74 / 83
巣ごもりオメガと運命の騎妃
53.白に秘める
しおりを挟む
白い天井の半分に、光がさしている。目が覚めたサリムは、ぼうっとその光景を見ていた。
皇宮は白い石材を使って作られているので、サリムの部屋の天井も白だ。けれど、いつも寝ている部屋とは石材の継ぎ目も光の入り方も違った。
(ここは……?)
いったいどこで自分は寝ていたのだろうと首をよじったところで、周囲がパタパタと騒がしくなったことに気付く。
護衛や女官が常に周りにいる生活にもすっかり慣れているので驚きはしない。控えめながらも騒がしい中から、サリム様がお目覚めに、ハイダル殿下にお知らせをと聞こえた。
(殿下……そうだ、ここはハイダル様のお部屋だ)
数回しか入ったことはないが、置かれた調度品を覚えている。しかしそうとなればハイダルの部屋に自分が寝ていることがなおさら不思議で、どうしてと困惑したサリムは、ふと呼ばれたように視線を扉の向こうにやった。
特にノックの音はせず、ゆっくりとした動きで扉が開かれる。室内をうかがうように入ってきたのは、やはりハイダルだった。
ハイダルはサリムと目が合うとぱっと表情を明るくし、大股で歩み寄ってきて寝台の傍に膝をついた。
「サリム。俺がわかるか?」
「は、い」
口が乾いて、喉に声が張り付く。ハイダルは嗄れた声にすぐ気付いて、水を飲むかと聞いてきた。
うなずくとすぐに抱き起こされ、水の注がれたゴブレットが口元へ寄せられる。
あまりにてきぱきと動くのでうっかり流されかけたが、本来ならばこんなことをさせていい相手ではない。せめて自分で持たなければと手をあげたところで、サリムは自分の手首に包帯が巻かれていることに気付いた。
なぜと思う間もなく、ここ数日のことが頭をよぎる。そして同時に、自分の首のあたりが涼しいことにも気付いた。
アンバランスに頭が軽い。思わず手をやると、ハイダルが視線を落とした。
「……すまない」
髪はざんばらに切られていて、左半分が首元からないようだった。
そのせいで右だけに重みがあるのかと納得したサリムは、ゴブレットを手にしたままうつむいてしまったハイダルを改めて見た。
立襟のトウブに、左肩から足元まで下がった飾り布。装飾のついた腰帯。どれも白だ。
普段着でも白をまとうことはある。しかしハイダル自身がここにいて、さらにこれほど徹底するということは――
(陛下のご葬儀は終わってしまったんだ)
埋葬が終わってからも三日間は全身に白をまとうのはドマルサーニの葬儀の礼法だ。その礼にのっとった格好をしているということは、まだ三日たっていない。
ならばとサリムは顔をあげた。
「ハイダル様、私付きの側仕えを呼んでいただけますか。髪を整えなければ」
「え? ああ……誰か、サリムの側仕えを」
呼ぶとすぐに数名いる側仕えのうちの一人が現れたが、彼が喜びを顔に出す前に、サリムはまだ少しぼうっとする頭をどうにか働かせてあれこれと言いつけた。
「髪を整えていただきたいので、散髪が得意な方を私の部屋に寄越してください。それから、私にも白の一式を。あと……」
用事を頼まれた側仕えはあわただしく出ていく。その背が見えなくなるより先に、ハイダルがまさかと口を開いた。
「墓へ行く気か」
「はい」
シラージュは敬愛する皇帝であり、ハイダルの祖父だ。生前は優しくもしてくれた。そんな彼の葬儀のすべての行事に参加することができなかったのだ。せめて白をまとう三日の間である今のうち、それもできるだけ早く墓へ行って、その死を悼みたかった。
体調の悪さは依然変わらないが、急き立てられるようにサリムが上掛けを剥ごうとした時だった。
コンコンと扉を叩く音が聞こえ、戸惑いを含んだような声が来訪者の存在を告げた。
「こ、皇妃殿下がお越しになりました」
思わずハイダルを見るが、彼もなぜという表情をしている。
しかし通さずに無視をするわけにもいかない。あわてて上掛けを戻し、サリムはせめてと髪を指で梳き、着せられている寝間着を下に引っ張ってしわを正した。その間にハイダルが扉へ行く。
「お通ししろ」
ハイダルの声に、扉が左右に開かれる。確かにそこにはディーマが立っていた。
「お祖母様、なにか……」
「私がここへ来ることに、不都合が?」
「……いいえ」
聞こえてくる会話は長いものではないが、それでも彼女の敵意はあからさまだ。
うつむいたハイダルの前をさっさと通り過ぎたディーマはサリムの傍まで来ると、顔にも手にも傷を負い、髪も半分切られた皇太子妃を睨むように見つめた。
「いま出ていった者から聞きました。あなた、いまさら白を着るつもり?」
「おそれながら、皇妃殿下。ハイダル殿下のつがいとして、せめてもの礼を尽くさせていただきたいのです」
ディーマの視線は恐ろしいが、シラージュの墓へ行くことはサリムの立ち位置としてもすべきことのはずだ。
個人の感情でなく、あくまでハイダルのつがいとしていく必要があるのだとサリムは伝えたかったが、ディーマの視線の温度は変わらなかった。
「必要ありません。つがいが何だというのです。陛下の墓所は、お前のようなものが足を踏み入れていい場所ではありません」
「おやめください、お祖母様。サリムは俺のつがいです。いまは体調が戻らないので連れていくつもりはありませんが、墓参はすべきです」
取り付く島もない様子のディーマに、ハイダルも言い縋る。それでも頑なな皇妃の態度が軟化することはない。
「それなら、ニルミンを妃に迎えてからにしなさい。新たな皇帝夫婦で参列すれば、陛下もお喜びになるでしょう」
ほんの一瞬、サリムは上掛けの上に置いた自分の指がぴくりと震えるのを感じた。
ディーマが口にした名前が、現実を伴って耳の奥まで響く。
シラージュ亡き後、ハイダルが即位するのは誰もがわかっていることだ。そうなれば皇妃は必ず必要になる。そこへ座るのが誰か、サリムは知っていた。
(やっぱり、皇妃にはもう……)
ディーマに嫌われている自分では皇妃になりえないことはわかっていたが、改めて現実を突きつけられると胸が騒ぐ。
しかし視線を落とした頭上を、思いがけない言葉が飛んだ。
「いいえ、サリム以外を迎えるつもりはありません」
(…………えっ)
反応が遅れたのは、ハイダルの言葉の意味がわからなかったからだ。思わず顔を上げると、ハイダルの手がそっと肩に乗せられた。
「なにを言うの。あなたにはニルミンがいるのよ」
ディーマの言うことはもっともだ。
婚約破棄騒動のあと、ニルミンが笑顔で皇宮を訪れた姿も見ている。あの日サリムはハイダルの婚約者を初めて目にし、婚約は継続されたままなのだと思い知ったのだ。
あれから二年経ったが、その関係に変化があったとはハイダルはおろか、シラージュからも聞かされていない。しかしそれはディーマも同じようで、目をむいて唯一の孫を睨みつけていた。
祖母の怒りとつがいの困惑を一身に浴びながら、ハイダルは深呼吸をしたあと口を開いた。
「陛下が生前、姫のお父上であるザハク氏と話し合い、すでにニルミン姫との婚約は解消されています」
「……っ」
驚きに、ドクンと胸が大きく鼓動する。一瞬くらりとめまいすらしたような気がした。
いまにも気を失いそうなサリムだったが、悲鳴のような声が鋭く意識を貫いて、おかげでどうにか倒れることは免れた。
「聞いてないわ! どういうことなの、ハイダル、あなた……」
「陛下と話し合いました。そのうえで姫とザハク氏に頼み、婚約解消は伏せさせていただきました。そのことに対する誓約書も……」
「私だけが知らなかったと言うの?」
サリムはずっと、ハイダルはシラージュに似ていると思っていた。もしくは、会ったこともないハイダルの両親がきっと彼に似ていたのだろうと。それくらいディーマとは似たところがなかったが、今日初めて、この祖母と孫は似ているのだと気付いた。
整った顔に冷淡なほどの平静をたたえ、回りくどい言葉を使わずに容赦のない言葉で相手を牽制する――普段のハイダルからは想像もできないほど、サリムを罵るときのディーマと似ていた。
「結果的にはそうなりました。ですが、俺はサリム以外を必要としていない。今回の婚約は不要なものです。そのために、お祖母様には伏せさせていただきました」
淡々と言う孫に、いつもならば凛とした姿勢を崩さない祖母は声を張りあげた。
「愚かなことを! あなたも陛下も、オメガのためとなるとこうもおかしくなる。揃って私を馬鹿にしていたのね!」
「馬鹿にしたわけではありません。そうすることが、最善だと思ったのです」
「最善? 愚行の間違いだわ」
吐き捨てるように言うディーマは、激昂を隠しもしない。刺々しい言葉を投げつけ、手に持った扇子をギリギリと音がするほど握りしめた。
それでもハイダルは一歩も引かない。
「俺は婚約を解消したかった。陛下は……お祖父様は、お祖母様のために、俺にサリムを皇妃として迎えてほしいと言っていた。どちらにとっても最善なのです。そして、これはお祖父様の遺言に逆らうことになりますが……この決断に至った全ては、お祖父様先導のもとであるとお祖母様には伝えるように――そう言われていました」
ハイダルの言葉が、奇妙な沈黙の間に落ちる。
一言一句聞き逃さずに、サリムはハイダルの声を聞いていたはずだ。しかし発言の意味が理解できない。ぽかんと小さく口さえ開いてしまった。
(陛下がなぜ……?)
サリムを皇妃として迎えてほしいと言ったことは、なんとなくわかる。次代の皇帝というだけでなく、孫としてもシラージュはハイダルを可愛がっていた。その可愛い孫が、運命のつがいと共にいたいというのだから、それを叶える手伝いをしたのだろうということは想像できる。
しかしなぜそれがディーマのためになるのか、さらにはなぜ自身ひとりが泥をかぶるような真似をするのか。度重なる驚きに飽和状態のサリムの頭では想像もつかない。
ディーマも同様のようで、二の句をすぐにつなぐことができず、どこか気の抜けた声で「どういうことなの」と呟いた。その手から扇子が落ちる。
パキリと響いたのは床に落ちた扇子が割れた音だったのかもしれなかったが、サリムもディーマも、ハイダルから目を離せなかった。
皇宮は白い石材を使って作られているので、サリムの部屋の天井も白だ。けれど、いつも寝ている部屋とは石材の継ぎ目も光の入り方も違った。
(ここは……?)
いったいどこで自分は寝ていたのだろうと首をよじったところで、周囲がパタパタと騒がしくなったことに気付く。
護衛や女官が常に周りにいる生活にもすっかり慣れているので驚きはしない。控えめながらも騒がしい中から、サリム様がお目覚めに、ハイダル殿下にお知らせをと聞こえた。
(殿下……そうだ、ここはハイダル様のお部屋だ)
数回しか入ったことはないが、置かれた調度品を覚えている。しかしそうとなればハイダルの部屋に自分が寝ていることがなおさら不思議で、どうしてと困惑したサリムは、ふと呼ばれたように視線を扉の向こうにやった。
特にノックの音はせず、ゆっくりとした動きで扉が開かれる。室内をうかがうように入ってきたのは、やはりハイダルだった。
ハイダルはサリムと目が合うとぱっと表情を明るくし、大股で歩み寄ってきて寝台の傍に膝をついた。
「サリム。俺がわかるか?」
「は、い」
口が乾いて、喉に声が張り付く。ハイダルは嗄れた声にすぐ気付いて、水を飲むかと聞いてきた。
うなずくとすぐに抱き起こされ、水の注がれたゴブレットが口元へ寄せられる。
あまりにてきぱきと動くのでうっかり流されかけたが、本来ならばこんなことをさせていい相手ではない。せめて自分で持たなければと手をあげたところで、サリムは自分の手首に包帯が巻かれていることに気付いた。
なぜと思う間もなく、ここ数日のことが頭をよぎる。そして同時に、自分の首のあたりが涼しいことにも気付いた。
アンバランスに頭が軽い。思わず手をやると、ハイダルが視線を落とした。
「……すまない」
髪はざんばらに切られていて、左半分が首元からないようだった。
そのせいで右だけに重みがあるのかと納得したサリムは、ゴブレットを手にしたままうつむいてしまったハイダルを改めて見た。
立襟のトウブに、左肩から足元まで下がった飾り布。装飾のついた腰帯。どれも白だ。
普段着でも白をまとうことはある。しかしハイダル自身がここにいて、さらにこれほど徹底するということは――
(陛下のご葬儀は終わってしまったんだ)
埋葬が終わってからも三日間は全身に白をまとうのはドマルサーニの葬儀の礼法だ。その礼にのっとった格好をしているということは、まだ三日たっていない。
ならばとサリムは顔をあげた。
「ハイダル様、私付きの側仕えを呼んでいただけますか。髪を整えなければ」
「え? ああ……誰か、サリムの側仕えを」
呼ぶとすぐに数名いる側仕えのうちの一人が現れたが、彼が喜びを顔に出す前に、サリムはまだ少しぼうっとする頭をどうにか働かせてあれこれと言いつけた。
「髪を整えていただきたいので、散髪が得意な方を私の部屋に寄越してください。それから、私にも白の一式を。あと……」
用事を頼まれた側仕えはあわただしく出ていく。その背が見えなくなるより先に、ハイダルがまさかと口を開いた。
「墓へ行く気か」
「はい」
シラージュは敬愛する皇帝であり、ハイダルの祖父だ。生前は優しくもしてくれた。そんな彼の葬儀のすべての行事に参加することができなかったのだ。せめて白をまとう三日の間である今のうち、それもできるだけ早く墓へ行って、その死を悼みたかった。
体調の悪さは依然変わらないが、急き立てられるようにサリムが上掛けを剥ごうとした時だった。
コンコンと扉を叩く音が聞こえ、戸惑いを含んだような声が来訪者の存在を告げた。
「こ、皇妃殿下がお越しになりました」
思わずハイダルを見るが、彼もなぜという表情をしている。
しかし通さずに無視をするわけにもいかない。あわてて上掛けを戻し、サリムはせめてと髪を指で梳き、着せられている寝間着を下に引っ張ってしわを正した。その間にハイダルが扉へ行く。
「お通ししろ」
ハイダルの声に、扉が左右に開かれる。確かにそこにはディーマが立っていた。
「お祖母様、なにか……」
「私がここへ来ることに、不都合が?」
「……いいえ」
聞こえてくる会話は長いものではないが、それでも彼女の敵意はあからさまだ。
うつむいたハイダルの前をさっさと通り過ぎたディーマはサリムの傍まで来ると、顔にも手にも傷を負い、髪も半分切られた皇太子妃を睨むように見つめた。
「いま出ていった者から聞きました。あなた、いまさら白を着るつもり?」
「おそれながら、皇妃殿下。ハイダル殿下のつがいとして、せめてもの礼を尽くさせていただきたいのです」
ディーマの視線は恐ろしいが、シラージュの墓へ行くことはサリムの立ち位置としてもすべきことのはずだ。
個人の感情でなく、あくまでハイダルのつがいとしていく必要があるのだとサリムは伝えたかったが、ディーマの視線の温度は変わらなかった。
「必要ありません。つがいが何だというのです。陛下の墓所は、お前のようなものが足を踏み入れていい場所ではありません」
「おやめください、お祖母様。サリムは俺のつがいです。いまは体調が戻らないので連れていくつもりはありませんが、墓参はすべきです」
取り付く島もない様子のディーマに、ハイダルも言い縋る。それでも頑なな皇妃の態度が軟化することはない。
「それなら、ニルミンを妃に迎えてからにしなさい。新たな皇帝夫婦で参列すれば、陛下もお喜びになるでしょう」
ほんの一瞬、サリムは上掛けの上に置いた自分の指がぴくりと震えるのを感じた。
ディーマが口にした名前が、現実を伴って耳の奥まで響く。
シラージュ亡き後、ハイダルが即位するのは誰もがわかっていることだ。そうなれば皇妃は必ず必要になる。そこへ座るのが誰か、サリムは知っていた。
(やっぱり、皇妃にはもう……)
ディーマに嫌われている自分では皇妃になりえないことはわかっていたが、改めて現実を突きつけられると胸が騒ぐ。
しかし視線を落とした頭上を、思いがけない言葉が飛んだ。
「いいえ、サリム以外を迎えるつもりはありません」
(…………えっ)
反応が遅れたのは、ハイダルの言葉の意味がわからなかったからだ。思わず顔を上げると、ハイダルの手がそっと肩に乗せられた。
「なにを言うの。あなたにはニルミンがいるのよ」
ディーマの言うことはもっともだ。
婚約破棄騒動のあと、ニルミンが笑顔で皇宮を訪れた姿も見ている。あの日サリムはハイダルの婚約者を初めて目にし、婚約は継続されたままなのだと思い知ったのだ。
あれから二年経ったが、その関係に変化があったとはハイダルはおろか、シラージュからも聞かされていない。しかしそれはディーマも同じようで、目をむいて唯一の孫を睨みつけていた。
祖母の怒りとつがいの困惑を一身に浴びながら、ハイダルは深呼吸をしたあと口を開いた。
「陛下が生前、姫のお父上であるザハク氏と話し合い、すでにニルミン姫との婚約は解消されています」
「……っ」
驚きに、ドクンと胸が大きく鼓動する。一瞬くらりとめまいすらしたような気がした。
いまにも気を失いそうなサリムだったが、悲鳴のような声が鋭く意識を貫いて、おかげでどうにか倒れることは免れた。
「聞いてないわ! どういうことなの、ハイダル、あなた……」
「陛下と話し合いました。そのうえで姫とザハク氏に頼み、婚約解消は伏せさせていただきました。そのことに対する誓約書も……」
「私だけが知らなかったと言うの?」
サリムはずっと、ハイダルはシラージュに似ていると思っていた。もしくは、会ったこともないハイダルの両親がきっと彼に似ていたのだろうと。それくらいディーマとは似たところがなかったが、今日初めて、この祖母と孫は似ているのだと気付いた。
整った顔に冷淡なほどの平静をたたえ、回りくどい言葉を使わずに容赦のない言葉で相手を牽制する――普段のハイダルからは想像もできないほど、サリムを罵るときのディーマと似ていた。
「結果的にはそうなりました。ですが、俺はサリム以外を必要としていない。今回の婚約は不要なものです。そのために、お祖母様には伏せさせていただきました」
淡々と言う孫に、いつもならば凛とした姿勢を崩さない祖母は声を張りあげた。
「愚かなことを! あなたも陛下も、オメガのためとなるとこうもおかしくなる。揃って私を馬鹿にしていたのね!」
「馬鹿にしたわけではありません。そうすることが、最善だと思ったのです」
「最善? 愚行の間違いだわ」
吐き捨てるように言うディーマは、激昂を隠しもしない。刺々しい言葉を投げつけ、手に持った扇子をギリギリと音がするほど握りしめた。
それでもハイダルは一歩も引かない。
「俺は婚約を解消したかった。陛下は……お祖父様は、お祖母様のために、俺にサリムを皇妃として迎えてほしいと言っていた。どちらにとっても最善なのです。そして、これはお祖父様の遺言に逆らうことになりますが……この決断に至った全ては、お祖父様先導のもとであるとお祖母様には伝えるように――そう言われていました」
ハイダルの言葉が、奇妙な沈黙の間に落ちる。
一言一句聞き逃さずに、サリムはハイダルの声を聞いていたはずだ。しかし発言の意味が理解できない。ぽかんと小さく口さえ開いてしまった。
(陛下がなぜ……?)
サリムを皇妃として迎えてほしいと言ったことは、なんとなくわかる。次代の皇帝というだけでなく、孫としてもシラージュはハイダルを可愛がっていた。その可愛い孫が、運命のつがいと共にいたいというのだから、それを叶える手伝いをしたのだろうということは想像できる。
しかしなぜそれがディーマのためになるのか、さらにはなぜ自身ひとりが泥をかぶるような真似をするのか。度重なる驚きに飽和状態のサリムの頭では想像もつかない。
ディーマも同様のようで、二の句をすぐにつなぐことができず、どこか気の抜けた声で「どういうことなの」と呟いた。その手から扇子が落ちる。
パキリと響いたのは床に落ちた扇子が割れた音だったのかもしれなかったが、サリムもディーマも、ハイダルから目を離せなかった。
71
あなたにおすすめの小説
策士オメガの完璧な政略結婚
雨宮里玖
BL
完璧な容姿を持つオメガのノア・フォーフィールドは、性格悪と陰口を叩かれるくらいに捻じ曲がっている。
ノアとは反対に、父親と弟はとんでもなくお人好しだ。そのせいでフォーフィールド子爵家は爵位を狙われ、没落の危機にある。
長男であるノアは、なんとしてでものし上がってみせると、政略結婚をすることを思いついた。
相手はアルファのライオネル・バーノン辺境伯。怪物のように強いライオネルは、泣く子も黙るほどの恐ろしい見た目をしているらしい。
だがそんなことはノアには関係ない。
これは政略結婚で、目的を果たしたら離婚する。間違ってもライオネルと番ったりしない。指一本触れさせてなるものか——。
一途に溺愛してくるアルファ辺境伯×偏屈な策士オメガの、拗らせ両片想いストーリー。
生き急ぐオメガの献身
雨宮里玖
BL
美貌オメガのシノンは、辺境の副将軍ヘリオスのもとに嫁ぐことになった。
実はヘリオスは、昔、番になろうと約束したアルファだ。その約束を果たすべく求婚したのだが、ヘリオスはシノンのことなどまったく相手にしてくれない。
こうなることは最初からわかっていた。
それでもあなたのそばにいさせてほしい。どうせすぐにいなくなる。それまでの間、一緒にいられたら充分だ——。
健気オメガの切ない献身愛ストーリー!
悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放
大の字だい
BL
王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。
嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。
だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。
嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
藤吉めぐみ
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。
冷酷なアルファ(氷の将軍)に嫁いだオメガ、実はめちゃくちゃ愛されていた。
水凪しおん
BL
これは、愛を知らなかった二人が、本当の愛を見つけるまでの物語。
国のための「生贄」として、敵国の将軍に嫁いだオメガの王子、ユアン。
彼を待っていたのは、「氷の将軍」と恐れられるアルファ、クロヴィスとの心ない日々だった。
世継ぎを産むための「道具」として扱われ、絶望に暮れるユアン。
しかし、冷たい仮面の下に隠された、不器用な優しさと孤独な瞳。
孤独な夜にかけられた一枚の外套が、凍てついた心を少しずつ溶かし始める。
これは、政略結婚という偽りから始まった、運命の恋。
帝国に渦巻く陰謀に立ち向かう中で、二人は互いを守り、支え合う「共犯者」となる。
偽りの夫婦が、唯一無二の「番」になるまでの軌跡を、どうぞ見届けてください。
回帰したシリルの見る夢は
riiko
BL
公爵令息シリルは幼い頃より王太子の婚約者として、彼と番になる未来を夢見てきた。
しかし王太子は婚約者の自分には冷たい。どうやら彼には恋人がいるのだと知った日、物語は動き出した。
嫉妬に狂い断罪されたシリルは、何故だかきっかけの日に回帰した。そして回帰前には見えなかったことが少しずつ見えてきて、本当に望む夢が何かを徐々に思い出す。
執着をやめた途端、執着される側になったオメガが、次こそ間違えないようにと、可愛くも真面目に奮闘する物語!
執着アルファ×回帰オメガ
本編では明かされなかった、回帰前の出来事は外伝に掲載しております。
性描写が入るシーンは
※マークをタイトルにつけます。
物語お楽しみいただけたら幸いです。
***
2022.12.26「第10回BL小説大賞」で奨励賞をいただきました!
応援してくれた皆様のお陰です。
ご投票いただけた方、お読みくださった方、本当にありがとうございました!!
☆☆☆
2024.3.13 書籍発売&レンタル開始いたしました!!!!
応援してくださった読者さまのお陰でございます。本当にありがとうございます。書籍化にあたり連載時よりも読みやすく書き直しました。お楽しみいただけたら幸いです。
事故つがいの夫が俺を離さない!
カミヤルイ
BL
事故から始まったつがいの二人がすれ違いを経て、両思いのつがい夫夫になるまでのオメガバースラブストーリー。
*オメガバース自己設定あり
【あらすじ】
華やかな恋に憧れるオメガのエルフィーは、アカデミーのアイドルアルファとつがいになりたいと、卒業パーティーの夜に彼を呼び出し告白を決行する。だがなぜかやって来たのはアルファの幼馴染のクラウス。クラウスは堅物の唐変木でなぜかエルフィーを嫌っている上、双子の弟の想い人だ。
エルフィーは好きな人が来ないショックでお守りとして持っていたヒート誘発剤を誤発させ、ヒートを起こしてしまう。
そして目覚めると、明らかに事後であり、うなじには番成立の咬み痕が!
ダブルショックのエルフィーと怒り心頭の弟。エルフィーは治癒魔法で番解消薬を作ると誓うが、すぐにクラウスがやってきて求婚され、半ば強制的に婚約生活が始まって────
【登場人物】
受け:エルフィー・セルドラン(20)幼馴染のアルファと事故つがいになってしまった治癒魔力持ちのオメガ。王立アカデミーを卒業したばかりで、家業の医薬品ラボで仕事をしている
攻め:クラウス・モンテカルスト(20)エルフィーと事故つがいになったアルファ。公爵家の跡継ぎで王都騎士団の精鋭騎士。
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。