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潮の流れが全体として、本当の意味で突然に動きを変えることは、実は滅多にない。慣れない人にはふいに始まったように思われても、実際のところは干満の規則正しいリズムが潮汐のベースとなっているからだ。満ちる潮も引く潮も、ターニングポイントまで静かにカウントを続け、それからゆっくりターンする。
だが、波に予測のつかない大波が時々起こるように、潮の流れにも複雑系に由来して偶然、予想外の強い流れが起こることがある。同方向への小さな流れが偶々重なり合ってしまうのだ。そしてそういう流れほど、激流になりやすい。
「遺伝子操作されたアマモが移植されている、っていうのはサンプルがあればすぐに証明できるさ。だけどその提供者が……お前の、勘違いってことはないんだよな?」
電話口の向こうで一瞬生じた沈黙に、帆織は微かな不安を覚えた。言い方をしくじったかと考えた。だが真奈は自説を頭の中で検証していただけらしい。ううん、と語気を強め、
「そのタンパク質の遺伝子特許を持ってる会社、ケイマン諸島のバイオベンチャーだったんだけど、そこ、経産省のダミー会社として有名なとこよ。先輩も聞いたことくらいあるんじゃないか、と思うんだけど……」
「ジーングレイブか」
様々な理由から先進国と呼ばれる国家間では発見が無かったことにされるある種の生命暗号を、国際規約の制限を全く受けず自由に研究できる〝生命科学の秘密の花園〟は、歴史から抹殺されたはずの二重螺旋の亡霊が踊る墓場でもある。現世利益は大好きだが、外面を好くすることにも人一倍腐心するこの国が、墓守を出向させていないはずがない。今回彼らは金暴落の懸念から葬られていた塩基配列を叩き起こしたということらしい。
「経産省が管理する会社なら、実質、新経連の持ち物みたいなものでしょう? つまりは……」
「中津瀬会の持ち物、ってわけだ」
真奈が不審を抱いたきっかけは、彼女が会へ提出したレポートが公的機関で資料として用いられた時に、ある一つの提言だけが跡形も無く削除されていたことだった。
カイギュウカムバック運動で使用されているアマモについて、地理的な遺伝子攪乱を防ぐため今後は東京湾原産のものへ限定するべきだ、と彼女は主張した。だが、公開された資料においては、アマモの産地どころかカムバック運動そのものについてすら触れられていなかったのだ。
最初真奈は、浄化技術輸出のためのプレゼンでそこまで深く言及する必要はないと担当者が判断したのだろう、くらいにしか思っていなかった。たしかに、浄化技術の正の環境改変についての発表で、カムバック運動は直接には関係しない。大川の現状説明くらいのつもりで入れた一説でもあったので、少し出しゃばりに思われたかな、と反省しもした彼女だ。
だが論文を見てやっている院生が、何を考えたのか運動で移植されているアマモの遺伝子解析をやった結果を覗き見て驚いた。そして、これが理由だと直感した。
「会が運動を利用して金鉱開発をしようとしてるって言うのか。東京水系に金元素が、本当に採算が取れるほどあるのなら、おかしくはない話ではあるけどな……」
「だって他に、アマモへこんな遺伝子を組み込む理由が無いじゃない」
カイギュウ暴走事件で醜態をさらし切った青の秩序を中津瀬会が見限り、逆にメディアを通じてその大活躍が世界中へ発信された水軍への接近を目論んでいる、という話は帆織も既に潤地から聞いていた。掌を返したというより、一種の観光資源としての可能性を大川の子供たちに見出したということだろう、と考えていた。
だが、
「うちに提出された書類には、移植されてるアマモの提供者はカムバック運動に協賛する日本各地の環境系非営利法人ってなってたけどな、じゃあそれもみんな、会のダミーってことか……?」
ただの観光資源として近づくならまだ、許容されたかもしれない。大川と、その子供たちの素晴らしさはもっともっと世界へ広められて好い。会が広報の役割を担ってくれるのなら、その上りを私することに異論は出ないだろう。正当な経済活動には適正な見返りがあってしかるべきだ。それは大川の子供たちなら充分に理解している。
しかし、それだけではないのだ。むしろ名物として子供たちを扱うことは建前に過ぎず、小さな善意の集合を、悪意をもって利用しているだけなのだとしたら……。コハダの運動がひどくスムーズに受け入れられたのも、彼女のカリスマや人々のカイギュウへの思慕ばかりが原因なのではなく、むしろ、そうした情感を人々がかき立てることすら――、
「中津瀬会か。新経連の文化部会だなんて言って、要は新しい儲け話探しのための工作機関そのものじゃねえか」
「ああまで敵対した子供たちへ媚びるのに兼ねて、遺伝子操作した植物の応用実験をしてみたいってくらいの動機だとは思うんだけど……。先輩も言うように、これがどれほど現実的なプランなのかまだ分からないわけだし」
一応、スポンサーの弁護を試みる真奈にしても歯切れが悪い。
帆織には彼女の気持ちがよく分かった。金元素回収のためのアマモ移植、それも大規模な移植が彼女の言う〝正の環境改変〟には当たらないであろうことを、彼女自身既に気づいているのだ。
学生時代からこれまでの彼女の人生における主題が、その主題を探求するために得た後援者によって穢されようとしているのかもしれなかった。老獪な資本主義の権化が子供の善意を無給の労働力として貪る、そのおこぼれなど、そ知らぬふりで受け取ることのできる真奈ではない。
このシチュエーションは以前にも見た。他ならぬ自分が、ここでしくじり、この川へ飛ばされてきた。
結局〝よくある話〟でしかないのだろう。
「先輩、私、どうしよう」
心細げに問われ、帆織はしばし考えた。
だが、
「お前の信じることをやれ。俺はいつでも、お前の味方だ」
いつでも彼の味方だった彼女に伝えるべきことは、結局それしかなかった。
※
実際の魔物との闘いに比べればインパクトが弱いのか、あるいはそれで精一杯だからなのか、この川に伸びる陰謀の魔手や遺伝子操作された水草の話題それ自体にはそれほど興味があるとも見えないトヨミだった。
しかし、
「それで今夜の祓いを休みたいってことだったんだね。相談にのってあげたくて堪んなくなっちゃったんだ」
彼女の目は穏やかで、声にも刺々しいところはまるで無い。
とはいえ帆織は自然と言い訳じみた口調になって、
「ノガレとの闘いは確かに大事さ。だけど真奈が、俺にとって一番大切な人間であることも確かなんだ」
そして相談があってから丸三日、真奈から全く音沙汰の無いことに辛抱できなくなったことも確かだ。
「別に責めてないから大丈夫だよ」
暑い暑い、とからかいを込めた口ぶりでトヨミは宥める。
「そういう人がいるのって、やっぱりすごく大切だと思うし。……でも帆織さん、今夜、結局ここに来てるじゃない。良かったの?」
「今日の昼、真奈を晩飯に誘ったんだ。色々相談もしよう、って。そしたら速攻で断られた」
「なんで?」
「この三日間のうちに自分で腹を決めたらしい。今夜中にレポートを一つ、書き上げるつもりだとさ。あんなぽやっとした見た目だけどな、なんだかんだ言って状況把握や意思決定は素早い奴なんだ」
「恋人には甘えない、味方でいてくれればそれでいい、ってわけか……。すごく好いね、そういう関係」
「大人だろ?」
帆織の得意気な声を受け、「やれやれ」とトヨミが後ろで肩を竦める気配がする。いつも通り、帆織が漕ぎ、彼女が荷台に立ってヨドミを探しているのだ。
その時、帆織の携帯端末が電話の着信を告げた。相手はマルタで、トヨミの今の連絡先を教えてくれと言うから、
「ちょうどいい、今、一緒にいるんだ」
言った帆織の背中を、当の彼女が後ろから思いきりどやしつける。
「銛、刺すなよ?」
「叩き込んでやりたいよ、ホント!」
なぜ二人が一緒にいるのかマルタは尋ねなかったが、事前の打ち合わせ通りに、
「トヨミの奴、また夜の川で独りふらついててな、注意してたとこだったんだ」
「ふぅん……」
相手は帆織の言葉を微塵も信じていない様子だった。むしろ予想通りだ、とでも言いたげな口ぶりで、
「――で、トヨミは? 俺からの電話なんかに出たくないって?」
「要件は何だか聞いてくれとさ」
帆織が嘘をつくと、再び拳が背中を小突く。
「尾行を手伝って欲しいんだ。ああ、つける相手はコハダ。ちょうど今、あいつが自分ちの部屋の窓からこっそり抜け出したところなんだけどよ――」
コハダもマルタも家は古くからの下町区域にある戸建てのはす向かいだそうで、
「尾行って、あんたねぇ、私たちにストーカーの片棒担がせようっての?」
帆織の端末に顔を寄せ、トヨミが刺々しく言い放つ。
だが、
「なんか様子がおかしいんだ。変にきょろきょろして、あいつらしくない。前に一回尾行したことあるんだ。あいつがなんとなく変わってからな。その時は晴海の倉庫街のあたりでまかれちまって、それっきりだったけど、今日はなおさら見失いたくない感じなんだよ。今度も晴海の方へ行くみたいなんだけどよ、あっちの陸上は俺、あんまり土地勘ねぇんだ。俺独りじゃ無理がある」
頼むッ、とマルタ。
と、トヨミが端末を帆織の手からもぎ取った。
「私たち、忙しいから」
勝手に通話を切ってしまう。帆織へ端末を投げて寄越し、
「ヨドミ、さっさと祓っちゃいましょ」
使い魔のアカエイへ指示を出すべく、彼女がさっと上げようとした右手を、帆織は優しく掴んで引き下ろした。キッと見上げる眼差しを正面から受け止める。
「変だと思わないか? 晴海の倉庫街なんて、コハダとは縁の無い場所だ。あそこは晴海水軍の縄張りだったからな。それに子供たちが集まる場所へ行くならまだしも、夜の倉庫街なんていよいよ縁がない」
「――だからストーカーの手伝いをしろって?」
「せっかくマルタが、君を見込んで頼んできたんだぞ?」
「分かってないんだね。他に頼れる人がいなかったから、ってだけだよ」
「君以外に頼れる人がいない人間を、君は放っておくのか?」
トヨミは口ごもり、俯いてしまう。
カムバック運動の盛り上がりは相変わらずだが、集団漁をする子供がほとんど見られなくなった二学期の大川だった。
関東平野部では水中と陸上でおよそ一ヶ月ほど季節がずれる。水中は季節の移り変わりが遅く、九月の水はまだ温かい。これから晩秋に向けて魚たちが荒食いの時期に入ることもあり、学校行事も目白押しの期間とは言え、例年なら夏休み以上の好機到来なはずだ。だが今年は盛期には少し早いスズキを狙う、大人の釣り人が増えるばかりだった。
偶々出会った水浴びの子供たちへ戯れに「漁はしないのか」と訊いたところ、しばし逡巡の後、
「もう飽きた」
という言葉が返ってきた時にはぎょっとし、呆気にとられるしかなかった帆織だ。目新しい社会運動へ夢中になるあまり、本来の遊びを放棄したのだろうかとも考えたが、
「飽きた、っていうのは多分、争いに飽きた、ってことなのよ」
と、職場で潤地が分析していたのを聞いてなるほどと思った。
大人の不純な動機に利用されているかもしれないとしても、カムバック運動そのものの内側、子供たち自身の関係性には横並びの協力があるばかりだ。カイギュウ帰還の期待を胸に、手と手を取り合って未来を志す間柄に争いは無い。だが、漁には利益配分に繋がる力の強弱が集団から個人のレベルに至るまでどうしても、あからさまに付きまとう。青の秩序や水軍分裂騒動以降、そうした関係に倦み疲れた子供たちが争いのおおもとを回避する傾向にあるのは当然かもしれない。
現実の大川ばかりでない、電脳世界ですらこの傾向が見られる。
攻撃欲求発散の場としやすいのだろう。現実の川面に比べればまだまだ騒がしいネット世界だ。
ノガレに関わる危うい記事を見つけたら素早く削除申請するために、今も毎日チェックを欠かさないトヨミから聞いた話だが、近頃ダゴンネットには〝荒らし〟が跋扈し、悪戯もよく仕掛けられているのだという。インスマフェスタ等のページを開こうとすると中津瀬会と青の秩序の関係を醜聞的に報じたゴシップ記事や、国海大夜間調査事故の原因隠蔽を主張する個人サイトに飛ぶ仕掛けが繰り返し、仕込まれるのだ。〝荒らし〟による〝炎上〟はなお酷い。
スルースキル皆無な上に喧嘩っ早い(その上、クラッキングスキルも妙に高いことが多い)この辺りの子供が主な閲覧者なのだから、そんな登場人物たちが勢揃いする掲示板の炎上など、帆織には以前から一読する気さえ起らないが、昨今は特にひどいらしい。
だがこちらも表面的には賑わっているわりに、公表される閲覧者の数が日に日に減少しているとのことだ。その数値が信頼できるものならば、この結果もまた、主要な閲覧者であった大川の子供たちが争い事を回避する傾向を見せ始めている証拠と言えるだろう。いつまでもしつこく暴れ続ける一部の元気者を除き、子供たちは争いを生む可能性を嗅ぎ付け、忌避している。それは漁が盛んだった時分の、夜の禁忌に対するスタイルに似ていた。
喧嘩や揉め事が少なくなるのは帆織にとって良いことだ。昼間、通報で駆け付ける回数は夏前と比べて圧倒的に減った。クーラーのよく効いた部屋の中で、ドローンを使ってパトロールしているだけでよいのは気楽だ。急に自分が〝怠惰な公務員〟になった気さえする。夜の、トヨミとの川行きのために力を温存できるのもありがたい。
だが集団同士の対立傾向が弱まれば、個々の集団内での結束もそれ以前と比べて急激に弱まるだろう。その結果、今のマルタは本当にトヨミの他、頼れる仲間がいなくなってしまった可能性があった。帆織は「よし」と頷き、
「分かった。じゃあ、俺が行く」
「は?」
トヨミの目が丸くなった。
「帆織さんが? 帆織さんは……関係無いでしょ?」
「全く関係が無くはないさ。俺の本業は健やかな河川利用に貢献することだからな。中学生の女の子が独りで夜中に晴海運河沿いの倉庫街へ行く理由は、健やかな河川利用を脅かすかもしれん。あるいは尾行するマルタが何かに巻き込まれないとも限らない」
「……それは、そうかもしれないけどさ」
ぷい、とそっぽを向くトヨミ。
煮え切らない彼女は〝らしく〟なかった。いつもよりずっと子供子供して見えた。意外な思いで、だが、あるいは、だから、わざと互いの年齢を意識した口ぶりで、
「君たちの個人的事情を知らなくていい、と言ったのは君だろ。だから俺はそれを知らない。だから俺はそれを気にしないで、自分が必要だと思う行動を取るさ」
帆織は言って、じっとトヨミを見つめた。ここは大人ぶるべきだろうと思った。
彼女は眼を逸らしたまま、
「違うの。そういうんじゃないの。……私が行くのは、いけない気がするの」
「じゃあ途中で、好きな時に降りていいぞ」
帆織は前を向き、姿勢を作ってバヤックを漕ぎ始める。晴海方面へは陸に上がるより、一度河口まで下り切って適当なところに上陸した方が早い。端末をハンズフリーに切り替え、
「マルタ、今どのあたりだ? どこで合流すればいい?」
「歩きの尾行だと気づかれるかもしれない。俺も水路を先回りして、この間まかれた場所あたりで待ち伏せしてみる。倉庫街で会おう。協力に感謝するってトヨミに伝えてくれ」
結局トヨミは船を下りなかった。
晴海埠頭の脇から上陸し、バヤックを係留する作業を手伝いもせず、ふてくされてそっぽを向いてはいた。だが、街灯もまばらな埠頭通りを彼の後に従いながら、そっと安堵の溜息をついたのが帆織には聞こえた。それでいい、と彼は肩でも叩いてやりたい気分だったが、また意地を張り出すかもしれないと思ってやめておいた。
潮の流れが全体として、本当の意味で突然に動きを変えることは、実は滅多にない。慣れない人にはふいに始まったように思われても、実際のところは干満の規則正しいリズムが潮汐のベースとなっているからだ。満ちる潮も引く潮も、ターニングポイントまで静かにカウントを続け、それからゆっくりターンする。
だが、波に予測のつかない大波が時々起こるように、潮の流れにも複雑系に由来して偶然、予想外の強い流れが起こることがある。同方向への小さな流れが偶々重なり合ってしまうのだ。そしてそういう流れほど、激流になりやすい。
「遺伝子操作されたアマモが移植されている、っていうのはサンプルがあればすぐに証明できるさ。だけどその提供者が……お前の、勘違いってことはないんだよな?」
電話口の向こうで一瞬生じた沈黙に、帆織は微かな不安を覚えた。言い方をしくじったかと考えた。だが真奈は自説を頭の中で検証していただけらしい。ううん、と語気を強め、
「そのタンパク質の遺伝子特許を持ってる会社、ケイマン諸島のバイオベンチャーだったんだけど、そこ、経産省のダミー会社として有名なとこよ。先輩も聞いたことくらいあるんじゃないか、と思うんだけど……」
「ジーングレイブか」
様々な理由から先進国と呼ばれる国家間では発見が無かったことにされるある種の生命暗号を、国際規約の制限を全く受けず自由に研究できる〝生命科学の秘密の花園〟は、歴史から抹殺されたはずの二重螺旋の亡霊が踊る墓場でもある。現世利益は大好きだが、外面を好くすることにも人一倍腐心するこの国が、墓守を出向させていないはずがない。今回彼らは金暴落の懸念から葬られていた塩基配列を叩き起こしたということらしい。
「経産省が管理する会社なら、実質、新経連の持ち物みたいなものでしょう? つまりは……」
「中津瀬会の持ち物、ってわけだ」
真奈が不審を抱いたきっかけは、彼女が会へ提出したレポートが公的機関で資料として用いられた時に、ある一つの提言だけが跡形も無く削除されていたことだった。
カイギュウカムバック運動で使用されているアマモについて、地理的な遺伝子攪乱を防ぐため今後は東京湾原産のものへ限定するべきだ、と彼女は主張した。だが、公開された資料においては、アマモの産地どころかカムバック運動そのものについてすら触れられていなかったのだ。
最初真奈は、浄化技術輸出のためのプレゼンでそこまで深く言及する必要はないと担当者が判断したのだろう、くらいにしか思っていなかった。たしかに、浄化技術の正の環境改変についての発表で、カムバック運動は直接には関係しない。大川の現状説明くらいのつもりで入れた一説でもあったので、少し出しゃばりに思われたかな、と反省しもした彼女だ。
だが論文を見てやっている院生が、何を考えたのか運動で移植されているアマモの遺伝子解析をやった結果を覗き見て驚いた。そして、これが理由だと直感した。
「会が運動を利用して金鉱開発をしようとしてるって言うのか。東京水系に金元素が、本当に採算が取れるほどあるのなら、おかしくはない話ではあるけどな……」
「だって他に、アマモへこんな遺伝子を組み込む理由が無いじゃない」
カイギュウ暴走事件で醜態をさらし切った青の秩序を中津瀬会が見限り、逆にメディアを通じてその大活躍が世界中へ発信された水軍への接近を目論んでいる、という話は帆織も既に潤地から聞いていた。掌を返したというより、一種の観光資源としての可能性を大川の子供たちに見出したということだろう、と考えていた。
だが、
「うちに提出された書類には、移植されてるアマモの提供者はカムバック運動に協賛する日本各地の環境系非営利法人ってなってたけどな、じゃあそれもみんな、会のダミーってことか……?」
ただの観光資源として近づくならまだ、許容されたかもしれない。大川と、その子供たちの素晴らしさはもっともっと世界へ広められて好い。会が広報の役割を担ってくれるのなら、その上りを私することに異論は出ないだろう。正当な経済活動には適正な見返りがあってしかるべきだ。それは大川の子供たちなら充分に理解している。
しかし、それだけではないのだ。むしろ名物として子供たちを扱うことは建前に過ぎず、小さな善意の集合を、悪意をもって利用しているだけなのだとしたら……。コハダの運動がひどくスムーズに受け入れられたのも、彼女のカリスマや人々のカイギュウへの思慕ばかりが原因なのではなく、むしろ、そうした情感を人々がかき立てることすら――、
「中津瀬会か。新経連の文化部会だなんて言って、要は新しい儲け話探しのための工作機関そのものじゃねえか」
「ああまで敵対した子供たちへ媚びるのに兼ねて、遺伝子操作した植物の応用実験をしてみたいってくらいの動機だとは思うんだけど……。先輩も言うように、これがどれほど現実的なプランなのかまだ分からないわけだし」
一応、スポンサーの弁護を試みる真奈にしても歯切れが悪い。
帆織には彼女の気持ちがよく分かった。金元素回収のためのアマモ移植、それも大規模な移植が彼女の言う〝正の環境改変〟には当たらないであろうことを、彼女自身既に気づいているのだ。
学生時代からこれまでの彼女の人生における主題が、その主題を探求するために得た後援者によって穢されようとしているのかもしれなかった。老獪な資本主義の権化が子供の善意を無給の労働力として貪る、そのおこぼれなど、そ知らぬふりで受け取ることのできる真奈ではない。
このシチュエーションは以前にも見た。他ならぬ自分が、ここでしくじり、この川へ飛ばされてきた。
結局〝よくある話〟でしかないのだろう。
「先輩、私、どうしよう」
心細げに問われ、帆織はしばし考えた。
だが、
「お前の信じることをやれ。俺はいつでも、お前の味方だ」
いつでも彼の味方だった彼女に伝えるべきことは、結局それしかなかった。
※
実際の魔物との闘いに比べればインパクトが弱いのか、あるいはそれで精一杯だからなのか、この川に伸びる陰謀の魔手や遺伝子操作された水草の話題それ自体にはそれほど興味があるとも見えないトヨミだった。
しかし、
「それで今夜の祓いを休みたいってことだったんだね。相談にのってあげたくて堪んなくなっちゃったんだ」
彼女の目は穏やかで、声にも刺々しいところはまるで無い。
とはいえ帆織は自然と言い訳じみた口調になって、
「ノガレとの闘いは確かに大事さ。だけど真奈が、俺にとって一番大切な人間であることも確かなんだ」
そして相談があってから丸三日、真奈から全く音沙汰の無いことに辛抱できなくなったことも確かだ。
「別に責めてないから大丈夫だよ」
暑い暑い、とからかいを込めた口ぶりでトヨミは宥める。
「そういう人がいるのって、やっぱりすごく大切だと思うし。……でも帆織さん、今夜、結局ここに来てるじゃない。良かったの?」
「今日の昼、真奈を晩飯に誘ったんだ。色々相談もしよう、って。そしたら速攻で断られた」
「なんで?」
「この三日間のうちに自分で腹を決めたらしい。今夜中にレポートを一つ、書き上げるつもりだとさ。あんなぽやっとした見た目だけどな、なんだかんだ言って状況把握や意思決定は素早い奴なんだ」
「恋人には甘えない、味方でいてくれればそれでいい、ってわけか……。すごく好いね、そういう関係」
「大人だろ?」
帆織の得意気な声を受け、「やれやれ」とトヨミが後ろで肩を竦める気配がする。いつも通り、帆織が漕ぎ、彼女が荷台に立ってヨドミを探しているのだ。
その時、帆織の携帯端末が電話の着信を告げた。相手はマルタで、トヨミの今の連絡先を教えてくれと言うから、
「ちょうどいい、今、一緒にいるんだ」
言った帆織の背中を、当の彼女が後ろから思いきりどやしつける。
「銛、刺すなよ?」
「叩き込んでやりたいよ、ホント!」
なぜ二人が一緒にいるのかマルタは尋ねなかったが、事前の打ち合わせ通りに、
「トヨミの奴、また夜の川で独りふらついててな、注意してたとこだったんだ」
「ふぅん……」
相手は帆織の言葉を微塵も信じていない様子だった。むしろ予想通りだ、とでも言いたげな口ぶりで、
「――で、トヨミは? 俺からの電話なんかに出たくないって?」
「要件は何だか聞いてくれとさ」
帆織が嘘をつくと、再び拳が背中を小突く。
「尾行を手伝って欲しいんだ。ああ、つける相手はコハダ。ちょうど今、あいつが自分ちの部屋の窓からこっそり抜け出したところなんだけどよ――」
コハダもマルタも家は古くからの下町区域にある戸建てのはす向かいだそうで、
「尾行って、あんたねぇ、私たちにストーカーの片棒担がせようっての?」
帆織の端末に顔を寄せ、トヨミが刺々しく言い放つ。
だが、
「なんか様子がおかしいんだ。変にきょろきょろして、あいつらしくない。前に一回尾行したことあるんだ。あいつがなんとなく変わってからな。その時は晴海の倉庫街のあたりでまかれちまって、それっきりだったけど、今日はなおさら見失いたくない感じなんだよ。今度も晴海の方へ行くみたいなんだけどよ、あっちの陸上は俺、あんまり土地勘ねぇんだ。俺独りじゃ無理がある」
頼むッ、とマルタ。
と、トヨミが端末を帆織の手からもぎ取った。
「私たち、忙しいから」
勝手に通話を切ってしまう。帆織へ端末を投げて寄越し、
「ヨドミ、さっさと祓っちゃいましょ」
使い魔のアカエイへ指示を出すべく、彼女がさっと上げようとした右手を、帆織は優しく掴んで引き下ろした。キッと見上げる眼差しを正面から受け止める。
「変だと思わないか? 晴海の倉庫街なんて、コハダとは縁の無い場所だ。あそこは晴海水軍の縄張りだったからな。それに子供たちが集まる場所へ行くならまだしも、夜の倉庫街なんていよいよ縁がない」
「――だからストーカーの手伝いをしろって?」
「せっかくマルタが、君を見込んで頼んできたんだぞ?」
「分かってないんだね。他に頼れる人がいなかったから、ってだけだよ」
「君以外に頼れる人がいない人間を、君は放っておくのか?」
トヨミは口ごもり、俯いてしまう。
カムバック運動の盛り上がりは相変わらずだが、集団漁をする子供がほとんど見られなくなった二学期の大川だった。
関東平野部では水中と陸上でおよそ一ヶ月ほど季節がずれる。水中は季節の移り変わりが遅く、九月の水はまだ温かい。これから晩秋に向けて魚たちが荒食いの時期に入ることもあり、学校行事も目白押しの期間とは言え、例年なら夏休み以上の好機到来なはずだ。だが今年は盛期には少し早いスズキを狙う、大人の釣り人が増えるばかりだった。
偶々出会った水浴びの子供たちへ戯れに「漁はしないのか」と訊いたところ、しばし逡巡の後、
「もう飽きた」
という言葉が返ってきた時にはぎょっとし、呆気にとられるしかなかった帆織だ。目新しい社会運動へ夢中になるあまり、本来の遊びを放棄したのだろうかとも考えたが、
「飽きた、っていうのは多分、争いに飽きた、ってことなのよ」
と、職場で潤地が分析していたのを聞いてなるほどと思った。
大人の不純な動機に利用されているかもしれないとしても、カムバック運動そのものの内側、子供たち自身の関係性には横並びの協力があるばかりだ。カイギュウ帰還の期待を胸に、手と手を取り合って未来を志す間柄に争いは無い。だが、漁には利益配分に繋がる力の強弱が集団から個人のレベルに至るまでどうしても、あからさまに付きまとう。青の秩序や水軍分裂騒動以降、そうした関係に倦み疲れた子供たちが争いのおおもとを回避する傾向にあるのは当然かもしれない。
現実の大川ばかりでない、電脳世界ですらこの傾向が見られる。
攻撃欲求発散の場としやすいのだろう。現実の川面に比べればまだまだ騒がしいネット世界だ。
ノガレに関わる危うい記事を見つけたら素早く削除申請するために、今も毎日チェックを欠かさないトヨミから聞いた話だが、近頃ダゴンネットには〝荒らし〟が跋扈し、悪戯もよく仕掛けられているのだという。インスマフェスタ等のページを開こうとすると中津瀬会と青の秩序の関係を醜聞的に報じたゴシップ記事や、国海大夜間調査事故の原因隠蔽を主張する個人サイトに飛ぶ仕掛けが繰り返し、仕込まれるのだ。〝荒らし〟による〝炎上〟はなお酷い。
スルースキル皆無な上に喧嘩っ早い(その上、クラッキングスキルも妙に高いことが多い)この辺りの子供が主な閲覧者なのだから、そんな登場人物たちが勢揃いする掲示板の炎上など、帆織には以前から一読する気さえ起らないが、昨今は特にひどいらしい。
だがこちらも表面的には賑わっているわりに、公表される閲覧者の数が日に日に減少しているとのことだ。その数値が信頼できるものならば、この結果もまた、主要な閲覧者であった大川の子供たちが争い事を回避する傾向を見せ始めている証拠と言えるだろう。いつまでもしつこく暴れ続ける一部の元気者を除き、子供たちは争いを生む可能性を嗅ぎ付け、忌避している。それは漁が盛んだった時分の、夜の禁忌に対するスタイルに似ていた。
喧嘩や揉め事が少なくなるのは帆織にとって良いことだ。昼間、通報で駆け付ける回数は夏前と比べて圧倒的に減った。クーラーのよく効いた部屋の中で、ドローンを使ってパトロールしているだけでよいのは気楽だ。急に自分が〝怠惰な公務員〟になった気さえする。夜の、トヨミとの川行きのために力を温存できるのもありがたい。
だが集団同士の対立傾向が弱まれば、個々の集団内での結束もそれ以前と比べて急激に弱まるだろう。その結果、今のマルタは本当にトヨミの他、頼れる仲間がいなくなってしまった可能性があった。帆織は「よし」と頷き、
「分かった。じゃあ、俺が行く」
「は?」
トヨミの目が丸くなった。
「帆織さんが? 帆織さんは……関係無いでしょ?」
「全く関係が無くはないさ。俺の本業は健やかな河川利用に貢献することだからな。中学生の女の子が独りで夜中に晴海運河沿いの倉庫街へ行く理由は、健やかな河川利用を脅かすかもしれん。あるいは尾行するマルタが何かに巻き込まれないとも限らない」
「……それは、そうかもしれないけどさ」
ぷい、とそっぽを向くトヨミ。
煮え切らない彼女は〝らしく〟なかった。いつもよりずっと子供子供して見えた。意外な思いで、だが、あるいは、だから、わざと互いの年齢を意識した口ぶりで、
「君たちの個人的事情を知らなくていい、と言ったのは君だろ。だから俺はそれを知らない。だから俺はそれを気にしないで、自分が必要だと思う行動を取るさ」
帆織は言って、じっとトヨミを見つめた。ここは大人ぶるべきだろうと思った。
彼女は眼を逸らしたまま、
「違うの。そういうんじゃないの。……私が行くのは、いけない気がするの」
「じゃあ途中で、好きな時に降りていいぞ」
帆織は前を向き、姿勢を作ってバヤックを漕ぎ始める。晴海方面へは陸に上がるより、一度河口まで下り切って適当なところに上陸した方が早い。端末をハンズフリーに切り替え、
「マルタ、今どのあたりだ? どこで合流すればいい?」
「歩きの尾行だと気づかれるかもしれない。俺も水路を先回りして、この間まかれた場所あたりで待ち伏せしてみる。倉庫街で会おう。協力に感謝するってトヨミに伝えてくれ」
結局トヨミは船を下りなかった。
晴海埠頭の脇から上陸し、バヤックを係留する作業を手伝いもせず、ふてくされてそっぽを向いてはいた。だが、街灯もまばらな埠頭通りを彼の後に従いながら、そっと安堵の溜息をついたのが帆織には聞こえた。それでいい、と彼は肩でも叩いてやりたい気分だったが、また意地を張り出すかもしれないと思ってやめておいた。
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