【青天白雪、紅の君。2072】 〜2072年夏、僕は無口な少女と出会った〜

凜 Oケイ

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第三部

@59 雪

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 僕は腕環を見る。時刻は午前七時になろうかというところだった。邏陽と通話を終えて二時間が経過している。
 眠気は全くなく、頭は完全に覚醒していた。僕はいまタクシーで二百キロメートル近い移動を決行している。彼はこの長い長い道路の片隅にある小さな小屋を集合地点に指定した。鉄道もバスも通っていないようなところだ。いいさ、すべては彼のためだ。
 他に車はなく、窓から見えるのは右も左も大雪原だった。地平線はオレンジ色に光り。空は白みはじめていた。あと三十分もすれば完全に日が昇るだろう。
 僕は未だ彼の真意が摑めないでいた。彼は本当にただ僕と会いたいのだろうか、それとも彼には何か隠された意図があるのだろうか。しかし僕はどこかで彼と会うことを楽しみにしてもいた。不吉な始まりだったけど、彼は暗殺を無事成功させたのだ。彼と僕たちに降りかかろうとしていた危機は去り、全員がもはや安泰だ。二度と藍色戦線による刺客に怯える必要はない。…邏陽はきっと僕とこの素晴らしさを祝いたいのだろう。そうに違いない。だとするとユヅハがいないのが残念だ。
「あ、雪だ」
 僕は思わず呟く。ぽつぽつと雪が降っている。これぐらいならまだ問題ないが、もし大雪になれば道路の自動融雪が追いつかなくなる可能性もある。僕は備え付けられたパネルを操作し、到着までの時間を確認した。あと三十分、どうにかなるだろう。
 七時半過ぎ。雪は止み、日がさんさんと雪原を眩しいくらいに照らしていた。僕は車から降りて熱湯すらも凍ってしまう極寒の中へと歩き出した。ブーツが雪の中に沈み込む。雪の中をこうして歩くのはかなりの労力を要し、距離が二倍にも三倍にも感じられた。
 小屋は寂れていた。長い道路を走る運転手の休憩所や、あるいは大雪のときの避難所として設計されているようだった。小屋には一台車がつけられている。きっと邏陽のものだ。
 二重になった扉を開ける。小屋の中は暖かい。そしてそこには彼がいた。拳銃の置かれた木製のテーブルに邏陽が着いている。彼は顔を下げてショットグラスを片手に持っていた。
 僕は分厚いコートを脱ぎながら彼に挨拶する。
「やぁ、九月以来だ」
 邏陽はゆっくりと顔を上げた。彼は笑顔だった。しかし僕は思わず息を呑む。彼の顔に墨のように黒いしぶきがいくつも飛んでいたのだ。色味をよく見て僕はそれが時間の経過した血液であるとわかった。
「…君の血じゃないよね?」
 彼は頷く。
「ならよかった、拭くものがなかったなら…」
 ポケットからハンカチを取り出して彼に渡す。そして僕もまた彼と同じようにテーブルに着いた。彼はゆっくりと血を拭き落とす。血はもう固まっており、ぽろぽろと落とすように拭き取ることができた。
「萩原夫妻の殺害は成功したみたいだね」
 僕は彼の少しくたびれた笑みを見てそう確信した。
「ええ、上手くやりましたよ」
 邏陽は静かにテーブルの上の拳銃を手に取った。
「いい日です」
 邏陽は窓の外を眺めながら銃の質感を味わうように指で撫でた。よく見ると彼の手にもずいぶん血がついている。
「こんな日はどこか遠いところへ行きたくなりませんか」
「…あぁ、そうだね」
 彼が何を言おうとしているのか僕には摑めなかった。
「…今すぐにでも」
 彼は何気なく拳銃を自分のこめかみに向けた。
「おい!」
 僕は咄嗟に彼の銃を摑む。テーブルの上に置いてあったショットグラスが倒れ、転がり落ちて割れた。僕は引金に触れないように彼から銃をむしり取る。彼はほとんど手に力を込めていなかった。
「北京に行こうと思っています」
「…北京で何をするんだい?」
「何って…自殺するんですよ」
 彼はそれがさも当然であるかのように言う。僕は泣きそうになった。何が彼をここまで追い詰めたのだろう?
「どうして…どうしてだ? ようやく萩原孔樹を殺したんじゃないか…これで君も僕たちも、殺される心配なんてしなくていい…そうじゃなかったのかい?」
「…すみません」
 なぜ彼は謝る?
「私はひとつ嘘をついていました。…私はどちらにせよ藍色戦線に処刑されます」
「私が取り付けた約束には私への”粛清”の取りやめは含まれていません。ただあなたとユヅハ、そして李閲慕の安全の確保のみです」
「…じゃあ、君は自分が死ぬと知っていて僕たちのためだけに今回の暗殺を引き受けたのか…?」
 彼は頷く、僕はいま彼が言ったことが嘘であってほしいと心から願う。
「…理由は何となくわかるよ。僕たちがそれを知っていれば…自分たちを危険に晒してでも君を助けようとしただろう。でも…だからって…」
 だからってこんな形で僕たちを騙すことはないじゃないか。
「かつての仲間に殺されるぐらいなら自分で死を選びます」
「いいや…どうにかして第三国へ逃げよう。例えばロシアだっていい。あそこではほとんど藍色戦線は活動していない」
 僕は台湾か香港市国への亡命も提案しようとしたが、あそこにも藍色戦線の拠点が存在している。中国から地理的に近く、藍色戦線が活動していないのは日本やロシアぐらいだ。そして日本は海を越えなくてはならない。
「ロシア政府も環華人民銀行と契約をしています。そして環華人民銀行は既に萩原孔樹の殺害が私によるものであると把握しているでしょう」
「そんな、証拠を残してしまったのかい?」
「隠滅しませんでした。指紋や、監視カメラの映像すらも」
 僕は彼の手を見る。手袋をしていたなら手に血はつかないはずだ。そして拳銃でもこれほどの飛沫は考えにくい───。
「…刃物で殺したのか」
「萩原孔樹はそうです」
 彼は微笑んだ表情を変えない。
「…最初に寝ている萩原陶の頭を銃で二発撃ちました。銃声で目が覚めた萩原孔樹の腹をナイフで刺しました。彼が警備を呼ぼうとしたので私は彼を拘束し、いくつか質問をしました」
 僕は奥歯を噛みしめる。僕はてっきり彼が萩原孔樹を苦しみなく殺したと思っていたのだ。
「一つ目の質問は"私が誰だかわかりますか?"です。彼は私の名前を答えました。二つ目の質問は"なぜ私があなたを殺しに来たかわかりますか?"です。彼は少し迷ったのち…"ユヅに依頼をされたんだろう"と答えました。最後の質問は"ではユヅハを愛していますか?"です」
 彼は一拍間を空ける。
「答えはどうだったと思いますか?」
 邏陽は僕に尋ねる。
「彼のことだから…どうせ愛してなどいないと答えたんだろうね」
「彼は息も絶え絶えに"愛している"と答えました」
 僕は唾を呑む。萩原孔樹がユヅハを"愛している"だって? そして邏陽はそう答えた彼をそのまま殺したのだ。
「もちろん助かりたいがためにそう言ったのかもしれませんし、あるいは本当に愛していた可能性もあります。しかし彼は死にました。もはや誰も真実を知りません。でも彼は首を切られながら確実に後悔したでしょう。愛していたかどうかに関わらず、ユヅハに対し親として冷酷な態度をとったことを」
 邏陽の表情がほんのわずかに変化を見せた。同じ笑みだが、今は優しい母親のような微笑みだった。彼はいま、ユヅハの両親が見せなかったような愛情をユヅハに向けていた。
 僕は邏陽が萩原孔樹と萩原陶とで殺害方法に違いを設けた理由を察することができた。邏陽にとって萩原孔樹は苦しみながら死ぬのに値する罪を犯した。だが萩原陶はそれほどではない。しかしユヅハを愛さず、萩原孔樹にそうすることを促さなかったという点では死には値する…。
「自分のしたことが正義だなんて少しも思っていません。法的にも道義的にも論理的にも私はただの殺人者です。しかしこれだけは言えます…すべて親友(ユヅハ)のためだったのだと」
 僕は彼の持つ愛情の深さに敬慕の念を抱く。
「これでユヅハは本当の意味で…君の言っていた”呪縛”から解放されるだろうね」
「えぇ…それが私がずっと望んでいたことです」
「…責任を取るために死ぬのかい?」
 彼は自分の為したことの重大さを理解している。彼のような責任感が強い人間ならば償おうと思うのは当然だろう。
「それもありますし…私がやるべきことはもうないからでもあります。無意味な人生を歩む必要はありません」
「そんな言い方…まだ生きていたっていいだろう。君もまだ十八歳じゃないか」
 彼が僕と会いたいと言ったのは最後の挨拶のためだとでもいうのだろうか。
「兄が死んでからの人生は…ほんのおまけのようなものです。最後に親友たちのために何かをできて満足ですよ」
 僕は思わず彼の言うことを否定しようとする。直感的に彼の言うことが間違いだと思ってしまう。彼はそんな僕の様子を見て優しく微笑む。
「魏雷進が死んだとき、私が何を感じた思います? 悲しさの中に羨ましさがありました。兄は私の自殺を何度も止めました。しかし先に死んだのは兄なんです、ずるいと思いませんか? 雷進はこんな世界を抜け出して…先に家族の元に逃げたんです。私には死ぬなと言っておきながら」
「逃げた…天国のことを言っているのか?」
「いえ、死は無です。苦しみも悲しみも痛みもない安寧です。みんながそこで私を待っているんです」
 彼は視線を移し…僕の後ろの誰かと目を合わせた。僕は誰もいないと知りながら思わず振り向く。僕のコートがかかった壁があるのみだ。
「…幽霊か」
「雷進が笑いかけてくれます。彼は私に謝っているのでしょうか?」
 僕は彼に説明をしようとした。幽霊は自分自身で……しかしだとすると彼の自殺は完全に彼自身の意思なのだ。彼の最も深い場所が安寧を望んでいるのだ。もはや誰がそれを変えられるのだろう? しかしそれでも彼を止めないわけにはいかない。
「邏陽、だめだ。君は生きるべきだ…きっとどうにかして警察からも藍色戦線からも逃げおおせることが───」
 僕の話をMFD端末の着信音が遮った。僕の端末ではない。
「…李閲慕からですかね」
 彼はゆったりした動作でMFD端末の通話を開く。通話を繋ぐとともに李閲慕の声が聞こえた。彼女はいつも邏陽と英語で話しているので内容を聞き取ることができた。警察か警備の車両が邏陽を追っているとのことだった。彼女は座標でそれを話したので僕は実際に車両がどれほど近づいているのかわからなかった。
「…さて、コズさん。お開きの時間です」
 彼は続ける。
「誰かが軍用車両数台でここから…五キロほどの地点にいるようです。警察なのか環華人民銀行の警備部隊なのかはわかりません」
「五キロって…すぐじゃないか! 今すぐ逃げよう」
 彼らの車の速度がどれほどのものかはわからないが、遅めでも十分ほどで到着するだろう。僕は立ち上がって彼の上着を彼に投げ渡す。
「すぐそこだというのになぜ李閲慕はあんなに余裕綽々だったんだ!」
 僕は焦りを隠せない、しかし邏陽は席を立たない。
「彼女には私はここから数百キロは離れた場所にいると伝えています」
「邏陽…まさかここで死ぬつもりかい?」
 李閲慕は邏陽が逃げることもせずここにいるだなんて想像だにしていないだろう。そして彼は頷いた。
「本当は北京の…父さんや母さんが死んだ広場で死にたかったんですけれど、もうどこでも変わりありませんよね」
「だめだ、車に乗るんだ」
 僕は彼の腕を摑む。
「コズさん、あなたは早く逃げてください。奴らの狙いはきっと私だけです。雪上では通常車両は軍用車両の速度に勝てません。私が乗り込んだら車もろとも蜂の巣にされます」
「どうにかするさ、だから頼む…逃げよう…」
 僕は席に座ったままの彼にひざまずく。彼は僕の頭に手を置いた。
「コズさん、あなたと過ごせた時間は本当に幸せだったんですよ。充分すぎるくらいに…。ただあなたにこれを伝えたかった。そのためだけにあなたをここに呼び寄せてしまった…」
 僕は彼の手の暖かさに涙する。
「最後のお願いです。逃げてください。ユヅハのためにも」
 僕は立ち上がることなどできない、彼を置いて僕だけ逃げるだなんて判断ができるわけがない。彼は僕の顔を両手で優しく包み、僕を立ち上がらせる。
「君を置いていくなんてできないよ…」
 彼は突然に僕を抱きしめ、優しく僕の背中に手を回した。僕を抱きしめたまま彼はゆっくりと出口の方へと移動する。彼は壁にかけてあった僕のコートを取り、そのまま一つ目の扉を開けた。冷たい風が僕たちを包む。彼はついに二つ目の扉に手をかけた。
「さようなら」
 彼が僕の耳元に朗らかな声で囁く。二つ目の扉はついに開け放たれ、僕たちは抱きしめ合ったまま雪原へと出た。彼がはっと息を吸い込む、そして次の瞬間に邏陽の頭が二回弾けた。
「え?」
 彼は大きく仰け反り、そのまま雪に仰向けに倒れた。彼の顔を見ると、左目と額にぽっかりと穴が空いていた。義眼は砕け、プラスチック片が赤い血肉と混ざり合っている。
「ああ…あああ…!」
 こうなるはずがない、こうなっていいはずがない。僕は彼の呼吸を確認する。呼吸はない。しかし心臓は微かに動いている! 彼はきっと助かる! 僕は彼の上半身を起こす。そうすると彼の頭から何かがこぼれ落ちた。血が混じったピンク色のそれは…脳に見えた。邏陽の後頭部がまるごとぱっくり開いているのだ。僕は脳を拾い集めて彼の頭に戻す。
「邏陽、いま病院に連れて行くから…痛いと思うけど我慢してくれ」
 僕は彼の脳を溢さないように彼を引きずる。すると今度は彼の胸から血飛沫が飛んだ。振り向くと数十メートル先に車が何台も停まっていた。車から銃撃されているのだ。僕は気にせず邏陽を引きずる。近くの雪に弾が当たるたび雪が跳ねる。
「うぁっ」
 急に僕はバランスを崩した。脚に力が入らない。よく見ると僕のふくらはぎに穴が空いている。しかしどうにか立ち上がり、邏陽の肩を持ってまた彼を引きずる。しかし僕は彼から左手を離してしまった。左手を見ると…薬指と小指が根本から消えていた。でもまだ彼を運ぶことはできる。
 真っ白な雪に真っ赤な血がだらだらと垂れて線を描いている。僕は歩く。しかし腹や肩、あるいは脚に衝撃を感じ、ついに歩けなくなってしまった。
「邏陽、歩けなくなっちゃったよ…君を運ばなきゃいけないのに…」
 もはや僕は動けない。膝をついたまま、倒れることも立ち上がることもできない。空を見上げる。真っ青で綺麗な空だ。下を見る。真っ白な雪に真紅の花が咲いている。僕はそれが愛おしくってたまらない。
「…ちょっと寒くなってきたね、邏陽」
 僕の頭から爆発するような音が聞こえた。前に倒れ、今度は暗闇しか見えなくなった。雪が顔を暖める。僕はゆっくりと目を閉じた。
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