授業

高木解緒 (たかぎ ときお)

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 弓香が学校へ来なくなって数週間が過ぎました。もうすぐ期末試験、もうすぐ夏休み。
 わたしはぼんやりと、学校や塾と家を往復する日々を過ごしていました。
 先生の慰めの言葉もどこか遠くで聞こえるようです。事件から数日経ったある日、階段の踊り場でひょいと出くわした時、先生は笑顔でした。その直前まで誰かと面白い話でもしていたのでしょう。でもわたしには、その笑顔が、とても不謹慎で、醜いもののように思えてしまって、なぜこんな時に笑っていられるのか、先生だって秘密を一緒にしたはずなのにと無性に腹が立ってしまって、ろくに挨拶を返すこともできませんでした。
 先生は悪くないのだと、頭では分かっていて、先生に失礼は絶対したくないと思って、だけど、やっぱり弓香は、わたしにとって一番の友だち、親友だったんです。
 そしてわたしは、彼女を助けることができませんでした。
 弓香は非行を見咎められた末、母親を刺した不良少女だということに巷の噂ではなっていました。日頃の彼女の荒っぽいキャラクターがここぞとばかり誇張され、噂へいかにもな真実味を与えているようでした。わたしは、違う、弓香は不良少女なんかじゃない、と叫ぼうとして、でも根拠を問われるのが怖くて、結局黙っていました。わたしは偽善者、ただの弱虫で卑怯者です。友だちを、言葉の上ですら助けることができないのです。
 先生の授業も楽しめなくなりました。
 弓香のクラスの子たちの中には体罰事件の後、先生のシンパにでもなったらしく、
「先生の授業、最近また面白くなってきたよね」
 だなんて、休み時間の廊下や手洗い場といった社交場で、わたしのそばでわざとらしい声を上げる子もいました。以前ならそんな子たちを苦々しく思ったかもしれません。ライバル視してしまったり、新参者と見下してしまったりしていたかもしれません。
 でもその頃のわたしには、もうどうでもよくなっていました。先生への気持ちが消えてしまっていたわけではありません。それは今でも、ちゃんとわたしの中にあるのです。
 だけど、何事も無かったように授業を進める先生の様子を見るとやっぱり、無性に腹が立ってしまって、先生のそれはプロとしての態度であるのだから当然と理解してはいても心から分かる気は全然しなくて、ぼんやりと窓の外、校庭の向こう、マンションの屋上の給水塔や、布団や洗濯物の干されたベランダの並び、隣同士、仕切りを隔てていつまでも喋り合うおばさんたちの様子を眺めて過ごすことが多くなりました。建物の白い壁が目に焼き付いてしまうくらいに、外ばかり眺めていました。
 いくつものベランダの内側で、あけっぴろげに開け放した窓の内、どこかのおばさんがテレビを見ながらお茶を飲み、煎餅を齧り、宅配便を受けとり、買い物へ出かけ、帰り、わたしはすごくつまらないのに続けて見てしまうドラマを眺めている気分で、その視界の上の方で、いつか抱きかかえようとしてくれた青空は、別人みたく冷たく見えるのです。
 立体ジグソーパズルのピースのような、幾つもの〝普通の〟営み。そしてわたしの教室からは見える位置にありませんが、そのパズルからはじき出されてしまった、弓香の家。
 もっと早く、わたしが弓香の異常に気付いていれば。もっと早く、わたしが先生に相談していれば。そんな思いがぐるぐるといつまでも頭の中を回ります。だから先生の授業も含め、どの授業もただ、緩やかな風のようにすぐそばを通り過ぎていくだけ。
 そんなわたしを先生はもちろん、あの増谷先生ですら咎めることがありませんでした。
 ある社会の時間、ふと気が付くと増谷先生がじっとわたしを見つめていました。
 しまった、怒られると思って身を固くしたのですが、その時は何も言われずに、授業が終わってから、増谷先生は少しばつの悪い面持ちで近寄ってきて、
「さっきな、お前をあいつと見間違えたんだ」と、弓香の名前を挙げました。
「あいつもそうやって窓の外を見てた」
 踵を返し、教室を出ていく増谷先生の背中を、わたしはぼんやり見送ったものです。
 それからはまた、窓の外を見る毎日。
 弓香もこうしていたんだなぁ、なんて、彼女にでもなったつもりで、わたしは幾日かをやり過ごしました。


 Ⓒ髙木解緒 2017

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