一匹もいない。水面で槍を振り回し、自分たちの仲間を弾き飛ばす女の子へ全員で牙を向いている。また一匹飛びかかり、水面へ叩きつけられた。
 私は立ち泳ぎをしながら、咄嗟とっさにこめかみのウェアラブルカメラを起動させる。これは絶対に「撮らなきゃいけない」と思った。
 この子はヒーローだ。団体も水軍も関係ない。この川を守るヒーローに違いない。特別なコスチュームは着ていないけれど、子供の頃に映画で見たヒーローそのものにかっこよかった。ぞくぞくするほどクールだった。
 だけど、人魚の数が多すぎた。一度いちど、偶然に二匹で飛びかかって、一匹は撃ち落されたけれど、もう一匹の爪が女の子の髪のはしを切り落とした。これで人魚たちは、お互いに息を合わせて攻撃すればいいと気付いたらしい。一度に二、三匹、同時に飛びかかり始めた。
 彼女も素早く身をかわして応戦するけれど、息が上がっていくのが私にもわかる。
「あッ」
 私と女の子が同時に叫んだ。彼女が顔面を抑えてしゃがみ込む。四匹で一斉いっせいに飛びかかられたのを避けきれなかったらしい。再び立ち上がった彼女のゴーグルが飛ばされ、左頬ひだりほほから出血している。深くはないが浅くもない傷だ。人魚の爪でかすられたのだろう。キョキョキョキョ、とあいつらがまた笑い出した。再び歌いだそうとした一匹が、彼女に頭をぶっ叩かれて流れていった。だけど、その槍の速度も明らかに落ちていた。
 笑う人魚。顔を水から出し、黒板を爪で掻くような笑い声を上げながら、女の子の周りをぐるぐる回り始めた。奴らがどうしようと考えているか、この先どうなるかなんて、私にだってわかる。人魚は全員で女の子に飛びかかって、押し倒してしまうつもりなのだ。
 女の子が私を見た。唇が動いた。「逃げて」と言ったんだ。私は声を出して答えることも動くこともできず、ただ立ち泳ぎで、その場にすくんでいた。
 その時だ。
 大きな水音がして、水面で何かがはじけた。悲鳴が響く。人魚の悲鳴だ。
 一匹が顔を覆って川の中へ沈んだ。ハッとする暇もない。次から次へと周りへ何かり注ぎ、水面で弾け続ける。よく見ると水風船らしい。それが水面で割れ、中の液体をらすたびに人魚が悶絶もんぜつして水中へ反転する。そのまま潜って姿を消す。
 私は痛みをこらえて左右を見渡し、飛んでくる物体の出所でどころを探した。
 いた。上手かみてから近づいてくる一台のバヤックに男が一人、またがっていた。正体の隠し方は、大ぶりのゴーグルをかけていただけの女の子よりひどい。銀行強盗みたいに顔全体を覆うマスクをかぶり、黒一色の半袖ウェットスーツを着ているから誰だかまるで分らない。けれど背の高い、がっしりした体つきから大人の男だろうと見当はついた。覆面男はまた水風船を投げつける。風船は弾け、最後まで粘っていた一匹をついに水中へ追いやってしまう。
「大丈夫か? ――オニアカの代わりに自動SUP? 無茶するんじゃない」
 水面で、推進機すいしんき付きのハードタイプSUPの上にひざをついて、私と同じように、やっぱりぼんやり彼を眺めていた女の子にかける声がとても優しかった。どこかで聞いたことのある気がした。
 女の子はバヤックの荷台へ乗せられ、私は女の子の乗っていたSUPに乗せられて岸まで曳航えいこうされた。
 緊急用の防水ポンチョをもらって着こんだ私を護岸ごがんへ上げて、
「ここからすぐ上流に青の秩序ブルー・オーダーの司令部があります。悪いけれど、ここから一人で帰ってください。あと、傷の手当ては早めにした方が良い。かなりひどいです」
 ぐったり背中にもたれかかった女の子が落っこちないよう、たくましい腕を後ろへ回しながら彼は言った。
 「帰れますね?」
 問いかけに私は小さく頷く。一筋ひとすじの潮に乗ったバヤックが素早く流れ下り、姿を消すのを、私は最後の最後まで見送ってから川へ背を向けた。
 痛みは気にならなかった。それより、かなりうらやましかった。
 すっきりしたらしいあの人は少し優しくなっていて、ぼろぼろで本部へ転がり込んだ私を見つけるなり慌てた調子で駆け寄ってきた。髪を整えながら副リーダーもやってくる。
 私は事情を全て話してカメラの記録カードを取り出し、あの人に手渡した。傷の手当てを受ける横目よこめで、あの人がカードを再生機にセットする様子をなんとなく眺めた。あれ、こんなにせてたっけ、と思った。日焼けサロンでがした肌が河童のミイラみたいだった。
 やがてあの人は自分の顎先あごさきまみながら、私の方へゆっくり近づいてきた。後ろから金魚の糞みたいについてくる副リーダーの目つきがなんだかおかしい。私をおもいっきり馬鹿にしている。あざけっている。変だな、と思ったところへ、あの人が言った。
「お前が言う、人魚だのなんだのは映っていない。頭を打って幻覚を見たんだろう」
 まあ聞け、と口を開きかけた私をあの人は制して、
「でも、良い動画を撮ってくれたよ。こいつはかなり使えるぞ。水上警察のほうから回って来た情報があるんだ。それとこれを組み合わせて、奴らを叩ける。よくやった」
「もちろん、リーダーのジャミングはずしや編集技術があっての話、だけどね」
 副リーダーがそう言って、あの人の肩に手を置いた。二人が目を合わせて微笑みあうのを、私はしばらくぼんやりながめていた。二人は分かってないと思った。
 それからとっさに体が動いた。二人を突き飛ばして再生機へ駆け寄り、置いてあったパイプ椅子を振り上げ、振り下ろした。冷静に考えてみれば、カードを取り出してつぶせばいいだけだ。でもそれに思いあたったのは「頭がおかしくなった」としばられて、倉庫に監禁されたあとの話だった。


     ※


ho‐ri:ようは濃度の差が問題なんだ。いつか君が「オリ」を今の科学では検知できない化学物質じゃないかって言ってたろ。それが本当なら、化学的性質を利用できるってことになる。

ttoyomi:濃度の差を利用するの?

ho-ri:そうだ。砂糖水に真水まみずを入れると薄まるだろう? これは濃度勾配のうどこうばいによって砂糖の分子が拡散するからだ。だけど見方を変えれば、最初に砂糖を溶かしこんでいた水から、新しくそそがれた水が一定量の砂糖分子を奪ったと考えることもできる。

toyomi:だから水源地の、オリのない水を汲んできたんだね。それを水風船に詰めて投げつければ、一瞬でもノガレの周囲からオリを奪い取ることができるってわけだ。

ho-ri:完全に奪い取って倒すまではいかなくても、奴らを動揺させることはできだろうと思ったんだ。水棲生物は水質の急激な変化に弱いものだから。あそこまで効果があるとは思わなかったけどな。非番を潰して秩父ちちぶの山奥まで水汲みに行ったかいがあったさ。

toyomi:そこまで考えて汲みに行ったってことだもんね。ほんと、すごい!

 帆織は職場なので手動でメッセージを打ち込んでいるが、トヨミはきっと自室にいて、音声入力を使っているのだろう。文字や言葉尻ことばじりに興奮が饒舌じょうぜつとなって表れている。
 昨晩の戦いではもちろん帆織も自分のアイデアの成功に喜んだが、自身は失敗しかけたはずのトヨミの喜びはなぜか、帆織の比ではないほど大きいようだった。水の上で荷台に横向きで座らせ、頬の傷を帆織が手当てする間も、これまでにないくらいニコニコしながら遠くを見たり、こちらへ横目を走らせたりするものだから、帆織までくすぐったい気分になったくらいだ。

ho-ri:ノガレにとって水中のオリのバランスはかなり大切なんだろう。もしかすると奴らは、自分の住みやすいように大川を作り替えようとしているのかもしれないな。

toyomi:どういう意味?

ho-ri:以前君が、なんでノガレがヨドミを造るようになったのか分からない、と言ってたろ。それについて、俺なりに考えてみたんだ。通常、川で集まったオリが海へ流れ出て、海溝に飲み込まれて浄化されるなら、深い海ほど濃縮したオリがまってることになる。もし、海洋の大循環や海溝の沈み込みの速度を上回ってオリが蓄積ちくせきされれば……。

toyomi:深い海の底にはかなり大きなヨドミができている?

ho-ri:可能性は高い。そしてノガレたちは普段、そういう場所で暮らしているんだ。

toyomi:連中が大川を自分たち向きに造り変えてる、って言うの? 

ho-rri:元々が大都市を貫通する川で流入するオリも多いし、その上、水質的にはこれほどきれいな川も他にない。もしかすると深海よりずっと綺麗かも。いや、もしかしなくても綺麗だろうな。二十世紀からこっち、陸上人は色々なごみを深海へ捨ててきてた。海底には巨大循環流があるとはいえ、そのスパンは数千年以上だ。拡散もそれほど進んでいないはずさ。俺たちがとうの昔に解決したつもりでも、深海では汚染の只中ただなかって可能性もある。逆に陸水りくすいや沿岸域を見れば、大規模浄化技術は日本がリードしている分野だし、人間の生息圏に関して考えれば、最新技術が片っ端から投入された今の東京水系が世界一も綺麗って話も、あながち誇張こちょうじゃないんだが……
 
 文章を打ち込みながら、帆織は昨夜、就寝の直前に掛かってきた真奈まなからの電話を思い出している。帰宅して風呂に入り、さっぱりした後も、トヨミへの援護活動がようやく、自分でも満足できるレベルで成功した興奮の冷めやらぬまま、ビールを飲みながらテレビニュースを眺めていた彼だった。
 うつらうつらして、さて冷房の効いた部屋の中で温かい布団にもぐり込もう、と立ち上がった時に端末が着信を告げたのだ。
「元気?」
 真奈の声は彼の充実感を再び引き立たせるのに充分、温かかった。
「元気だよ」
 返すと、
「ほんと、そうみたいだね」
 くすぐるような声で返事がある。
「声に張りがあるもん。本部にいたころの先輩と同じくらい元気、って感じ」
 帆織は笑った。
「そうかもしれないな。自分で言うのもなんだけど子供の扱いにもだいぶ慣れてきたし、なんとかうまくやってるよ」
「そりゃよかった。ホント、良かったよ」
「そっちはどうなんだ? タレントで食っていくことに決めたのか?」
「馬鹿言わないで。最近、露出ろしゅつひかえるようにしてるんだから。嫌なこと言って来る人もいるし。大学があそこまでねたみとそねみにまみれた場所だなんて、知ってるようで知らなかったよ」
「お前は特に、井崎先生の下働きみたいに見られてて、軽んじてる人もいただろうしな。マッドサイエンティストの手下くらいに思っていた若手が急に新進気鋭しんしんきえいの女科学者、美貌びぼうの大川ナチュラリスト、みたいに持ち上げられてるのを見れば、嫌味を言う人間の一人や二人はいるさ。会って愚痴ぐちでも聞こうか?」
「ありがとう。でも、今はいい。ちょっと気合い入れて取り組んでるレポートがあるんだ。今までの資料をまとめて中津瀬会なかつせかいから新経連しんけいれん水系部会すいけいぶかいに上げることになってさ。なんか某国のお偉いさんへのプレゼンに使うんだって。浄化技術を売り込むための」
「やっぱりそうきたか。おめでとう!」
「ありがと。……でも、それでちょっと気になることがあって電話したんだ」
「なんだ?」
「新経連はさ、東京水系を観光資源としても活用しようとしてるみたいなんだけどね」
「今だってやってることだろ?」
「今は官民バラバラで好き勝手やってるでしょ。それを統合して、本格的なシステムとして運営していこうとしてるの。観光立国計画は一度失敗してるからね、ほとぼりが冷めた今になって、夢よもう一度、って感じなのかな。カイギュウ騒動で世界から注目を浴びてることもあるし、スマートに再編成して円滑な資産運用をしたいのね」
「いいことじゃないか。今だってインチキガイドが安全装備もろくにないままカイギュウツアーやったりして困ってるんだ。そういう奴らが一掃いっそうされれば川はもっと良くなるさ」
「――掃除の対象に〝水軍〟が入っててもそう言える?」
「どういうことだ?」
 帆織は虚を突かれた気がした。興奮を吹き飛ばされた。
「まだ決定事項ではないと思うんだ。でも、参考に見せてもらったプロジェクト案の中に、若年自由漁業者に関する問題とその解決策、って項があってね、その中で水軍の子たちはあんまり良い書かれ方をしてなかったんだ。どのように穏やかにらしていくかが当面の課題である、って書いてあった。ほら、水軍って自由じゃない。新しく川を編成する上で大人に何か言われてあっさり引き下がる子たちじゃないことくらい、私にだってわかる」
「確かに、今の大川を完全にコントロールしようと思えば、あの子たちは目障めざわりかもしれないが……地域文化の継承者として連中をおだててる大人ばかりじゃないしな」
「それに、カイギュウから特異な酵素活性こうそかっせいを持つ遺伝子が見つかった、って話も聞いたの。で、それを利用するために大川を観光地けんカイギュウ放牧場に、って案も出てるみたい」
「それでますます、あの子供たちは邪魔になる、ってわけか」
 帆織はコハダの「ジーン・リペア」を思い出している。
 ある種の、若返り酵素――。
「付き合い方に注意した方が良いかもよ、先輩。子供たちとあんまり親しくしすぎてると目をつけられるかも。中津瀬会、新経連なら、前の人たちよりも強いんだろうし」
「……前の人たち?」
「先輩を本部から追い払うように圧力をかけた人たちだよ」
「ああ」
 もちろん帆織は分かっていてとぼけたのだ。ずばり指摘した真奈の口ぶりに遠慮が無かったのは、それだけこちらを真剣に心配しているということなのだろう。実際に相手と接しているだけ、帆織が感じているよりよほど切迫せっぱくした気持ちなのかもしれなかった。
「先輩、ただでさえ睨まれてるだろうしさ」
「そうだな。充分気を付けるよ。助かった。事前に知っておけてよかったよ。潤地うるちさんにでも相談してみる。彼女なら教育委員会に顔も利くだろうしな」
「……ほんと、今度は気をつけてよ?」
 不安げな彼女をなだめになだめ、次のデートで真奈が前から行きたがっていた遠乗りに連れていくことを約束してから帆織は通話を切ったのだった。
 翌日、早速、それとなく中津瀬会の自由漁業者排除の動きについて潤地うるちへ雑談ごかしに伝えたところ、教育学者は「やはり」といった顔つきになって口をへの字に曲げた。
「ここんとこ委員会でも水遊び規制論がいまさら、妙に出てたの。そういうことか!」
 対策を練る必要がありそうね、と彼女の目は憤怒ふんぬに燃えていたものだ。


ho‐ri:深海と大川の物理環境はまるで違うが、奴らの生物的機能がそれを問題にしないなら、オリをため込むことで川を改造して水質は最高、霊的にはノガレ向きの環境を整えることができるだろ。奴らはそうやって、夜の川を完全に支配したいんじゃないか?

toyomi:そうだね、確かにその可能性は、あるよね。


 そこまで書かれた文章が送られてきた後、数分、メッセージが途絶とだえた。帆織は昨日のパトロールの報告書を思案しながら着信を待つ。やがて端末のディスプレイが点灯し、


toyomi:とにかく、どっちにしたって平気! こっちには帆織さんがいるもんね!

ho‐ri:あんまり買いかぶるなよ(笑)

toyomi:買いかぶってなんかないよ。昨日は本当に格好良かったもん。駆け付けてきてくれた時はすごく嬉しかった。二割り増しくらい素敵に見えたよ。

ho‐ri:前、一人で夜の川に出た、みたいなメッセージくれたろ? 気にしてたんだ。

toyomi:ありがとう! それに濃度差による攻撃なんて、私なら絶対、思いつかない!

ho‐ri:謎のヒーローをバックアップする科学者のポジション、ってところだな。

 またしばらく返事がなかった。
 そこで帆織は、以前からの懸案事項けんあんじこうほのめかす気分で、

ho‐ri:適応できてるか、俺?

 すぐに返事がある。

toyomi:できてるできてる! 

 その時だ。汐田しおた所長がけわしい声で呼びつけた。慌てて立ち上がった帆織に対し、
分流点ぶんりゅうてんのすぐそばで青の秩序ブルー・オーダーと子供たちが対決しようとしているらしい。確認に行ってくれ。巡回中の潤地うるち君も向かっているが、かなりの人数らしいから、すぐ他にも応援をやる」
 トヨミとの会話で生じていた優しい興奮は再び吹き飛ばされた。
 それで話は、この章の冒頭へ戻る。
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