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しおりを挟む契約を取るため、意気揚々と短期出張に出かけて行った副島が泣きついてきたのは、それから五日過ぎた日の事だった。
「社長、無理です……」
「なんだ?」
会食を終えて昼過ぎに戻った社長室の椅子に座るなり、隣の秘書室の扉をバンと開いた副島は、ただでさえ撫で肩気味の肩をがっくりと落とし、深いため息とともに細い声を吐いた。
「諏訪園シェフから連絡のあった、真柴ファームさんです」
「真柴ファーム……ああ、わさびの」
副島に任せてから、すっかり自分の中では終わった案件として処理をしていたためにすっかり忘れていたと呟くと、副島はつぶらな目で恨めし気に阿賀野を見やった。
「睨むなよ。それで、無理ってどういう事だ」
陰鬱な視線を手のひらで追いやって、まあ座れと応接セットの椅子をすすめる。素直に尻を落ち着かせた副島は、手のひらを膝の上でぎゅっと握りしめて、緩慢な動きで口を開いた。
「……結果的に言うと、契約は取れませんでした。四日も通い詰めたのに、結局姿さえ見れなくて」
しょげた副島は、こんなに取りつく島もなく断られた契約は初めてだと言った。
往復四時間もかかるうえ、電車を乗り継ぎ、バスも乗り継ぎ、合間には徒歩も挟む道程だ。契約相手の真柴には契約するにあたっての説明や手配などもあるため、一日では無理だと踏んで、副島は一泊二日の予定で真柴ファームがあるという多馬村へ向かった。
「電車で三回乗り継いで一時間半、そこから歩いてバス停へ。二時間に一本のバスに乗って村にいちばん近いバス停まで三十分、村に到着したのは本社を出て二時間半後でした」
「二時間半……もはや他県だな」
「県境の村ですから…。一応まだ農協が開いている時間帯だったので伺ったんですが、責任者の方が不在だったので、翌日会いに行きました」
都心から不意に訪れた客に、山間の小さな村の住人は驚いたようだったが、わけを話すと茶を出したり、採れたてだという果物を剥いてくれたと、副島は曇らせていた顔に思いだしたように笑みを浮かべた。
「お話を聞いたのはこの方、農協に併設されている直売所の松前さんです」
すいすいとタブレットを操る副島の指で開かれた写真には、皺の刻まれた顔を陽に焼いた、人のよさそうな中年の男性が映っている。確かに首から下がる名札ケースには、勢いのある文字で『直売部・松前』と書いてある。次いで差し出された名刺を見ると、『多馬村農業協同会直売所責任者 松前貞吉』とだけ、真っ白な紙面に印字されていた。
「松前さん、すごく優しい方で、直売所にも卸してる漬物を僕にくれたりもしたんです。でも、その……真柴ファームさんは教えられないって言われてしまって」
「それは、個人情報とかそのあたりのコンプライアンスに抵触するからか」
「いえ、それもそうかとは思うんですが、真柴さん、すごく人嫌いで有名らしいんです。野菜を卸す時も早朝に来て、出来るだけ人に会わないようにしているそうなんです」
「人嫌い?」
「極度に。近隣では有名らしいです。松前さんは昔からの知り合いらしいんですが、絶対に会わないだろうから諦めろって言われてしまって。電話も固定電話があるらしいんですが、あちらからかかってくる時以外はほとんど取らないそうです」
まるで子犬のようだと言われることが多い副島は、もちろん顔や雰囲気だけを武器にしたわけでなく、今までにいくつもの仕事の契約に成功している。その中には億単位の利益が発生する大きなプロジェクトや、長期に渡っての採算が見込める企画など、その実力は本物だ。
粘り強く、辛抱強く、かといって消極的に待つだけではない副島に落とせない契約者などいないとさえ言われていたからこそ、見たこともないほど意気消沈している彼の様子に、報告してくる言葉以上の拒否を食らったことは明白だった。
「お前がそこまで言うんなら、よっぽどだな」
「よっぽどでした。一応、真柴さんのお名前まではわかったんです」
「松前さんが教えてくれたのか」
「いえ、俺が教えたってわかったら怒られるからって……でも、直売所で売ってる野菜には生産者の名前は書いてあって、それを隠すことは出来ねえって」
松前という責任者は、意地悪やよそ者への拒否感があって、真柴ファームの情報を伝えないわけではないのだろう。伝え聞きでも微笑ましいと思ってしまう彼の言動を思い出したようで、副島は小さく笑った。
「ただ、ちょうど売り切れだったんです。真柴さんが搬入に来るのは三日に一度らしくて、その翌日には搬入される予定だったので、三日目にわさびとミニトマトを買いました。翌日帰る予定だったんで、村中歩き回って探してみたんですけど、それらしいお宅は見つけられませんでした」
「そんなに小さな村なのか?」
「人口は百人前後だそうです。農協がスーパーの役割も果たしてるようなところで、病院とかも、一番近くて車で三十分の診療所だそうですよ」
「随分な田舎だな…」
都内で生まれ育った阿賀野には想像もつかない場所だ。思わず絶句していると、コンコンと扉が叩かれた。
「須藤です。副島はいますか?」
「ああ、報告を受けている。入ってくれ」
「失礼します」
キイと扉が開き、キッチンワゴンを押した須藤が入ってくる。台にはすぼまった口から湯気をのぼらせている急須と三つの湯飲み、それからビニールに包まれたものが乗っていた。
「お茶でも飲みながらどうかと思って。それと副島、あんた私のデスクになんでこれを置いてくの? びっくりしたんだから」
「えっ? あ、あれっ、かばんに入れたと思って……ああ、整理してる途中に置いたのかもしれません。すみません、ありがとうございます」
ワゴンを応接テーブルに横付けするなり、須藤はビニールに包まれたものを副島にずいと差し出す。慌てた様子の副島に、苦笑していた阿賀野だったが、ふと鼻先を過ぎった香りに、たわめていた眦をはっと開いた。
(なんだ、この匂い)
芳醇な香りだった。鼻腔に深く、すっと入ってくる。けれど決して軽いわけではなく、脳髄を痺れさせるような重い甘ったるさも含んでいる。それなのに嫌な臭いではない。それどころか、いつまでも嗅いでいたい気さえしてくる。
一体なんだと面食らって思わず体を起こした一瞬で、匂いは薄くなる。けれど、その匂いがもたらす効果は絶大だった。
肌が過敏になり、動悸かと疑うほどに激しく脈打つ心臓から押し出された血が体中に目まぐるしく熱を運んでいく。胸は苦しいほどに早鐘を打っていた。行き場を失いながらも沸騰し続ける熱は体中を隅々まで侵し、耐えきれずに阿賀野は思わず口を押えながらふらりと立ち上がった。
「しゃ…社長?」
まんまるな目を見開いて、副島は驚いている。その横で立ったままの須藤も怪訝な顔をしていたが、はっと顔色を変えると、副島の手を掴んで無理やり立たせ、半ば放るように社長室から追い出した。
「念のため、秘書室に鍵かけて! 早く!」
「はっ、はいっ!」
ガチャガチャと忙しない鍵の音が、ぐらぐらと揺れる意識に響く。逃げるように後ずさりながら、阿賀野は匂いのもとを見据えた。
須藤から渡された、副島の忘れ物。口の開いたビニールから匂いが漂う。
「す、とう、その袋、口を閉じろ」
深く息を吸い込んでしまわないように早口で言うと、須藤はさっとビニールの口を縛り、キッチンワゴンごと壁の方へと移動させる。そのまま窓へと歩み寄ると、窓をすべて開け放った。
社長室は高層階にあるので、風が強い。吹き込んだ風はあっという間に室内を巡り、室内の空気を入れ替えた。
「匂い、薄くなった?」
バタバタとはためくカーテンをタッセルで留める須藤の問いかけに、ごくりと生唾を飲み込む。いつの間にか口腔がとんでもなく乾いていた。けれど、それがわかる程度には思考も落ち着いてきている。口に当てたままだった手をずらして、浅い呼吸を繰り返して騙していた肺に、新鮮な空気を吸い込んだ。
「……大分な。そのビニールの中、なんなんだ」
動悸は治まりつつあるし、のぼせたような火照りも冷めてきた。けれど、革張りの椅子に腰かけて下半身を隠さなければならないほど、股間が張りつめている。
まさかという驚きと、やっとという期待が声を震わせた。
「本わさび。……多馬の直売所から副島が買ってきた、真柴ファームの」
「わさび?」
拍子抜けして思わず立ち上がりかけたが、未だ張りつめたままの股間を、昔からの知り合いとはいえ見せるわけにもいかない。
立てずにいる阿賀野を、訳知り顔でまあまあと手のひらで制して、須藤はビニールを手に取った。
「……やっぱりわさびね。擦られてない、生の。…でも、匂いがする」
少し開いたビニールの口に鼻を寄せて、須藤はああ、と顔をしかめた。
香水や、芳香剤の類いではない。明確な性徴の匂いだ。
「待ってね、これだけ取るから」
ビニールに手を突っ込んでごそごそと手を動かした須藤がするりと取り出したのは、麻紐の通された紙製のタグだった。
なんら変哲のないものだが、それが取り出されたとたん、やはり匂いが漂ってくる。さっきほど距離が近いわけではないので、それほど劇的な変化が起きたりはしなかったが、タグを今すぐに握りしめたい衝動がじわじわと胸に広がった。
「すごい匂い。私はつがい契約済んでるからそれほどだけ…」
須藤がタグに鼻を寄せた瞬間、怒りにも焦りにも似た感情がまるで奔流のように湧き上がり、気付けば阿賀野はデスクから離れて、須藤の手からタグを奪い取っていた。
「とく、ま…?」
驚きに目を見開いた須藤が、思わず幼い頃から馴染んだ方の呼び方をした。同時に、勢いよく歩み寄ったせいで重厚な応接テーブルに膝をぶつけ、痛みにはっと目が覚める。
「……オメガだ」
乾いた声が喉に張り付いた。
きつく握った手に痛みさえ覚えて、固まった指を開くと中からくしゃくしゃになったタグが現れ、ふわりと強い匂いが立ち上る。タグには、『真柴ファーム・真柴要』とあった。
強い眩暈が脳を揺さぶって、倒れそうにさえなりながら、阿賀野は、ああと息を吐いた。
オメガの副島にはわからず、つがいのいるアルファである須藤でさえわかる匂い。そして、これほど阿賀野の体に熱を与え、思考のベクトルを理性から本能へと力づくで捻じ曲げるような、強い衝動。
(俺の、運命を見つけた)
唇を焼きそうなほどの熱さで零れたのは、まぎれもなく歓喜と欲望に震えた呼吸だった。
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