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9.名前
白磁の匙に、これまた白い粥がのっていた。
ほこほこと湯気をたてるそれはすいと莢珂に差し出され、食まれるときを待っている。正直なところ、すでに胃の腑はぱんぱんで、もう必要はない。けれど、ちらりとやった視線の先にいる山神は、眉間にしわを刻んでいる。要らないと言ったところで更に機嫌を損ねるだけだと踏んで、莢珂は匙をぱくりと口に収めた。
ついさっきまで、莢珂の腹はせつない音を立てていた。けれど今ははちきれそうと言うほどではないが、満腹ではある。上体を起こしている寝台の脇に腰かけ、次々に匙で粥をすくうのは女人だ。彼女が持っている碗を覗きこむと、あとひとくち程度で終わりそうな量で、おもわずほっと息を吐いた。
湯で温まっていたはずが、長いまばたきをしたようなつもりで目を開いた莢珂が目覚めたのは、半刻ほど前のことだった。
昼に握り飯を二個食べたとはいえ、久々に一日動きとおしたのだ。無為に過ごすよりは充足感があったので忘れていたが、空腹と疲労があったのだろう。それにくわえて湯あたりもしたようで、目覚めてしばらくはくらくらとしていた。
体調が悪いのかと山神は険しい顔をしたが、莢珂の腹が空腹を訴えたのですぐさま膳が用意され、いまにいたる。
粥は美味い。けれども椀によそわれた量が多く、半分ほどで「もう大丈夫です」と言ってみたものの山神の眉間のしわがよりいっそう深くなったので、それきり完食に徹している。
(贄なのに…願いを聞いてもらったのに、お役目を果たせなかった……)
もともと食が太いほうではないが、これからはしっかり食べて体力もつけなければならない。そうしないと、畑に出るだけで疲れてしまって、贄として山神に食べてもらえなくなってしまう。
ちゃんとしないと、と思いながら最後の一口が載った匙を口に含むと、女人はこれを最後に飲めとばかりに薬湯の入った湯飲みを押し付けた。それを莢珂が嚥下するころにはいなくなっており、室内には莢珂と山神だけになっていた。
まだ山神の顔は険しい。きちんと謝らねばと顔をあげた時だった。
「あの、やまが……」
「お前の」
ほそぼそとした莢珂の声など、一瞬でかき消えた。
おもわずびくりと肩をすくめると、すぐ傍らに立った山神は不機嫌そのものといった顔で牙をむくように口を開いた。
「お前の名はなんだ」
「えっ」
なにを言われたのか、理解をするのには三回ほどのまばたきの時間が必要だった。
そういえば、名乗った覚えはない。お前だとかおいだとか呼ばれていて、それで事足りたものだから気にもしていなかった。
「きょ、莢珂と申します。杷莢珂……」
おそるおそる名乗ると、山神はふんと唸った。
「莢珂、か」
「はい」
返事をすると、山神の眉間のしわが浅くなった。
「俺は幡嶺だ」
「………」
名乗られたところで、神の名を軽々しく口にしていいのだろうか。
おそれ多いのではと危ぶんで莢珂が黙ったままでいると、また山神の眉間のしわはぐっと深みを増した。
「幡嶺だ。言ってみろ」
「ば……幡嶺、さま」
「そうだ。今度からはそう呼べ」
「はい」
山神、もとい幡嶺の気分はそれこそ山の天気だ。からりと晴れたかと思えばにわかに曇り、突然雷雨になる。すんなりうなずくとしかめていた顔から翳りが消えた。
いまだ、と莢珂は思った。
さいわいにも幡嶺はいまはそれほど機嫌が悪くない。贄だというのに、一度放埓を遂げたならまだしも、いれられてすぐに気を失ってしまったことを謝るならば、いまが好機だと思った。
「その……幡嶺さま」
「うん」
名前を呼ぶと、幡嶺は顎をしゃくるようにして莢珂を見やる。どこか楽し気で、さきほどまでの暗澹さはなかった。
「ま…ま、まぐわいのさなかに気を失ってしまって、申し訳ありませんでした。今度からは気を付けます。きちんとします。なので、その……明日も、村へ行ってもいいでしょうか」
出来るなら毎日行きたいが、これが元で外出を許されなくなるのはつらい。
下から伺うように見上げると、幡嶺はだが、と声を曇らせた。
「お前、働いたらこうやって倒れるんだろう。それとも、飯が足りなかったか」
「それが…村が飢えているので……申し訳ありません、米は村の人たちにあげてしまいました」
「それならお前は食っていないのか」
幡嶺が目をむく。あわてて莢珂は首を振った。
「握り飯にして、二個食べました。でも、おかげで皆が食べられたんです。俺のぶんは握り飯にしてもらいましたけど、粟や稗を入れて粥にしたらもっと増えます。山神さまにお礼を言ってほしいと言われました。本当にありがとうございます」
「幡嶺だ」
「あ、ば、幡嶺さまにお礼をと!」
言い直すと、幡嶺はふんと鼻息荒く唸って腕を組み、どかりと寝台に腰かけた。
「……だが、飯を食っても倒れるんなら、やっぱり明日は……いや、畑に出すのもな…」
胡乱な視線をむけてくるが、怒っているようには見えない。これは交渉の余地があるように見えた。
「倒れません。今日は、どちらかというと湯あたりした感じです。おなかもすいていましたし……なので、明日からはお湯をいただいて、夕餉をもらってから、………その、と、伽を……」
今日はさすがに久しぶりに体を動かしたせいもあったかもしれない。けれど、明日からは夕餉や湯浴みを済ませて落ち着いてから臨めば、きっと今日みたいに倒れはしない。
だから村へ行くことを許可してほしいと再度頭を下げると、幡嶺は少し考えるように自分の顎をさすり、それから頭を掻いた。
「……明日からは、ほどほどにしろ。飯は持たせるから、それを食え。帰ったら湯浴みをして、夕餉を終えてから伽をしろ。それを終えるまではしない。いいな」
「あ、ありがとうございます!」
仕方がないとばかりにため息まじりではあったが、幡嶺は思いのほかあっさりと許可をしてくれた。
思わず声をはずませると、じろりと鋭い目が莢珂を見やる。けれど、機嫌が悪そうには見えなかった。
「お前……莢珂」
「はい」
呼ばれて即座に返事をする。あれほどお前だのおいだの呼ばれていたのに、今更名前で呼ばれても不思議と違和感はなかった。
「村へ行けるのはうれしいか」
ぽつりと問われて、莢珂は顎を引いた。
「はい」
最初は確かに怖かったし、体を拓かれた時は死んでしまうとも思った。今でも抱かれればあまりに翻弄されては泣き濡れるが、殺されるわけではないし、虐げられるわけでもない。それどころか、贄として召し上げられたのに、村へ降りることを許可してくれている。
ほかの神などまったく知らないが、莢珂は自分が召し上げられた神が幡嶺で良かったと安堵していた。
だから、明日は彼のためにも畑仕事をしっかりと、けれどほどほどにこなして戻ろう。それから抱いてもらうのだ。それはとてもいい流れだと、莢珂は思った。
「はい。ありがとうございます、幡嶺さま」
村の手助けができる。妹に会える。衣食住には困らないし、恐ろしいものとばかり思っていた山神はすこしばかり人の道理が通じないこともあるが、それでも莢珂の意思を汲んでくれる。
思わず顔がほころんでしまう。そんな贄を見た幡嶺は眉間にまたも深いしわを刻み、けれど布団の裾をむんずとつかむと引き上げて、莢珂の肩をぐいと押した。
「……今日はもう寝ろ。伽はいい。明日も行く時は俺を呼べ」
「はい。……あ、あの」
ぐいぐいと押され、莢珂はそのまま寝台に横になった。そこへ、引き上げられた布団がかぶさる。あたりまえのように使わせてもらっているこれも、村の実家では使ったことがないような厚みと肌触りのものだった。
やわらかさと温かさに、どこかへ行っていたはずの眠気がそろりと寄り添ってくる。思わずあくびを噛みそうになりながら、莢珂は背中を向けようとしていた幡嶺を呼び止めた。
「なんだ」
ぐるりと振り返る幡嶺の眉間にはまだしわが寄っている。けれど、やっぱり怒っている風ではなかった。
「おやすみなさいませ、ばん、りょ……さ…」
もしかしたら、薬湯になにか眠りを誘うものが入っていたのかもしれない。とろとろとまどろみだした意識はあらがうことも出来ないほど穏やかに、けれど確実に莢珂を引きずり込む。
せめてとつぶやいた言葉が最後まで紡げたか、結局のところ寝入ってしまった莢珂は気付かなかった。すっかり眠りにおちた莢珂の寝顔を幡嶺がしばらく眺めていたことなど、開け放した窓から見える月以外は、知りようもないことだった。
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