【青天白雪、紅の君。2072】 〜2072年夏、僕は無口な少女と出会った〜

凜 Oケイ

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第一部

@8 火曜日

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 幽霊が僕に憑いてから二日が経った。いくつかわかったこともある。こいつは物体に干渉することができないという事や、やけに僕に詳しいといったことだ。しかし未だに手がかりすら摑めないそもそもの正体に比べればそれらはさして重要ではなかった。
 早朝、僕は動く歩道に静かに乗っていた。そして午前七時。僕はピンク色の扉にノックをする。部屋に入ると薄く花の匂いがした。僕はやたら座り心地の良いソファに腰掛け、用意されたぬるい水を口に含む。
「やぁコズくん、今日の気分はどうだい」
 痩せた若い白衣の男は尋ねた。青縁の眼鏡ごしに彼は僕と目を合わせる。学校のカウンセラーだ。
「問題はありません」
 カウンセラーはタブレットを叩き、僕の対面に座った。
「朝から呼び出して悪かったね、平日はこの時間帯じゃないと空きがなくてさ」
 聞くところによると、このカウンセラーは校内にいる数人のなかでも一番人気らしかった。その理由は実際に彼を見てみればだいたい想像がつくだろう、常に微笑みを浮かべた顔、透明感のある声、丁寧で清潔な所作。大多数に好かれる要素だけを切り取って寄せ集めたらこんな人間ができあがるだろう。
「さて、じゃあ始めようか。今日は何時に起きたのかな?」
「六時です」
「なるほど」
 子供を相手にするかのような話し方。初めてカウンセリングを受けたときは面食らったものだ。
「今日は火曜日だね、週末は何か予定はあるのかな」
「いえ、ああ友達とカフェに」
 萩原ユヅハに誘われたものだ。僕は彼女の名前は出さなかった。
「カフェ、図書館の方だね。そのお友達とは仲が良いのかな」
「まだ知り合ったばかりで」
「なるほど、これからもっと仲良しになれるといいね。そうだ…」
 幽霊はカウンセラーの後ろで浮かぶ。何も話さなければただの可愛い少年なのに、と僕はできるだけ好意的に捉える。
 僕はこのカウンセラーという人間を完璧には信用していなかった。彼の不快感を与えないということに特化した会話の姿勢はどこか彼を軽薄、あるいは表面的な人間に見せた。そして僕にとって最大の引っかかりは彼の感情が全く読めないことだった。表情はいつも微笑み、目は常に僕の目に合わせている。
 それにカウンセリング自体の効果も怪しかった。彼は初めから終わりまで僕に無難な議題を振るだけだった。これも一種の療法なのかもしれないが、僕にとって自分のことをつらつらと話し続けるという事は不愉快だった。しかしこれも学校からの指示だ、断れはしない。
 三十分間。
 無意味な時間は過ぎた。別れの挨拶をして外に出ると幾人もの女子生徒が並んでいた。僕が開けたドアの隙間から彼女たちは部屋を覗き込み、カウンセラーを見つけるや黄色い声を上げた。
 そういうことか。一番人気といっても一番有能とは限らないのかもしれない。実績評価に偏重しすぎた組織は、最終的には実績らしきものを作ることにのみ長けた人間で溢れ返る。わかりやすい話だ。僕はあまり良くない気持ちのまま授業に向かった。
 放課後。
 僕は副寮長のもとを訪れた。沈みかけた陽が事務室を照らしている。副寮長は僕の顔を見て何も言わずあるものを渡した。それは見慣れた鍵だった。C509室の刻印、僕と経馬の部屋だ。
 僕はこの二日間、副寮長の指示で別の部屋で寝泊まりをしていた。実質的な経馬との隔離措置だろう。今日はようやくそれが終わり、自室に戻れるのだ。
 部屋の前に立ち、僕は鍵を手に持つ。経馬はもう部屋にいるのだろうか。会ったら何と言おう。この二日間は彼と同じ授業がなかったから、この日があの諍いから初めての再会になる。彼に謝罪するべきだろうか、それとも停学を免れた幸運を笑い合うべきだろうか。
 僕は解錠してゆっくりと扉を開ける。部屋は暗く、中には誰もいなかった。扉が完全に開けられると、自動で照明が灯った。
やけにさっぱりとした部屋。経馬はいなかった。彼どころか多かった彼の荷物も全て無くなっていた。僕はしばらく入り口に立ち尽くす。状況が理解できなかった。
 しばらくしてようやく僕は部屋に入ることができた。何度見てもやはり経馬の荷物は無かった。彼のバットも、優勝カップも、着古したジャンパーも全て無い。そこに彼がいたことを示すのは薄い埃の跡だけだった。
 僕はふらついた足取りでベッドに座り込んだ。
「経馬お兄ちゃん、いないね」
 口を開いたのは幽霊だった。
「…部屋が広くなったさ」
「経馬お兄ちゃんがいないと静かだね」
「君はそもそも知らないだろう、いつもの僕たちを」
「覚えてるよ、騒がしかったけど楽しかった日々を」
「それは僕の記憶だ。彼とは単にルームメイトなだけだったし、…これでようやく一人の時間が持てる」
「置き手紙すらないんだね」
 住む部屋を変える転寮自体は珍しいことじゃない。申請をすれば誰でもできる。僕が知りたいのはなぜ、ということだった。教員からの指示という可能性もあったが、僕が最も恐れているのは彼が自分の意思でC509室を、僕のもとを離れたということだった。
「経馬、君がそう望むなら、僕はもう君に関わらないよ」
 僕はもはや彼と目を合わせることすらできないだろう。彼がここを離れた本当の理由を知るのが怖いから。
「…明日は休もう」
 水曜の現代中華史は唯一僕と経馬で被っているクラスだった。でもそのクラスに出る勇気はなかった。僕はずっとこのクラスに出れないだろう。彼と顔を合わすのが怖いという理由で。
「嫌われちゃったもんね」
 そうだ、僕は嫌われ者だ。だから母さんにも好かれなかったし父さんはどこかに行ってしまった。
「なあ幽霊、君も僕が嫌いか?」
 僕は棚の上にあるアクリル製のトロフィーを手に持った。
「ボクは好きになろうとしてるよ、お兄ちゃん」
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