【青天白雪、紅の君。2072】 〜2072年夏、僕は無口な少女と出会った〜

凜 Oケイ

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第三部

@65 涙

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 僕が魏邏陽の死を事実として受け入れるには数日を要した。ユヅハの優しい説得がなければ僕は永遠に彼の死を信じることができなかっただろう。彼女は僕と一緒に医師から魏邏陽の死亡を告げられた。僕にとっては二回目だったが、僕はそのときもそれを否定することしかしなかった。ユヅハも親友を失って辛いはずなのに、僕にそれを彼女の口から説明しなくてはいけなかったのだ。
 ユヅハが面会に来た時は煙草の匂いが鼻についた。彼女は精神を安定させたい時に煙草を吸う癖がある。それが医学的に正しいのかはわからないが…彼女からその匂いがする時は大抵の場合かなりの負担がかかっている。僕が銃で撃たれたと聞いた彼女は気が気でなかっただろう。
 ユヅハにはある種の使命感があったのだと思う。彼女には邏陽が生きていると僕に誤魔化す手もあったはずだ。それは彼女にとっても何倍も負担が軽い。しかし彼女には僕に真実を理解させなければならないという使命感があった。でなければ僕がいつか本当に真実を知ったときに壊れてしまうと思ったのだろう。そして…自分でもそれは正しいと思う。
───深夜の病室。わずかな窓明かりと医療機器の発する光のみが光源だった。
 来客は忍び込むようにやってきた。
「ムカつく顔ね」
 李閲慕は僕に銃を向けた。黒いコートを着た彼女は暗い病室に馴染んでいる。彼女のブーツには雪がついていた。歩いてきたのだろうか。
「…君が無事で良かったよ」
 彼女と会うのは九月以来だ。彼女はその時のような整った髪型ではなくなっていた。髪は荒れ、顔もやつれている。…原因は一つだ。
 僕は向けられた銃から顔を逸らす。心臓がうるさく脈打つ。真っ黒な銃口から今にも銃弾が飛び出してくるのではないかと考えてしまう。こう考えてしまうのは間違いなく僕が銃弾で死にかけたからだろう。
「…銃を下ろしてほしい」
「黙りなさい」
 彼女が銃把を強く握り込み、革手袋がギチギチと音を立てた。僕はゆっくりと両手を上げる。彼女は僕の左手を見て何かに気づく。
「指を失ったのね。いい罰だわ」
「…罰にしては小さすぎるよ」
 李閲慕は大きな足音を立てて僕に歩み寄り、思い切り銃の底で僕の頬を殴った。
「ぐっ!」
 口の中に血の味が広がる。頭の傷がまた開くような気すらした。
「なんで邏陽を止めなかったの?」
 李閲慕の目が暗闇の中で不気味に光る。
「僕は…彼を車に乗せようとした。でも…彼が」
「拒否した?」
 彼女はゆっくりした動作で銃をコートの中に仕舞った。僕は力なく頷く。
「なら力づくにでも連れていきなさいよ!」
 李閲慕は僕の首を両手で摑む。親指で僕の喉仏を押し潰そうとする。僕は必死に彼女の手を摑んでやめさせようとする、しかし左手には力が入らなかった。
「やめ、」
「あんたが邏陽を殺したのよ!」
 自分の顔が真っ赤になるのがわかる。視界が少しづつぼやける。
「ちが…」
 首にかかる力が一層強くなる。今すぐにでも意識を失いそうだ。僕は咄嗟に右手を突き出す。そうすると鈍い音がして僕の首から手が離れた。
 僕は何度も咳き込む。一気に酸素が流れ込んでくる。前を見ると李閲慕が鼻血を流していた。彼女の顔にはとてつもない怒りが刻まれていた。僕は思わず謝罪の言葉を口にする。でないと殺される───直感がそう警告していた。
「ごめん、」
 彼女は右手を振りかざす、僕は逃げるようにベッドから転げ落ちた。癒えてない傷跡が鈍く痛む。ベッドから下りたはいいものの、僕は立ち上がることすらできない。右脚が折れているのだ。
「立ちなさい」
「僕だって邏陽に死んでほしくなんかなかったさ!」
 彼女は無言で僕の右肩を蹴った。ブーツの先端は硬く、痛みが骨まで突き抜ける。
「でも邏陽がそれを望んでたんだ…本当だ」
「だから何、言い訳しないでよ!」
 彼女のつま先が僕の股間にめり込んだ。信じられないような痛みに僕はうずくまる。吐き気すら覚える痛みだ。彼女は次の蹴りの準備体操とでも言いたげに地面につま先をコンコンとぶつける。僕はどうにか呼吸を整えて言葉を紡ぐ。
「…君は、気づいていたんだろう? 彼の自殺願望に…」
 李閲慕は無言で僕を見下ろす。
「僕は無力だ。彼を止められなかった、彼を車に乗せることすらできなかった…彼が撃たれるのをただ待つことしかできなかった…」
 目尻から涙がこぼれる。
「そうよ…」
 僕は李閲慕も泣いていることに気がつく。彼女は手で鼻血と涙を拭く。
「あんたを一生許さない」
「…そうだ、僕は許されるべきじゃない」
 彼女は僕の前にしゃがむ。彼女の表情がよく見えた。悲しみと絶望、そして怒り。
「あんた、萩原ユヅハを幸せにしなかったら…殺すから」
 僕が理解していないと彼女は思ったのか、そのまま言葉を続ける。
「それが邏陽の願いだったから。私はあの女は気に食わないけど…確かに邏陽の親友だった。それをないがしろにする真似はさせないわ」
「…わかっているさ」
「それもあんたの”罰”だわ」
「それってどういう…」
 彼女は質問には答えず、ポケットの中から小さな箱を取り出して僕に投げ渡した。箱はミントタブレットのケースほどの大きさだった。僕はゆっくりと箱を開ける。中に入っていたのは得体の知れない透明な直方体だった。丁寧にフィルムで包まれている。僕はそれを取り出して窓の明かりに照らしてみた。中にキラキラと煌めく筋が見える。
「記憶媒体だ」
 特殊なガラスにレーザーで情報を書き込む方法がある。古い技術だが安定性が高く、改竄も困難だ。
「邏陽の遺書よ」
「…用意していたのか」
 考えてみれば自然なことだ。彼は最初から死ぬつもりだったのだから。
「僕に渡して良かったのかい?」
「もう読んだし…邏陽の遺品は他にもあるから」
 僕は箱を閉じて握りしめる。
「邏陽は私なんかよりあんたに興味があったみたいじゃん…だからあんたに渡しといた方があいつも…」
 李閲慕は僕から顔を逸らし、肩を落として立ち上がった。数刻前の彼女を支配していた強烈な怒りは、もはや彼女の身体を去ったように見えた。彼女は病室の出口の方へと歩いていった。僕は彼女の背姿に魏邏陽と似た気配を感じた。それはこの世界に失望した人の気配だ。今ならわかる。
「李閲慕!」
 僕は彼女の名前を呼ぶ。彼女は振り向かずに足を止めた。
「僕にこんなことを言う権利はないけれど…君も、幸せになるべきだ。邏陽もきっとそれを望んでいる…間違っても自暴自棄になってはいけない」
 彼女はそれを聞いて、振り向くことも何かを言うこともせずに静かに病室を出ていった。
 僕は床にそのまま横になって小さな箱を右手で握りしめた。
 これが死だ。これが彼の望んだ死なのだ。今でも信じられなくなる時がある。隣の病室に行ったら彼が眠っていたりしないだろうかとついぞ考えてしまう。しかし現実は違う。彼という存在は永遠に消え去った。記憶と記録が残っても彼はいない。
 彼の優しい微笑みを見ることは二度と叶わない。僕は九月以降、彼とまたどこかを旅することを夢見ていた。またユヅハと彼の淹れたお茶を飲みたいと思っていた。また彼の話す話を聞きたかった。しかし夢は永遠に夢となった。二度と叶わない夢だ。
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